第19話 公聴会前夜の約束
明日で、全部が決まる。
同居五週間目の朝。官舎の書斎で、机の上に書類を並べた。
帳簿照合報告書。横領金額確定書──百二十金貨。魔力痕跡鑑定書。神託認定手続き不備報告書。婚姻令国王承認欠落報告書。停職命令の匿名告発手続き不備記録。再審査要求の却下記録。
七通。
五週間で積み上げた記録が、机の上に扇状に広がっている。一枚一枚に日付と署名がある。フリッツ局長の承認印がある。監査局の公印がある。宮廷省の回答印がある。
(……これが、五週間の重さか)
軽い。紙としては、驚くほど軽い。でも一枚ずつに載っている事実の重さは、書記官の年俸八年分の横領と、一人の監査官の人生を潰しかけた冤罪だ。
午前十時。局間便の配達音が玄関で鳴った。
封書を受け取った。魔術監査局の公印。差出人はハルトマン鑑定官。
封を切った。
鑑定報告書。最後の一枚。
『鑑定対象:宮廷財務局副次長ディートリヒ・ヴァイスの名で提出された、魔術監査局監査官ヴェイン・アーレンスに対する収賄告発書(告発者欄「匿名」)。
鑑定結果:告発書の筆記に残存する魔力痕跡は、宮廷財務局副次長ディートリヒ・ヴァイスの登録魔力と一致する。
一致。
注:先行する鑑定報告書(帳簿改竄・経費水増し・閲覧制限文書)における魔力痕跡とも同系統であり、一連の行為が同一人物によるものと認定するに足る水準と判断する。』
「高い類似性」ではなく、一致。
鑑定書を机に置いた。手が震えなかった。もう、この手の衝撃で震える段階は過ぎている。
すべてが繋がった。
ヴァイスが三年間にわたり百二十金貨を横領した。ヴェインの予備監査がその端緒を掴みかけた。ヴァイスはヴェインを排除するために、自ら告発書を偽造し、匿名で提出した。告発者の署名を書かなかったのは、自分の名前を隠すためだ。枢密院の承認も取らなかった──手続きを守れば、自分の関与が露見するから。
そしてオスカー殿下が、白い結婚という形でヴェインの人事を掌握しようとした。神託を使い、婚姻令を使い、再審査要求を使い──全部、手続きの穴を突いて仕掛けてきた。
でも、手続きの穴は手続きで塞げる。
七通の書類。七つの穴。全部、条文と記録と鑑定で塞いだ。
八通目を加えた。告発書の鑑定報告書。机の上に、八枚の書類が並ぶ。
(……これで、反論できない)
百二十金貨の横領。帳簿の魔力痕跡。告発書の魔力一致。神託の認定不備。婚姻令の承認欠落。匿名告発の手続き瑕疵。閲覧制限の管轄外。再審査要求の発動権なし。
八つの証拠が、一本の線になった。一つ一つは紙切れだ。でも八枚が並んだとき、それは壁になる。反論を通さない壁。
◇
午後。証言原稿を書いた。
公聴会での証言は、時系列に沿って証拠を提示する。感情は載せない。事実と根拠だけを、正確に。
ヴェインは別室にいる。停職中の彼には、公聴会での鑑定人としての証言が求められている。証人の私と鑑定人の彼が、事前に証言内容を擦り合わせることはできない。手続き上、独立性が求められるからだ。
一人で書いた。
五年前から、ずっとそうだ。二百四十七件の業務改善も、一人で起案して、一人で提出して、一人で局長に名前を奪われた。
でも今回は違う。
一人で書いているけれど、壁一枚の向こうに、同じ証拠を読んでいる人がいる。停職中の五週間を、帳簿と書き込みと焼き栗と上着と傘と──手のひらで、支えてくれた人が。
(……感傷に浸ってる場合じゃない)
証言原稿を読み返した。冒頭から末尾まで。事実の羅列に、漏れがないか確認する。
百二十金貨。ヴァイス。オスカー殿下。カタリナ。
加害者の名前を帳面に書くたびに、指先がインクで汚れた。いつものことだ。
明日、この原稿を持って公聴会に行く。春の公聴会のときと同じ鞄に、今度は八通の証拠と証言原稿を入れて。
……あのときは五冊の控えだった。五年分の、二百四十七件分の重さ。
今回は五週間で八通。期間は短いのに、重さは変わらない。いや──もしかしたら、今回の方が重い。他人の人生がかかっているから。
帳面を閉じた。窓の外は暗くなりかけていた。秋の終わりの日は短い。
◇
居間の灯りをつけたのは、鐘が七つ鳴ってからだった。
テーブルの上に証拠の束を置いて、紅茶を淹れた。二人分。この五週間で、夕方に二人分の紅茶を淹れるのは習慣になっていた。いつからだったかは覚えていない。たぶん、同じテーブルで夕食を取るようになった頃から。
書斎の扉が開く音がした。
ヴェインが出てきた。白いシャツ。袖をまくった腕。灰色がかった紺の上着は椅子の背にかけてある──六日前の雨の夜、私の肩にかけてくれた、あの上着。
「紅茶、淹れました」
「ありがとう」
向かいに座った。紅茶のカップを手に取った。指が長い。鑑定で文書に手をかざすときの、あの指だ。
沈黙。時計の振り子が揺れる音。紅茶の湯気が、二つのカップから立ち上っている。
「……告発書の鑑定結果が、今朝届きました」
「聞いた。ハルトマンから、局間便で連絡があった」
「一致でした。『高い類似性』ではなく」
「ああ」
ヴェインがカップを置いた。灰色の瞳が、テーブルの上の証拠の束に向けられた。八通の書類。それから、私の顔に移った。
「全部、あなたが揃えた」
「書記官の仕事です」
「仕事じゃない」
