第12話 神託の署名欄
官舎の玄関は、驚くほど静かだった。
靴を脱ぐ。揃える。その横に、もう一足分の靴べらがある。
……二つ。
使った形跡のない、真新しい木の靴べらが、左右対称に並んでいた。官舎の備品にしてはずいぶん丁寧な木目をしている。いつからあったのだろう。昨日の夕方、荷物を運び込んだときには気がつかなかった。
いや、気がつく余裕がなかっただけだ。
白い結婚の初日は、恐ろしく事務的に過ぎた。
官舎は二部屋。寝室はそれぞれ別。居間は共有だけれど、昨夜ヴェインと交わした言葉は「浴室は先にどうぞ」「ありがとうございます」、それだけ。
(……これが、夫婦)
夫婦。
口の中で転がしてみても、まったく馴染まない言葉だった。
秋の朝の光が、狭い玄関に差し込んでいる。ヴェインの靴はもうない。監査局は書記局より始業が早い。すれ違いの同居が、今日から始まる。
朝食は一人で取った。パンと、チーズと、少しだけ温めた牛乳。テーブルには私の分しか用意がなくて、それは当たり前のことなのに、なぜか喉の奥がざらついた。
──馬鹿みたい。形だけなんだから、当たり前でしょう。
鞄を取って、官舎を出た。
◇
書記局に着くと、同僚のハンナが小走りで寄ってきた。
「マリエッタ、聞いた? 聖女候補の神託!」
ハンナの声は小さいのに、内容だけはいつも大きい。
「……神託?」
「新しい聖女候補のカタリナ・エルスト嬢。昨日、宮廷に神託を奏上したんだって。内容が──」
ハンナが声をさらに落とす。
「『監査局と書記局の縁を結ぶことが、国の安定に資する』ですって」
手が止まった。
監査局と書記局の縁。
(それ──まさか、私たちの白い結婚を、神託で正当化したってこと?)
「……誰から聞いたの」
「王子付きの侍女さんの一人。第二王子殿下のお側にいる方がね、食堂で話してたのよ」
第二王子殿下。
オスカー・ガリスティア殿下。婚姻令の「王族代理承認」に署名した、あの十九歳の王子。
私は受付台帳のインク壺を閉めて、立ち上がった。
「ハンナ、午前中少し席を外すわ。神殿の文書閲覧室に行く」
「え、なんで神殿?」
「書記官として、確認しておきたいことがあるの」
ハンナが首を傾げている。でも説明している時間はない。
神託には認定手続きがある。それを確かめるだけだ。
◇
神殿の文書閲覧室は、石造りの天井が高く、秋だというのに底冷えがした。
書記官証を提示し、閲覧申請書に署名する。神殿の記録官──年配の神官が奥から書類束を持ってきた。
「聖女候補カタリナ・エルスト嬢の神託認定書類、お持ちしました」
「ありがとうございます」
受け取る。
薄い綴じ紐に束ねられた書類は三枚。一枚目が神託の本文。二枚目が認定要件の確認書。三枚目が魔力炉照合の記録用紙。
まず、一枚目。
神託の本文はカタリナ本人の筆跡で書かれていて、文面は簡潔だった。『国の柱たる二つの局の縁を結ぶことが、安寧に資す』──ハンナが言っていた内容とほぼ同じ。
次に、二枚目。
認定要件の確認書。ガリスティア王国では、聖女候補の神託が公的効力を持つためには三つの要件を満たす必要がある。
ひとつ、神殿長の署名。
ふたつ、二名の神官による証言の記載。
みっつ、神殿魔力炉での照合と日付の記入。
指で項目を辿る。書記官の基本動作。見落としてはいけない。
二名の神官の証言──記載あり。署名あり。ここは問題ない。
神殿長の署名欄。
……空欄。
空欄だ。
名前もない。印もない。日付もない。真っ白な欄が、秋の冷たい光に照らされてそこにあった。
(……やっぱり)
三枚目に移る。魔力炉照合の記録用紙。
照合日付──未記入。照合結果──未記入。担当神官の署名──未記入。
三つの要件のうち、満たされているのは一つだけ。残り二つが完全に抜けている。
