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「その他大勢」に転生したので、定時退勤を死守します【番外編追加!】  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第16話 百二十金貨の影

 同居二週間目の朝、書記局に出勤すると、フリッツ局長が局長室の前で待っていた。白髪交じりの髪を指で梳き、目の下に濃い隈を作っている。


「ホルン書記官。再請求の回答期限が一昨日で切れた。財務局からの正式回答はない」


「はい」


「書記局規程第十四条の二。正当な理由なき閲覧妨害は懲戒事由に該当する。無回答はこれにあたる」


 フリッツ局長の声は乾いていた。この五日間、局長なりに何かを考え、何かを決めたのだろう。


「書記局として、監査局に正式な照会書を提出する。内容は財務局の帳簿一式の差押え要請だ。起案は私がやる。ホルン書記官は連絡官として監査局に出向いてくれ」


(……局長が自分で動く)


 五日前、ヴァイス副次長の閲覧制限を却下したとき、フリッツ局長は再請求書の発送を指示しただけだった。あのときはまだ、書記局の通常手続きの範囲で処理しようとしていた。


 それが、正式照会。帳簿の差押え要請。書記局長名での公式文書だ。


「承知しました」


 フリッツ局長が起案した照会書に局長印を押し、私が受領して書記局を出た。



 監査局は書記局の二つ隣の棟にある。渡り廊下を抜けて、秋風に当たりながら歩いた。同居を始めてから、この渡り廊下はヴェインとすれ違う場所ではなくなっている。停職中の彼は宮廷に入れない。


 監査局の受付で照会書を提出した。対応したのは、名札に「ハルトマン」と書かれた鑑定官だった。年齢はヴェインと同じくらいか、少し上。分厚い眼鏡の奥の目が、照会書を読みながら鋭く動いた。


「書記局長名の差押え要請か。重いな」


「重い案件です」


「アーレンスが停職中でなければ、彼が担当するところだが」


 ハルトマンはそう言って、照会書に受理印を押した。


「差押えは本日中に執行する。書記局からの連絡官は、照合作業に立ち会うか」


「はい。書記官として帳簿の照合を行います」


「では資料室を使ってくれ。帳簿が届き次第、そちらに運ぶ」


 午前のうちに、財務局から差し押さえた帳簿が監査局の資料室に運び込まれた。木箱が三つ。蓋を開けると、帳簿が整然と並んでいる。


 三年分。表帳簿十二冊に加え、控え帳簿がさらに八冊。合わせて二十冊。


(……多い)


 多い。官舎の書庫で読んだ十二冊の倍近い量だ。控え帳簿は、通常の監査では滅多に引き出されない内部記録で、費目ごとの配分明細が記載されている。


 これがあれば、全費目の配分額と支出額を突き合わせられる。


 机に帳簿を積み上げた。椅子に座った。羽根ペンとインク壺を置いた。資料室の窓から秋の午後の光が差し込んでいる。


 やるしかない。


 一冊目を開いた。



 退勤の鐘が六つ鳴ったのは、三冊目の途中だった。


 鐘の音を聞いて、反射的にペンを置きかけた。五年間と半年、退勤の鐘が鳴ったら帰る。それが私の唯一の信条だった。前の人生で、鐘を無視し続けて死んだのだから。


(──でも)


 ペンを握り直した。


 今日は、例外にする。


 自分の意志で、自分の判断で。誰かに命じられたからではない。この帳簿を閉じて明日に回せば、一晩のあいだにヴァイスが何をするかわからない。差押えは実行されたが、ヴァイスの手元にはまだ原本がある。控え帳簿の数字を照合できるのは、今しかないかもしれない。


 鐘の余韻が消えた。資料室に私だけが残った。


 四冊目。五冊目。消耗品費の差額は既に分かっている。ここからは未踏の領域だ。


 交際費。配分額と支出額の突き合わせ。二年目後半、前期比で三割の乖離。ヴェインが官舎の書庫でつけていた丸印と同じ場所だ。数字が一致する。


 通信費。一年目は正常。二年目の第三四半期から、配分額を超える支出が発生している。超過分は四半期あたり五金貨。


 修繕費。二年目の後半に集中した突出がある。施設修繕の名目で、伝票と合わない支出が八金貨分。


 人件費の臨時手当。三年目に不自然な増額。明細を見ると、存在しない「臨時人員」への支払い記録。


 数字を一つずつ書き出した。費目ごとに、配分額・支出額・差額を三列で並べた。前の世界で叩き込まれた様式だ。こちらの世界にこの書き方はないけれど、見やすさは万国共通だと思う。


 最後の帳簿を閉じたとき、窓の外は暗くなっていた。


 差額の合計を、縦に足した。


 百二十金貨。


 ……百二十金貨。


 二十七金貨ではなかった。消耗品費だけの話ではなかった。交際費、通信費、修繕費、人件費。五つの費目にわたって三年間、少しずつ少しずつ、数字が膨らんでいた。正規書記官の年俸が十五金貨だから、八年分だ。


(……一つの費目だけなら気づかれない。複数に散らせば、照合する人間がいない限り──)


 照合する人間は、いなかった。この世界に複式簿記はない。費目ごとの支出しか見ない単式簿記では、配分額との突き合わせが行われない。だから三年間、誰にも見つからなかった。


