第13話 停職命令と朝の焼き栗
甘い匂いがした。
台所に立つと、テーブルの上に皿が一枚。白い布巾がかけてある。めくると、薄切りのパンとチーズ、それから小さな紙袋。
紙袋の口から、焼き栗が覗いていた。
……焼き栗。
皮に焦げ目のついた、秋の焼き栗。紙袋はまだほんのり温かくて、台所に甘い香ばしさが漂っている。
ヴェインの靴は玄関にない。もう出かけた後だ。この五日間、彼はいつも私より先に官舎を出る。監査局の始業は鐘四つ、書記局は鐘五つ。すれ違いの朝が続いている。
でも今朝は、テーブルの上に「跡」が残っていた。
(……私の分、ってこと?)
パンは一人分。チーズも一人分。焼き栗も、食べやすい大きさに割ってある。
紙袋を持ち上げた。底に何か印刷されている。店の名前らしいけれど、インクが擦れて読めない。そもそも官舎のそばに焼き栗の屋台なんてあっただろうか。秋とはいえ、宮廷官舎街は商売禁止の区画のはず。
──まあ、いいか。
深く考えるのはやめた。焼き栗をひとつ口に入れる。
甘い。ほくほくして、皮の苦味が少しだけ残る。
春の日のことを思い出した。宮廷正門で、あの人が紙袋を差し出してきた夕方。公聴会が終わって、二百四十七件分の記録が全部認められて、退勤の鐘が鳴って。「明日も、定時に」と約束した、あの日の焼き栗と同じ味がした。
(……同じ味)
気のせいだ。焼き栗なんて、どこで買っても似たような味に決まっている。
残りを紙袋ごと鞄に入れて、官舎を出た。
◇
書記局に着いて、受付台帳を開いた直後だった。
「ホルン書記官。少しいいか」
フリッツ局長の声が、いつもと違う。低いのはいつものことだけれど、今日は語尾に力がない。局長室ではなく、私の机のそばまで歩いてきている。
「何かありましたか」
「今朝、監査局から通達が来た」
フリッツ局長が封書を差し出した。宛先は書記局長。差出は監査局人事部。
「魔術監査局監査官ヴェイン・アーレンスに対し、収賄容疑により停職処分を発令──」
収賄。
停職。
指先が冷たくなった。封書を持つ手が、ほんの少しだけ震えている。
(──ヴェインが、収賄?)
あの人が。帳簿の改竄を見抜き、魔力痕跡で真実を証明し、「名前を正しい場所に戻す」と言ったあの監査官が。
馬鹿な。
「……告発者は」
「書いてある。だが──」
フリッツ局長が言い淀んだ。それだけで嫌な予感がした。
「告発者欄は『匿名』だ」
匿名。
「停職命令書の写しを、閲覧できますか」
「書記局に回付された分なら。文書室にある」
「失礼します」
椅子を引いて立ち上がった。フリッツ局長が何か言いかけたけれど、私の足は勝手に文書室へ向かっていた。
◇
文書室の棚から、監査局回付の停職命令書を引き出す。
封筒を開ける。中身は二枚。一枚目が停職命令の本文、二枚目が告発書の要約。
まず、一枚目。
発令者──監査局長。処分対象──監査官ヴェイン・アーレンス。容疑──収賄(監査対象からの金品受領の疑い)。処分内容──即日停職、宮廷施設への立入制限、鑑定業務の停止。
次に、二枚目。告発書の要約。
告発の根拠──「監査対象である財務局関係者から金品を受領した疑いがある」。具体的な金品の名称、日時、場所──いずれも「調査中」。
そして、告発者欄。
『匿名』。
それだけだった。名前も、身分も、署名も、何もない。
私は棚から別の書類を引っ張り出した。宮廷官吏服務規程の写し。第七十二条、告発手続き。
読む。
『官吏に対する告発は、告発者の氏名、身分、署名を明記した書面をもって行うものとする。匿名による告発は受理しない。ただし、告発内容に重大な緊急性がある場合は、枢密院の承認を得た上で例外的に受理できる。』
例外規定がある。枢密院の承認があれば、匿名告発でも受理される。