私は書類を閲覧台に置いて、深呼吸をした。
怒りではない。呆れでもない。ただ、五年間で二百四十七件の業務改善を積み上げてきた書記官として、この手の不備を見ると背筋が自然に伸びる。
(手続きを守らない人は、どの世界にもいる)
春の公聴会の前にも、まったく同じことを思った。あのときは大広間の予約台帳に記録がなかった。今回は、神殿長の署名がない。
──同じだ。やり方が同じ。
閲覧室の隅にある記録台を借りて、照会回答の下書きを始めた。宛先は宮廷省。
『照会事項:聖女候補カタリナ・エルスト嬢による神託の公的効力について。
回答:当該神託の認定書類を閲覧したところ、認定要件三項目のうち、神殿長の署名(第一要件)および魔力炉照合(第三要件)が未充足であることを確認した。
したがって、当該神託は認定手続き未完了であり、現時点において公的効力を有しないものと判断する。
以上、書記局正規書記官マリエッタ・ホルンの職責に基づき回答する。
署名日──』
日付と署名を入れて、インクを乾かす。
神殿の記録官に書類を返却し、閲覧終了の手続きを済ませた。
外に出ると、秋の風が石壁の間を吹き抜けていた。冷たいけれど、不思議と気分は悪くない。
(神託に箔がつけば、白い結婚の正当性が固まる。逆に言えば、神託が無効なら──婚姻令を支える根拠が一つ減る)
照会回答は午後の局間便で宮廷省に届く。
定時退勤。今日も六つの鐘には間に合う。
◇
官舎に戻ったのは、鐘が六つ鳴り終わってすぐだった。
玄関の靴べらは朝と同じ位置にある。ヴェインの靴はまだない。監査局は残業が多い。
(……別に、待ってるわけじゃないけど)
居間を通り過ぎて、書斎に入る。
荷物を置いた。机の上に広げる書類を選ぼうとして──目が止まった。
羽根ペン立て。
机の右端に、小ぶりなペン立てがひとつ。胡桃材の、丸みのある形。書記局の備品は樫材で角張っているから、明らかに違う。
触れてみた。表面はなめらかで、ニスの匂いがほんのり残っている。新しい。
(これも──官舎の備品?)
でも、この部屋に来たのは昨日が初めてで、昨日はここにペン立てがあった記憶がない。夕方に荷物を運び入れたとき、机の上には何も置かれていなかったはず。
なのに、今朝出かけるときには気づかなかった。
……いや。
朝は急いでいて、書斎には入らなかった。つまり、昨夜の間に──ヴェインが置いたのか、それとも最初から置いてあって、私が見ていなかっただけなのか。
どちらにしても、胡桃材だ。
胡桃材の羽根ペン立て。軸の太い羽根ペンがちょうど収まるサイズ。私が書記局でずっと使っているのと、同じ規格。
(……偶然、かしら)
偶然だと思うことにした。
偶然だと思うことにして、でも、ペン立てに手持ちの羽根ペンを差してみた。ぴったり収まった。胡桃材の木目が、灯りの下でほんの少しだけ赤みを帯びている。
玄関の靴べら。書斎のペン立て。
どちらも新品で、どちらも私が来る前からここにあった。
──いったい、いつから準備していたのだろう。
その疑問は声にはしなかった。聞く相手は別室にいて、まだ帰ってきていない。
代わりに、今日作成した照会回答の控えを広げた。神殿長の署名欄の空白。魔力炉照合の未記入。
神託を奏上したカタリナ・エルスト嬢。第二王子殿下の侍女筋から流れた噂。オスカー殿下の代理署名がある婚姻令。
点と点が、まだ線にはならない。でも、同じ方向を向いている気がする。
玄関の鍵が回る音がした。
ヴェインが帰ってきた。廊下を歩く靴音が、書斎の前で一瞬だけ遅くなって──そのまま、彼の部屋の扉が開いて閉まった。
挨拶は、なかった。
壁一枚の向こうに、三年半の退勤挨拶の相手がいる。形だけの夫として。
……神託を書かせたのは、誰だろう。