 資料室の扉を叩く音がした。


「ホルン書記官。鑑定が終わった」


 ハルトマン鑑定官が入ってきた。手に鑑定報告書を持っている。眼鏡の奥の目が疲弊している。彼も退勤を過ぎて作業を続けていたのだ。


「差し押さえ帳簿のうち、差額が発生した費目の記帳に関する魔力痕跡を鑑定した」


 報告書を受け取った。


「各費目の差額部分の記帳者は、すべて同一人物の魔力特性を示している。そして──」


 ハルトマンが眼鏡を押し上げた。


「その魔力特性は、宮廷財務局副次長ディートリヒ・ヴァイスの登録魔力と高い類似性がある」


 高い類似性。直接一致ではないが、鑑定上の表現としては限りなく黒に近い灰色だ。春の公聴会でも、魔力痕跡の「高い類似性」がブルーメ元局長の処分根拠の一つになった。


「この鑑定結果は、監査局の公式報告書に記載されますか」


「する。アーレンスの停職案件と合わせて、局長に上申する」


 報告書を読み終えて、私は自分の照合結果──費目別の差額一覧表を清書した。百二十金貨の数字を、監査局提出用の書式に落とし込む。署名。日付。


 二枚の書類が揃った。私の照合結果と、ハルトマンの鑑定報告書。


「ハルトマン鑑定官。ご協力に感謝します」


「礼を言う相手が違う。この照合をやったのはあなただ」


 ハルトマンは報告書の控えを棚に入れながら、低く言った。


「アーレンスが言っていた通りだ。書記局に、目のいい人間がいる、と」


 不意打ちだった。


 ヴェインが。私のことを、同僚にそう言っていた。


「……お先に失礼します」


 それだけ言って資料室を出た。顔が熱いのは、疲労のせいだと思うことにした。



 官舎に着いたのは、鐘が九つを数えてからだった。


 玄関を開けた。靴を脱いだ。胡桃材の靴べらが暗がりの中で木目を光らせている。


 居間に明かりはなかった。


 廊下を歩いて書斎に向かおうとしたとき、暗い居間から足音がした。


 ヴェインが立ち上がる気配。椅子がかすかに軋む音。


 それから、肩に重みが落ちてきた。


 布の感触。温かい。体温が移っている。ヴェインの上着だ。濃紺の、監査官服ではない、官舎で着ている普段着の上着。ずっと手元に置いていたのか、生地がほのかに温もりを帯びている。


 暗がりの中で、彼の顔は見えなかった。声だけが聞こえた。


「……遅かった」


 責めているのではない。確認だ。この人の言葉の短さには、もう慣れてきた。


「定時退勤、守れませんでした」


 我ながら情けない苦笑が漏れた。半年と二週間、一日も破らなかった信条を、今日破った。


「……今日は、例外だ」


 例外。


 この人が「例外」という言葉を使うのを、初めて聞いた。規則を守る人間が、規則の外側にあるものを認めるときの声は、思っていたよりやわらかかった。


「百二十金貨です」


 報告するつもりはなかった。口が勝手に動いていた。


「差額の合計。消耗品費だけじゃなかった。交際費、通信費、修繕費、人件費。五つの費目にわたって三年分。ヴァイス副次長の魔力痕跡と高い類似性が出ました」


 暗がりの中で、ヴェインが息を呑む気配がした。


「……百二十」


「ええ」


 沈黙が数秒。居間の時計の振り子が揺れる音だけが響いた。


「あなたは……一人で、全費目を」


「帳簿を読むのは私の仕事ですから」


 肩の上着がずり落ちかけた。ヴェインの手が、上着の襟を直した。指先が首筋のすぐそばを通ったが、触れはしなかった。


「……ありがとう」


 春の渡り廊下の挨拶とも、一昨日の書庫の「信じている」とも違う声だった。もっと低くて、もっとかすれていて、暗闇のせいか輪郭がぼやけて聞こえた。


「明日、監査局に報告書を提出します。定時には帰ります」


「ああ」


 書斎に入った。鞄を置いて、灯りをつけた。羽根ペン立ての胡桃材が、灯りの下でいつもの赤みを帯びている。


 肩にはまだ上着がかかっていた。脱ぐタイミングを逃した。脱げばいいのに、生地に残った温もりが、今日一日の疲れに沁みて、すぐには手放せなかった。


(──疲れてるのよ。それだけ)


 それだけだと思うことにして、明日の段取りを紙に書き出した。


 百二十金貨。数字は確定した。ヴァイスの魔力痕跡との類似も出た。あとは公式報告書の提出と、証拠の保全。


 ただ──フリッツ局長が今朝、帳簿差押えの執行を指示したとき、一つ付け加えていた。


「監査局の建物の近くで、見慣れない人影があったそうだ。宮廷の者ではないが、肩章の紋様が第二王子殿下の近衛に似ていたという報告がある」


 オスカー殿下の側近。婚姻令に署名した第二王子。


 ヴァイスだけではない。その後ろにいる人間が、動き始めている。


 上着をようやく脱いで、椅子の背にかけた。濃紺ではなく、灰色がかった紺。官舎の灯りで見ると、ヴェインの瞳の色に少し似ている。


(……似てるとか、今考えることじゃないでしょ)


 帳面を閉じた。窓の外は暗い。秋の夜は深くて、鐘が六つ鳴ってから随分経った。


 明日は定時に帰る。百二十金貨の先にある影が何であれ、退勤の鐘を守る。


 それだけは──あの人との、最初の約束だから。

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