第10話 明日も、定時に
公聴会の朝は、よく晴れていた。
春の終わり。空は高く澄んで、窓から差し込む光が書棚を照らしていた。五年分の業務記録の控えが、背表紙を並べて静かに朝日を受けている。
鞄を開けた。いつもより大きな鞄だ。昨夜のうちに用意しておいた。
控えを一冊ずつ入れた。一年目。二年目。三年目。四年目。五年目。それから、脅迫状の写し。鑑定報告書の受領控え。エリーゼへの閲覧結果通知書の控え。大広間の予約台帳の確認記録。すべて日付順に揃えてある。
鞄は重かった。五年分の重さだ。
身支度を整えた。書記官の正装。白い襟付きの上衣に、書記局の紋章が入った胸章。普段は略装で業務にあたっているから、この正装を着るのは年に一度の式典以来だった。
鏡を見た。二十五歳の顔。前の人生で死んだ歳より七つ若い。けれど目の下にはうっすらと隈がある。昨夜、あまり眠れなかった。
緊張している。否定しても仕方がない。
深呼吸を三つ。靴を履き、玄関の扉を開けた。
宮廷への道は、いつもと同じだった。石畳の通り。朝の市場の匂い。荷馬車の音。遠くで鳥が鳴いている。五年間、毎朝歩いた道だ。
正門をくぐった。
公聴会の会場は、大広間ではなかった。大広間は手続き上の問題が未解決のまま保留されている。代わりに、宮廷の東棟にある評議室が指定されていた。石造りの広い部屋で、正面に裁定席、左右に証言台と傍聴席が配置されている。
評議室の前には既に人が集まっていた。近衛騎士が入口を警備し、書記局と監査局の関係者がそれぞれの席に向かって歩いていた。
フリッツがいた。次席書記官として、書記局側の関係者席に座ることになっている。彼は私を見て、小さく頷いた。それだけだった。それで十分だった。
傍聴席に、見覚えのある人影があった。淡い金の髪。端正な姿勢。クライスト公爵令嬢エリーゼ。その隣に、白髪交じりの壮年の男性。肩幅が広く、背筋が真っ直ぐで、胸元にクライスト家の紋章を留めている。ルートヴィヒ・フォン・クライスト公爵閣下。娘の後見人として傍聴に来ているのだろう。
エリーゼと目が合った。彼女は静かに頭を下げた。私も頭を下げた。言葉は交わさなかった。公聴会の前に証人が関係者と会話することは望ましくない。
証言台の椅子に座った。鞄を足元に置いた。
向かいの席に、ブルーメ局長がいた。
三十年宮廷に仕えた男の顔は、平静だった。背筋を伸ばし、手を膝の上に置き、正面を見据えている。取り乱してはいない。さすがに、と思った。三十年の経験は伊達ではない。
その二列後ろに、近衛騎士に挟まれた若い男が座っていた。金髪。端正な顔立ち。王族の正装。第一王子アルベルト・ガレスティア殿下。表情には不満が滲んでいた。こんな場所に呼び出されたこと自体が不服なのだろう。その隣に、小柄な女性。メルツ男爵令嬢リゼリア。顔色が白く、手元が落ち着かない様子だった。
鑑定人席に、濃紺の監査官服を着た男が座った。
アーレンス監査官。
目が合った。一瞬だけ。彼はわずかに顎を引いた。それが挨拶なのか、確認なのか、あるいは「大丈夫だ」という意味なのかはわからなかった。
接触制限は公聴会の場では適用されない。公聴会は公式の手続きであり、証人と鑑定人が同席すること自体が制度の想定内だ。
けれど私たちは言葉を交わさなかった。今日この場で交わすべき言葉は、証言台の上にある。
裁定席の扉が開いた。
全員が立ち上がった。
国王レオポルド・ガレスティア陛下が入廷した。五十代前半。白髪が混じった金髪。顔の造りは第一王子に似ているが、目の奥にある光が違う。この人の目は、見定めるための目だ。
陛下が裁定席に着き、書記官——書記局から派遣された記録担当のハンナだった——が開廷を宣言した。
まず、魔術監査局から事案の概要が説明された。監査局長が立ち、公聴会の請求に至る経緯を述べた。宮廷書記局の会計処理に関する正式監査の結果、会計不正、文書改竄、職権濫用、および関連する脅迫行為の疑いが認められたこと。併せて、第一王子殿下の名で計画された行事に関する手続き不備が確認されたこと。
次に、鑑定人としてアーレンス監査官が証言台に立った。
彼は鑑定報告書を順番に読み上げた。声は低く、平坦で、正確だった。
第一に、会計帳簿の不整合。過去三年分の予算執行記録と支出伝票の差額、合計金貨五十枚相当。
第二に、帳簿の改竄。保全命令後に実行されたページの差し替え。差し替えページの魔力痕跡は元の記帳者と異なり、局長級決裁権限者の公印と同系統の魔力特性を持つ。
