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「その他大勢」に転生したので、定時退勤を死守します【番外編投稿予定!】  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第18話 雨と手のひら

 秋の雨は、前世の記憶の匂いがする。


 湿ったアスファルト。駅のホームに立ち込める人混みの体温。折り畳み傘の骨が錆びた匂い。──あの世界の雨は、いつも疲労と一緒だった。


 目を覚ましたとき、窓の外に雨粒が当たる音がしていた。同居四週間目の朝。官舎の天井は石造りで、雨音が低く響く。隣の部屋の気配はない。アーレンスさんは、今朝も先に起きている。


 台所のテーブルにパンとチーズ。焼き栗はない。毎朝あるわけではないことは、もう知っている。


 (……別に、期待してない)


 鞄を持って官舎を出た。雨は細く、傘を差すか迷う程度だった。


    ◇


 書記局に着いて、受付台帳を開いた直後だった。


 局間便の棚に、見慣れない紋章の封書がある。銀の肩章を模した封蝋。第二王子殿下の近衛付き文書の書式だ。


 フリッツ局長が局長室から出てきた。封書を手にしている。もう読んだのだろう。


「ホルン書記官。また来た」


 また。その一言に、この数週間の蓄積が滲んでいる。神託の認定不備、匿名告発の手続き瑕疵、閲覧制限の管轄外却下、婚姻令の国王承認欠落。全部、手続きの穴を突いて崩してきた。


 だから──今度は、私自身を潰しに来たということだ。


「『宮廷書記局正規書記官マリエッタ・ホルンの資格について、登用手続きの妥当性に疑義があるため、再審査を要求する。第二王子オスカー・ガリスティア』」


 フリッツ局長が文面を読み上げた。


 再審査。資格そのものを問う。帳簿が読めるから厄介だ、なら帳簿を読む資格を奪えばいい──そういう発想だろう。


 指先が冷たくなった。一瞬だけ。


 (──落ち着きなさい。手続きの問題は、手続きで返す)


 棚から宮廷官吏服務規程の写しを引き出した。付箋が何枚も貼ってある。この数週間で何度開いたかわからない。


「第八十五条」


 声に出して読んだ。


「『官吏の資格に対する再審査は、重大な非違行為が認められた場合に限り、枢密院の決定により実施する。再審査の発動権は枢密院に専属し、他の機関及び個人はこれを行使できない』」


 条文は明確だった。


 再審査を命じられるのは枢密院だけ。書記局にも、王族個人にも、その権限はない。


「局長。本要求は第八十五条に照らし、発動権のない者からの要求です」


「ああ。管轄外だ」


 フリッツ局長がオスカー殿下の文書の余白に赤インクで一行書き加えた。


 『宮廷官吏服務規程第八十五条に照らし、本要求は発動権を欠くため受理しない。──書記局長フリッツ・レーマン』


 局長印。日付。


「返送は午後便で」


「承知しました」


 封書を局間便の棚に戻した。


 それだけだった。


 神託の空欄も、匿名告発の瑕疵も、閲覧制限の管轄外も、婚姻令の承認欠落も。全部、条文と記録で返してきた。今回も同じだ。


 ──同じなのに。


 自席に戻って、呼吸を一つ整えた。手は震えていない。震えていないけれど、胸の奥に細い棘のようなものが残っている。


 資格を問われた。五年間の二百四十七件を積み上げて、公聴会で証言して、やっと手に入れた正規書記官の席を。「お前にその資格はない」と言われた。


 (──怒っている。私は怒っている)