声が低くなった。いつもの半音低いどころではない。喉の奥から搾り出すような音。帳簿を並んで読んだ夜に「あなたの目を信じている」と言ったときの声。ペン立てのことを問われて「望んでいた」と言ったときの声。
でも、今日はもっと──近い。
「マリエッタ」
名前。
私の名前。
この人が、私の名前を呼んだのは──初めてだった。
三年半の退勤挨拶は「ホルン書記官」。同居が始まってからも「ホルン書記官」か、最近は「あなた」。名前で呼ばれたことは、一度もなかった。
心臓が一つ跳ねた。馬鹿みたいに、たった一語で。
「……はい」
声が出た。出たことに自分で驚いた。
ヴェインの右手が、テーブルの上で動いた。カップを離れて、証拠の束を離れて、テーブルの中央に置かれた。掌を上に向けて。
六日前の雨の日、私の指を握ったのと同じ手。
「白い結婚ではなく」
低い声が、一語ずつ、慎重に言葉を選んでいた。
「あなたと、生きたい」
居間の時計が、振り子を一つ揺らした。
紅茶の湯気が、二つのカップの間で漂って、消えた。
──答えが、胸の中にある。
あるのに、喉まで来ているのに、唇の手前で止まっている。五年間と五週間、感情を帳面の行間にしまい込んできた人間は、一番大事な言葉ほど声にするのが下手だ。
(……今じゃない)
今じゃないのは、答えたくないからじゃない。答えの前に、やることがあるからだ。
「明日、全部終わらせます」
声は震えなかった。
ヴェインの灰色の瞳が、わずかに揺れた。テーブルの上の右手は、掌を上に向けたままだった。
私は──その手に、指先だけ触れた。
握らなかった。六日前のように指を絡めることもしなかった。ただ、人差し指と中指の先で、彼の掌の中央に触れた。
答えの代わりに。まだ声にできない代わりに。
ヴェインの指が、わずかに閉じかけて──止まった。
触れただけ。それだけで、十分だった。
「……待っている」
二語。この人の言葉はいつも短くて、全部が入っている。
私は手を引いて、立ち上がった。
「おやすみなさい、ヴェイン」
名前で呼んだ。三度目。もう舌に馴染んでいた。
◇
書斎に入って、扉を閉めた。
机の前に座った。胡桃のペン立て。羽根ペン。灯りの下で、木目がいつもの赤みを帯びている。
帳面を開こうとして──やめた。
今日の記録は、帳面には書けない。
前の世界のことを、思い出していた。
日本、という国の、小さな役所。毎朝五時半に起きて、終電で帰って、コンビニの弁当を食べて、眠って、また五時半に起きる。休日は月に二回あるかないかで、その二回も上司から電話が来る。
婚姻届を出す相手はいなかった。相手を探す時間がなかった。友人と会う時間も、趣味に使う時間も、自分の体の異変に気づく時間さえ。
ある朝、駅のホームで意識が途切れた。
最後に考えたこと。
「もっと生きたい」ではなかった。
「誰かの隣で、時間を共有したかった」。
それが、前の人生の最後の一念だった。
死ぬほど忙しくて、死ぬほど疲れていて、それでも最後に欲しかったのは休息ではなく──隣にいる人だった。
この世界に来て、最初に決めたのは「自分の時間を守る」こと。退勤の鐘が六つ鳴ったら帰る。誰の都合にも人生を差し出さない。
守れた。五年半、守り続けた。
でも──時間を守っただけでは、隣に誰もいない。
壁一枚の向こうに、灯りが灯っている。
あの人が、いる。
靴べらを揃えて、ペン立てを選んで、焼き栗を置いて、上着をかけて、傘を傾けて、手を握って──「あなたと生きたい」と言った人が。
焼き栗。
ふと思い出した。同居三日目の朝、テーブルに置いてあった紙袋。底の店名がインクで擦れて読めなかった。
でも今日、書斎の棚を整理していたとき、紙袋が鞄の底から出てきた。インクが乾いて、文字が少し浮かび上がっていた。
春の屋台と、同じ店名だった。
公聴会の日に分かち合った、あの焼き栗と同じ店。宮廷の正門の前で「明日も、定時に」と約束した日の味。
わざわざ取り寄せたのだ。この人は。同居が始まる前から、あの味を、ここに置こうと決めていた。
目の奥が熱くなった。
喉が締まった。
泣くつもりはなかった。この人生でも前の人生でも、泣いて解決したことは一度もない。
でも。
一滴、帳面の上に落ちた。
二滴目を拭おうとして、やめた。
泣いていい。誰も見ていない。書記官の帳面に涙の染みがついても、事実は変わらない。
三滴目は、拭わずにそのまま流した。
五年と五週間、ずっと飲み込んできたものが、指の間から零れるように落ちていく。怒りでも悲しみでもない。名前をつけるなら──。
(……ああ。これが、「嬉しい」か)
嬉しい。
誰かが隣にいてくれることが。隣にいることを「望んでいた」と言ってくれることが。自分の時間を守りながら、それでも誰かと時間を分かち合えることが。
涙が止まるのを待って、帳面を閉じた。
染みが一つ、ページの端に残った。明日の公聴会にこの帳面は持っていかない。これは記録ではなく、ただの──。
ただの、答え。
窓を少しだけ開けた。秋の終わりの夜風が入ってきた。冷たくて、乾いていて、前世の記憶の匂いはしなかった。
明日、六つ目の鐘が鳴るまでに、終わらせる。
そして──鐘が鳴ったら、あの人に、答えを返す。
帳面じゃなく。涙じゃなく。声で。




