第11話 六つの鐘と婚姻令
第2章スタートでございます!!!
退勤の鐘が六つ、鳴った。
羽根ペンを置く。インク壺の蓋を閉める。今日の受付台帳に最終行の線を引いて、右端に日付と署名。秋の夕暮れが窓の外を橙色に染めていく中、私はいつも通り、帳面を棚に戻した。
正規書記官マリエッタ・ホルン。登用から半年。
この半年で覚えたことがひとつある。非正規の頃と違って、正規の書記官には封書が届く。宮廷省からの通達、人事局からの連絡、他局からの照会──大抵はどうということのない事務連絡で、朝のうちに処理して棚に綴じれば終わる。
だから、フリッツ局長が退勤間際に執務室へ来たとき、私はもう鞄の留め具に手をかけていた。
「ホルン書記官。悪いが、ひとつ届いている」
局長の声がいつもより低い。
差し出された封書は、宮廷省の紋章入り。ただし封蝋の色が違った。通常の事務通達は青。これは、赤い。
「……赤封ですか」
「赤封だ」
赤封は人事異動か、特別命令に使われる。半年前の辺境転属命令を思い出して、一瞬だけ指先が冷たくなった。
──いや。
あのときは命令書の形式不備を突いて保留させた。今の私は非正規ではない。正規書記官として、きちんと席がある。
封を切った。
中身は一枚の羊皮紙。文面は短い。
『宮廷省令第四十七号により、正規書記官マリエッタ・ホルンと魔術監査局監査官ヴェイン・アーレンスの婚姻を命ずる。本令は白い結婚の条項に基づく。形式婚として同居・扶助の義務を課し、婚姻解消は一年後に当事者の申請により可能とする。翌朝正午までに受諾の署名を──』
白い結婚。
文字を二度、読み返した。三度目は、声に出さず唇だけが動いた。
フリッツ局長が何か言っている。たぶん、驚いただろうとか、急な話で申し訳ないとか、そういう類のことだ。聞こえていたけれど、頭に入らなかった。
(……ヴェイン・アーレンス)
三年半前から、退勤の廊下ですれ違うたびに挨拶を交わしてきた人。濃紺の上着に魔術監査局の徽章。半年前の公聴会では鑑定人として証言台に立ち、私の五年分の記録を「正しい場所に戻す」と言ってくれた人。
あの日、宮廷正門で焼き栗を分け合って、「明日も、定時に」と約束した。
──それが、こういう形で繋がるとは思っていなかった。
局長が退室してから、私は鞄を机に置き直した。定時退勤が崩れる。でも今は、この羊皮紙を読む方が先だ。
◇
書式を確認する。これは私の仕事だ。
発令者欄──宮廷省。問題ない。日付──本日付。文書番号──連番に矛盾なし。
対象者欄──私とヴェインの名前、所属、官位。正確。
根拠法令──宮廷省令第四十七号、官吏特別婚姻条項。聞いたことがある。宮廷が政略上の理由で官吏に形式婚を命じることができる、という古い条項。実際に発動された例は、少なくとも私がこの五年で見た記録には一件もない。
署名欄。
ここで、指が止まった。
発令責任者の署名──宮廷省次官の名前と印。ある。
承認欄──国王レオポルド陛下の承認印。
……ない。
空欄だ。
代わりに、欄外の小さな余白に走り書きがある。『王族代理承認 第二王子オスカー・ガリスティア』。その横に、見慣れない署名と私印。
私は羊皮紙を裏返した。裏面にも何もない。表に戻す。やはり、国王承認の欄は空白のままだ。
(王族代理承認──)
制度上、国王陛下がご不在の場合にのみ、王族が代理で承認できる。それは知っている。半年前の公聴会で、国王陛下が直接裁可を下された場面を私は証言台の真向かいで見ていた。
ただ、この婚姻令が発令された今日、陛下が在宮だったかどうかは確認していない。
……保留。
判断を急がない。書記官にとって、確認できていない事実を確定させることは、虚偽記載と同じだ。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
この婚姻令には穴がある。
小さな穴。見落とす人は見落とす程度の、でも──私の目には、見える穴。
羊皮紙を封筒に戻して、鞄に入れた。明日の正午までに返答が必要。時間はある。
◇
渡り廊下に出ると、秋の風が首筋を撫でた。