 怒りは帳面には書けない。書けないから、代わりに返送文書の清書を丁寧に、一画の乱れもなく仕上げた。


    ◇


 昼過ぎ、宮廷の中庭に出た。雨はいつの間にか上がっていて、石畳が濡れた光を反射している。昼の散歩ではない。給湯室の水が切れたので、中庭の井戸まで汲みに来ただけだ。


 井戸の傍に、淡い金の髪が見えた。


「ホルン書記官」


 エリーゼ・フォン・クライスト嬢。秋の外套を羽織り、手には薄い書類鞄を持っている。社交界に復帰してからは、宮廷にも頻繁に出入りしているらしい。


「エリーゼ嬢。お元気そうで」


「元気ではありませんわ。宮廷の空気が、少し濁っていますもの」


 彼女は井戸の縁に手をかけて、声を落とした。


「お耳に入れておきたいことがあります。オスカー殿下がヴァイス副次長と密会を重ねていらっしゃいます。公聴会の阻止が目的のようですが──」


「支持は集まっていますか」


「いいえ。半年前のお兄様の件がありますから。同じ轍を踏む側につきたがる貴族は少ないと、父も申しておりました」


 ルートヴィヒ公爵。第1巻の公聴会で、娘の名誉回復のために傍聴席から声を上げた人だ。


「ただ」


 エリーゼの声が低くなった。


「焦っていらっしゃいます。焦った方は、手続きの外で動くことがあります。お気をつけて」


「ありがとうございます、エリーゼ嬢」


「お互い様です。あの日、閲覧結果の写しをくださったのは、ホルン書記官ですもの」


 彼女は微笑んで、中庭を去っていった。


 手続きの外。


 今朝の再審査要求は、まだ手続きの内側だった。条文で返せる攻撃だった。手続きの外に出てこられたら──その対処は、書記官の職域を超える。


 水を汲んで、書記局に戻った。


    ◇


 退勤の鐘が六つ鳴った。


 外に出ると、雨が本降りになっていた。朝より強い。石畳を叩く音が、建物の壁に跳ね返って重なる。


 傘を持ってきていなかった。朝の時点では小降りだったから、官舎に置いてきた。


 正門の庇の下で足を止めた。雨脚を見極める。走れば官舎まで五分程度だが、鞄の中には今日の記録と返送文書の控えがある。濡らしたくない。


 雨音の向こうから、足音が聞こえた。


 正門の外。石畳の通りの向こうから、傘を差した人影が歩いてくる。


 黒い傘。飾り気のない、見覚えのある傘。


 ──あの傘だ。


雨の日に差し出された、あの黒い傘。


 ヴェイン・アーレンス。白いシャツに灰色がかった紺の上着。監査官服ではない。停職中の、官舎で着ている普段着。その裾が雨に濡れている。靴にも泥がついている。宮廷の正門付近は石畳だから、泥がつくのは少し離れた通りを歩いてきた証拠だ。


 傘は、既に開いた状態だった。


 (……いつから、ここに)


 ヴェインが正門の庇の下に入った。傘を少しだけ傾けた。あの日と同じ角度。


「……濡れますよ」


 声は低くて、平坦で、いつもと変わらない。なのに、雨の音の中ではいつもより近くに聞こえた。


「アーレンスさん。停職中に宮廷の近くをうろつくのは──」


「敷地の外だ。規則に抵触しない」


 規則を確認している。この人らしい。


 傘の下に入った。二人分には少し狭い。あの日と同じだ。彼の右肩が雨に濡れることも。


「帰りましょう」


 歩き出した。石畳を踏む靴音が二つ分。雨の通りを、傘一本で並んで歩く。


 三歩、四歩、五歩。


 ヴェインの左手が動いた。


 傘を持っていないほうの手。右手。その指先が、私の左手に触れた。


 触れただけではなかった。


 指が、私の指の間に滑り込んだ。冷たい指先。この人の手はいつも冷たい。傘の日も、書庫で帳簿を渡したときも。でも今日の冷たさには、力が込められていた。


 握っている。


 (──握って、いる)