停職命令書に戻る。枢密院承認の欄を探す。
──ない。
枢密院の承認印も、承認番号も、承認日付も、どこにも書かれていない。
(……またか)
神託の署名欄と同じだ。空欄。あるべきものが、ない。
手続きを守らない人は、本当にどの世界にもいる。しかも今回は二度目。やり方が雑すぎて、怒る気にもならない。
──いや、少しだけ怒っている。少しだけ。
書記官の職責として、私は事実を記録する。手帳を開いて、書き留めた。
『停職命令書を確認。告発者欄は「匿名」。宮廷官吏服務規程第七十二条に基づく受理要件(告発者の氏名・身分・署名)を充足していない。例外規定(枢密院承認)の記載もなし。本告発は受理要件を満たしていない。』
日付と自分の署名を入れて、手帳を閉じた。
この記録は今すぐ何かに使えるわけではない。書記局から監査局の人事に口は出せない。でも──記録は、残る。春の公聴会でそれを学んだ。五年分の記録が、最後にすべてを証明した。
今回も同じだ。記録さえあれば、正しい場所に戻せる。
文書室を出ると、窓の外はもう午後の光に変わっていた。
◇
退勤の鐘が六つ鳴って、官舎に帰った。
玄関にヴェインの靴がある。
……ある。
いつもなら監査局にいる時間だ。靴があるということは、帰ってきているということで、停職中だから当然なのだけれど──同居五日目にして初めて、「ただいま」を言う相手がいる玄関だった。
(言うの? 言わないの? ……形だけの夫婦に「ただいま」って、どういう顔で言えばいいわけ?)
「……ただいま戻りました」
結局、事務的な言い方になった。我ながら可愛げがない。
書斎から、足音。
ヴェインが扉を開けて出てきた。濃紺の上着ではなく、白いシャツに袖をまくった姿。監査局の徽章もない。宮廷で会う時とは別人みたいに、輪郭がやわらかく見えた。
「……心配を、かけた」
低い声だった。いつもより、少しだけかすれている。灰色の目がこちらを見て、すぐに逸れた。
「停職命令のこと、書記局にも回付が来ました」
「そうか」
「告発者は匿名でした」
ヴェインの眉が、ほんの少し動いた。気づいていた、という顔だ。
「服務規程第七十二条。匿名告発は原則受理されません。例外は枢密院の承認が必要ですが、命令書にその記載はありませんでした」
「……」
「手続きに瑕疵があります。記録は取りました」
ヴェインが、ゆっくり息を吐いた。
「あなたは……本当に」
言いかけて、止めた。何を言おうとしたのかはわからない。でも、口元がわずかにゆるんだように見えた。気のせいかもしれない。書斎の灯りが揺れただけかもしれない。
「それと」
私は鞄から手帳を出して、もうひとつ。
「告発書の原本に魔力痕跡が残っている可能性があります。鑑定すれば、告発者を特定できるかもしれません」
ヴェインの表情が引き締まった。
「魔力痕跡鑑定は監査局の職務権限だ。停職中の私には──」
「権限がない。わかっています」
わかっている。だからこそ、正規の手続きで別のルートを作る必要がある。
「方法は考えます」
ヴェインが私を見た。灰色の瞳が、秋の夕暮れの光を受けて、薄い琥珀色に透けていた。
「……ありがとう」
その一言は、春の渡り廊下で交わしていた退勤の挨拶とは違った。もっと低くて、もっと近くて、壁一枚を隔てない場所から聞こえた。
私は「いいえ」とだけ返して、書斎に入った。
机の上には胡桃材のペン立てがある。ペンを取り出して、今日の記録を書き始めた。
──朝の焼き栗の紙袋は、鞄の底でくしゃりと潰れていた。捨てようと思って手に取ったら、底の店名がちらりと見えた。読めなかった。読まなかった。
でも、あの甘い匂いだけは、まだ指先に残っている。




