第15話 胡桃の焼印
書庫の帳簿に、書き込みが増えていた。
朝、官舎の書庫に入ったのは、昨夜開きっぱなしにしていた帳簿を片付けるためだった。机の上に三冊。私が閉じた二冊と、ヴェインが開いたままにしていた一冊。
一冊目を閉じようとして、手が止まった。
私が書き出した数字の横に、別の筆跡がいくつも加わっている。交際費、通信費、修繕費。一昨日の夜には確認していなかった費目に、小さな丸と走り書きのメモ。インクの色が私のものより薄い。ヴェインが使っている監査局支給の灰色インクだ。
(……いつの間に)
一昨日、私が先に書庫を出たあとだ。たぶん夜通し。停職中で眠れない夜を、帳簿に向き合って過ごしたのだろう。
交際費。一昨日の消耗品費と同じパターンで、二年目の後半から不自然に跳ねている。ヴェインの丸がついた数字を追うと、跳ね方が消耗品費より大きい。
裏帳簿は、私が思っていたより深い場所にあるのかもしれない。
帳簿を閉じ、棚に戻した。
そのとき、手元が視界に入った。帳簿を収めた棚板。樫材。角張った造り。書庫の棚も、書記局の備品台帳に載っている標準仕様だ。
ふと、書斎の方に目が向いた。
書斎の机の右端に置いてある羽根ペン立て。丸みのある形。赤みを帯びた木目。
──樫じゃない。
書庫を出て、書斎に入った。ペン立てを持ち上げた。底を返す。小さな焼印。丸い葉の紋様の中に、職人の屋号らしい二文字。
玄関に向かった。同居初日から並んでいた靴べら。右側の一本を裏返した。
同じ焼印。同じ丸い葉。同じ二文字。
胡桃材。どちらも胡桃材だった。
昨日確認した備品台帳の控えを頭の中でもう一度たどった。書記局の備品発注記録に、過去三年間で胡桃材の物品は一件もない。官舎の管理台帳にも該当なし。前の住人の忘れ物にしては使用感がなさすぎる。
つまり、これは書記局が用意したものではない。
靴べらを元の位置に戻した。
アーレンスさんが、官舎に入る前に──自分で選んで、ここに置いた。
(……考えすぎよ)
考えすぎだと思う。思うのだけれど、胡桃材は、私が書記局でずっと使っている羽根ペンの軸と同じ木だった。ペン立てのサイズも、太軸のペンがちょうど収まる形をしている。
偶然で揃う組み合わせではない。
鞄を持って、官舎を出た。今日は考えるより先に、やることがある。
◇
書記局に着いた。
昨日の追加照会──全費目の詳細明細の閲覧申請──は、昨日の午後便で財務局に届いているはずだ。回答には通常二日から三日かかる。
午前の業務をこなしていると、昼前に局間便が届いた。
封筒が一通。差出は宮廷財務局。宛先は宮廷書記局長。
フリッツ局長が封を切った。読んだ。眉が寄った。
「ホルン書記官」
席まで来て、紙を差し出した。
差出人はディートリヒ・ヴァイス宮廷財務局副次長。
『書記局より申請のあった経費明細書の閲覧について、現在進行中の監査案件に関わる機密事項を含むため、閲覧を制限させていただきます』
署名はヴァイス副次長本人。決裁印も副次長の個人印。
追加照会への回答ではなかった。照会の内容に答える前に、閲覧そのものを止めにきた。
(……やはり来たか)
二十七金貨の差額。あの数字が何を意味するか、財務局の人間にわからないはずがない。黙って明細書を見せるわけがなかった。
想定の範囲内だ。
「局長。一点、確認させてください」
「何だ」
「この制限通知書の決裁権者は、ヴァイス副次長ご本人です」
「そうだな」
鞄から書記局規程の写しを取り出した。先日、書記局の棚を整理しているときに目に留まって、付箋を貼ってある。
「書記局規程第十四条。『正規書記官の公文書閲覧権は、書記局長級以上の決裁によってのみ制限される』」
条文を読み上げた。声が執務室に静かに響いた。
「ヴァイス副次長は財務局の副次長級です。書記局長級以上には該当しません」
フリッツ局長が規程の写しを受け取り、条文を目で追った。数秒。それから顔を上げた。
「副次長級に書記官の閲覧を制限する権限はない」
「はい。この閲覧制限は、規程上の根拠を欠きます」