 振り払わなかった。


 振り払う理由を、探さなかった。


 前の人生で、誰かの手を握った記憶がない。握られた記憶もない。満員電車で隣の人と肘が触れるくらいのことはあったけれど、あれは接触であって、選択ではない。


 今、この手は、選択だ。この人が選んで、私の指を握っている。


 そして私は、選んで、握り返している。


 雨音が近い。傘の布地を叩く音が、頭のすぐ上で鳴っている。彼の右肩はやはり濡れていた。傘の角度は変わっていない。


「……今日も、何かあったのか」


「再審査要求が来ました。第八十五条で却下しました」


「そうか」


「条文を読み上げただけです。いつもと同じ」


「同じではない」


 ヴェインの声が、ほんの少しだけ低くなった。


「あなたの資格を──」


「書記官の資格は、枢密院しか問えません。条文がそう言っています」


 遮った。声が思ったより硬かった。


 ……怒っている。まだ怒っている。あの再審査要求に。五年間の記録を、二百四十七件を、全部なかったことにしようとした、あの紙切れに。


 指に力が入った。握り返す力が、さっきより強くなっている。自分の指なのに、制御できていない。


 ヴェインの手が、少しだけ握り返してきた。


 冷たい指が、温まり始めていた。


「……怒っていい」


 低い声。


「怒っていい。それだけのことをされた」


 喉の奥が、きゅっと締まった。


 怒っていい、と言われたのは初めてだった。前の人生でも、この人生でも。怒りは非生産的で、怒っても問題は解決しなくて、だから帳面に事実を書いて感情は飲み込んで──。


「……ありがとう」


 それだけ言った。声が少しかすれた。雨のせいだと思うことにした。


 官舎の玄関まで歩いた。百歩くらいの距離だったはずだ。もっと長かったような気もする。


 庇の下で、手が離れた。


 左手の指の間に、彼の体温の残像があった。冷たかったはずなのに、最後のほうは温かかった。


    ◇


 官舎に入って、靴を脱いだ。胡桃の靴べらが二つ、いつもの位置にある。ヴェインの靴を横に並べた。泥がついている。宮廷の石畳ではなく、もっと柔らかい地面の泥。


 (……どこを歩いてきたんだろう、この人は)


 泥の中に、小さな茶色い欠片が混じっているのが見えた。丸くて薄い。栗の皮のようにも見える。


 ──気のせいだろう。


 気のせいだと思うことにして、居間に入った。


 テーブルの上に封書が一通。官舎の郵便受けに届いていたらしい。魔術監査局の公印。


 開封した。


 『魔術監査局は、宮廷財務局に係る会計不正、文書偽造、職権濫用、及び監査官に対する冤罪告発に関し、国王陛下の裁可を得た上で、七日後に公聴会を開廷することを請求する。


 出席要請者:宮廷財務局副次長ディートリヒ・ヴァイス(被告として召喚)、第二王子オスカー・ガリスティア殿下(関係者として召喚)、聖女候補カタリナ・エルスト(関係者として召喚)、宮廷書記局書記官マリエッタ・ホルン(証人)、魔術監査局監査官ヴェイン・アーレンス(鑑定人)。その他関係者の出席は追って通知する。』


 七日後。


 全てが、この一点に向かっている。


 神託の空欄。匿名告発の瑕疵。百二十金貨の横領。婚姻令の承認欠落。今日の再審査要求の却下記録。一つずつ積み上げてきた証拠と記録が、七日後に一つのテーブルの上に並ぶ。


 通知書をテーブルに置いたとき、書斎のほうから足音がした。ヴェインが扉の前に立っていた。彼も通知を受け取っていたのだろう。灰色の瞳が、私の手元の封書を見て、それから私の顔に移った。


「七日後です」


「ああ」


「証拠は揃っています。帳簿照合報告書、鑑定結果、手続き不備の記録。全部、紙の上にある」


「……あなたが揃えた」


「書記官の仕事です」


 いつもの台詞。いつもの声。でも今日は、左手の指の間にまだ温もりが残っていて、いつもと同じ声で言うのが少しだけ難しかった。


「アーレンスさん」


「ヴェインでいい。ここは宮廷ではない」


 一週間前にも同じことを言われた。書庫で帳簿を並べて読んだ夜に。あのときは呼び方を後回しにした。


「……ヴェイン」


 声に出したのは二度目だった。一度目より、少しだけ舌に馴染んだ気がする。


「七日後、終わらせます。全部」


 ヴェインは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。灰色の瞳が、少しだけやわらかく見えた。


 書斎に入った。灯りをつけた。胡桃のペン立てが、いつもの赤みを帯びている。


 帳面を開いて、今日の記録を書き始めた。再審査要求の到着と却下。エリーゼからの情報。公聴会通知の受領。


 最後に一行、迷って、書いた。


 「雨、傘、左手」


 三語。


 それだけ書いて、帳面を閉じた。


 窓の外では雨がまだ降っている。秋の雨は冷たくて、前世の記憶の匂いがする。でも今日の雨の記憶は、冷たさではなく──指の間に残った温度のほうが、強い。


 七日後に、すべてを話す。


 私の名前で、私の声で、私の記録で。


 ──そして七日後の帰り道には、もう一度、あの手があるだろうか。

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― 新着の感想 ―
>彼の右肩が雨に濡れることも。 中略 >傘を持っていないほうの手。右手。その指先が、私の左手に触れた。 右肩が濡れる、ということはヴェインが右、マリエッタが左にいるはず。そのヴェインの右手がマリエッ…
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