日が短くなっている。半年前の春、公聴会の後にこの廊下を歩いたときは、退勤の鐘のあとでもまだ明るかった。今は六つの鐘が鳴り終わる頃には、空の半分が藍色に沈んでいる。
足音が、前方から聞こえた。
濃紺の上着。魔術監査局の徽章。いつもと同じ歩幅で、いつもと同じ速度で、向こうからこちらへ歩いてくる。
三年半、毎日のように繰り返してきた退勤のすれ違い。
「お疲れさまでした、アーレンス監査官」
いつもの挨拶を、いつもの声で言った。少なくとも、そのつもりだった。
ヴェインが足を止めた。
いつもなら、「お疲れさまでした」と返して、そのまますれ違う。三年半、ずっとそうだった。春の公聴会のあとでさえ、翌日からはまたこの定型に戻っていた。焼き栗のことも、「明日も定時に」のことも、まるで夢だったみたいに。
でも今日は違った。
「……読みましたか」
低い声。いつもより半音だけ落ちている。灰色の瞳が、一瞬だけ私の鞄──婚姻令が入っている鞄に、下がった。
「読みました」
それだけ答えた。
ヴェインは何か言いかけて、でも口を閉じた。唇が薄く動いただけで、言葉にはならなかった。
三年半の定型が崩れた瞬間は、秋の風よりも静かだった。
「……では」
ヴェインがそれだけ言って、歩き出す。
私も歩き出す。反対方向へ。
背中越しに、彼の足音が遠ざかっていく。いつもと同じ歩幅。いつもと同じ速度。でも今日だけは、その足音が二拍分、普段より長く廊下に残っていた気がした。
(……気のせいだ、たぶん)
気のせいだと思うことにして、私は宮廷の正門へ向かった。
◇
自室に戻って、窓を閉めて、灯りを点けた。
椅子に座って、鞄から羊皮紙を取り出す。
白い結婚。形だけの夫婦。同居の義務。一年後に解消可能。
──前の世界のことを、思い出す。
日本、という国で、私は役所に勤めていた。毎日終電まで働いて、休日も呼び出されて、婚姻届どころか恋人を作る時間さえなかった。上司の手柄のために書類を作り、上司の都合で残業し、上司のミスを尻拭いし続けて──ある日、朝の電車のホームで意識が途切れた。
それが最後だった。
過労死、というやつだ。
目が覚めたらこの世界にいて、気がついたら宮廷書記局の非正規職員になっていて、五年かけて二百四十七件の業務改善を積み上げて、やっと正規の席を手に入れた。
自分の時間は、自分で守る。
それが、この世界で最初に決めたことだった。退勤の鐘が六つ鳴ったら帰る。誰の都合にも、自分の人生を差し出さない。
──なのに。
白い結婚。
誰かの都合で、誰かと形だけの家族になれという命令。
(……笑えない冗談ね)
羊皮紙を、もう一度広げた。
国王承認欄の空白。第二王子の走り書き。
穴がある。
穴があるということは、この命令は完璧ではないということだ。完璧でない命令には、必ず理由がある。誰かが急いだのか、誰かが手を抜いたのか、あるいは──誰かが、正規の手続きを踏めない事情があったのか。
書記官として、文書の不備を見つけたら記録する。それだけのことだ。
でも、もうひとつ。
この婚姻令を拒否することはできる。手続きの穴を突けば、おそらく保留に持ち込める。半年前の転属命令と同じように。
……けれど。
(制度の内側に入れば、見えるものがある)
五年間、非正規の外側から書記局を見ていた。外側からでは、局長の横領も、王子の暴走も、止められなかった。内側に入って初めて──帳簿を開き、記録を辿り、手続きの穴を埋めることができた。
白い結婚の内側にも、きっと何かがある。
第二王子オスカーの署名。あの公聴会で兄が継承順位を止められた後の、あの十九歳の王子の名前。
私は羽根ペンを取って、署名欄にインクを落とした。
──受諾。
名前を書き終えて、インクが乾くのを待つ。
窓の外で、街路の灯りがひとつ、またひとつと点いていく。秋の夜は深い。明日から、あの濃紺の上着の人と同じ屋根の下で暮らすことになる。
退勤の挨拶だけの三年半が、終わる。
……何が始まるのかは、まだわからない。
ただ、鞄の中の羊皮紙の、国王承認欄だけが──白く、空いたままだった。