フリッツ局長はヴァイスの文書の余白に赤インクで一行書き加えた。
『書記局規程第十四条に照らし、本制限要請は管轄外と判断する。閲覧申請を維持する。──書記局長フリッツ・レーマン』
局長印。日付。
「再請求書を起案しろ。回答期限は三日後とする。あわせて、規程第十四条の二に正当な理由なき閲覧妨害は懲戒事由に該当する旨の規定がある。参考として写しを添付しておけ」
「承知しました」
席に戻った。再請求書の草案に取りかかった。規程の条文と、フリッツ局長の却下理由を添えて、丁寧に、正確に。感情は載せない。書記官が出す文書に必要なのは、事実と根拠だけだ。
午後便に載せた。ヴァイス副次長のもとに届くのは夕方。
席で一息ついたとき、指先がインクで汚れていることに気づいた。いつものことだ。
(手続きで戦う。それが私の仕事だ)
◇
退勤の鐘が六つ鳴って、官舎に帰った。
玄関でヴェインの靴を見た。居間のほうから、かすかに頁をめくる音。
靴べらに手を伸ばしかけて、止めた。朝見た焼印のことを思い出している。丸い葉の紋様。胡桃の木目。
居間に入った。
ヴェインが椅子に座っていた。白いシャツに袖をまくった姿。膝の上に開いた本。この一週間で、宮廷の監査官服ではないこの人を見慣れてきた。
「アーレンスさん」
ヴェインが顔を上げた。灰色の瞳。夕暮れの光が窓から入って、薄い琥珀色に透けている。
「玄関の靴べらと、書斎のペン立て」
「……ああ」
「どちらも胡桃材です。同じ焼印がある。書記局の備品ではありません」
ヴェインの右手が、本の頁の端をわずかに握った。
「いつ、あそこに置いたんですか」
沈黙。居間の時計の振り子が二回揺れた。
「……官舎が決まったときに」
「婚姻令の前ですか」
「……前だ」
やはり。この人は婚姻令が届く前に、官舎のことを知っていた。靴べらとペン立てを選んで、ここに運んだ。
ヴェインは本を閉じた。表紙の上に手を置いたまま、視線を落としている。この人が言葉を探しているときの仕草を、私はもう知っている。
「あなたが来ることを、望んでいた」
低い声。一昨日の書庫で「あなたの目を信じている」と言ったときと同じ、喉の奥から搾り出すような音だった。
胸のどこかで、前の世界の記憶がちりと鳴った。
望まれること。誰かの場所に呼ばれること。前の人生では、それはいつも仕事の形をしていた。「必要としている」という言葉の裏側に、「消費される」がいつも貼りついていた。上司に必要とされた結果が終電で、終電の先に過労死が待っていた。
(──違う。この人は、そうじゃない)
わかっている。わかっているのに、体に染みついた警戒は理屈では剥がれない。
ヴェインが顔を上げた。私の目を見た。
「……重荷だったか」
「いいえ」
即答した。できた。できたことに少しだけ驚いた。
「重荷ではありません。ただ」
正確に伝えたかった。この人は不正確な言葉を嫌う人だ。だから私も、正確に。
「誰かに望まれることに、慣れていないんです。少しだけ」
ヴェインは何も言わなかった。灰色の瞳がわずかにゆるんだ。笑ったのではない。この人が笑う顔を、まだ知らない。ただ、目元から力がほんの少しだけ抜けた。
「……急がない」
二語。それだけ言って、ヴェインは本を開き直した。
私は書斎に入った。
机の右端に胡桃のペン立てがある。羽根ペンを差した。ぴったり収まる。太軸のペンに合わせて作られたサイズ。
──この人は、いつから私のペンの軸を知っていたのだろう。
その疑問は飲み込んだ。今は、再請求の回答を待つ。三日後。ヴァイス副次長が規程に従えば、経費明細書の閲覧が通る。従わなければ──閲覧妨害そのものが隠蔽の傍証になる。
どちらに転んでも、次の手は決まっている。
羽根ペンを取って、明日の段取りを紙に書き出した。胡桃のペン立てが、灯りの下でほんの少しだけ赤く光っていた。
壁一枚の向こうで、頁をめくる音がかすかに聞こえる。急がない、とあの人は言った。
急がなくていい。でも、止まってもいない。