第三に、業務報告書の功績帰属に関する鑑定。過去五年分の業務改善提案二百四十七件の起案原稿に残存する魔力痕跡はすべて同一人物——宮廷書記局非正規書記官マリエッタ・ホルンの筆記痕跡と一致する。署名欄の「ゲルハルト・ブルーメ」は、起案後に上書き添付されたもの。
第四に、脅迫状の鑑定。差出人不明の脅迫状に残存する魔力痕跡が、上記の帳簿改竄および署名上書きと同系統の魔力特性を持つ。
彼が報告を終えたとき、評議室は静まり返っていた。
国王陛下が口を開いた。
「ブルーメ書記局長。反論はあるか」
ブルーメ局長が立ち上がった。三十年の宮廷勤務が培った落ち着きは、まだ崩れていなかった。
「陛下。会計帳簿の差額につきましては、経理処理の慣行上の誤差であり、意図的な不正ではございません。帳簿の整理は定期業務の一環として行ったものであり、改竄の意図はありません」
言葉は滑らかだった。三十年分の弁舌だ。
「業務報告書につきましては、局内の業務は局長の監督下にあり、提案の実務を誰が担当したかにかかわらず、報告の責任は局長に帰属するものと——」
「鑑定結果について反論はあるか」
国王陛下が遮った。静かな声だった。
ブルーメ局長が一瞬、口を閉じた。
「……魔力痕跡の類似は、同一人物の証明にはなりません。類似にすぎない以上——」
「鑑定人。類似と一致の差について補足を」
アーレンス監査官が再び立った。
「魔力痕跡の鑑定において、『類似』と記載するのは、鑑定の慣行上、完全な同一性の証明には生体魔力との直接照合が必要なためです。しかし、四件の証拠すべてにおいて同系統の魔力特性が検出されており、かつ当該特性が局長級決裁権限者の公印と一致することは、合理的に見て同一人物による行為と推認するに足る水準です」
ブルーメ局長は黙った。
魔力痕跡鑑定は、この世界の法制度において最も信頼性の高い証拠手段の一つだ。それに対して「類似にすぎない」という反論は、鑑定の制度的信頼性そのものを否定しなければ成り立たない。そしてその否定は、これまで魔力痕跡鑑定に基づいて行われてきた宮廷のすべての裁定を揺るがすことになる。
局長にはそこまでの覚悟はなかった。
次に、第一王子アルベルト殿下に対する質疑が行われた。
「第一王子殿下。殿下の名で計画された大広間での行事について、書記局への正式な申請手続きは行われましたか」
アルベルト殿下が立ち上がった。不満を隠そうともしない顔だった。
「断罪の儀は王家の権威に基づく正当な行事だ。手続きは側近に任せていた」
「書記局の記録によると、申請書は提出されておりません。決裁も行われておりません。また、クライスト公爵令嬢に対する告発書も提出されておらず、罪状の正式な申し立ても存在しません」
私は証言台でその言葉を聞いていた。監査局長が述べた内容は、すべて私が確認し、回答書に記載した事実だった。
「告発なき断罪は、ガレスティア王国の法手続きにおいて成立いたしません」
アルベルト殿下の顔が紅潮した。何か言いかけて、隣の側近が袖を引いた。殿下は口を閉じた。
メルツ男爵令嬢リゼリアは、質疑の対象にはならなかった。彼女は証人でも被告発人でもなく、関係者として同席しているにすぎない。けれど、聖女候補としての地位が断罪イベントの背景にあることは、経緯の説明の中で触れられた。
傍聴席で、クライスト公爵が立った。
「発言を許されるか」
国王陛下が頷いた。
「クライスト家として一言だけ申し上げます。娘エリーゼに対する告発は存在しない。罪状も存在しない。にもかかわらず、断罪の場が設けられようとした事実を、クライスト家は記録に留めます」
静かな声だった。怒りを押し殺しているのではなく、怒りを事実の重さに変換した声だった。
エリーゼは父の隣で、手を膝の上に置いたまま、前を向いていた。その目は乾いていた。泣いてはいなかった。
最後に、証人として私が呼ばれた。
証言台の前に立った。
「宮廷書記局書記官マリエッタ・ホルン。証人として宣誓し、事実を述べます」
鞄から控えを取り出した。五冊。机の上に並べた。
「過去五年間の業務改善提案二百四十七件について、起案から実行、効果測定に至るまで、すべて私が担当いたしました。各件の日付、内容、削減効果を記録した控えがこちらです」
五冊の帳面を証拠として提出した。記録担当のハンナが受け取り、裁定席に運んだ。ハンナの手が震えていた。
「これらの提案は、書記局長の名前で上申されましたが、起案原稿の魔力痕跡鑑定が示す通り、署名は後から上書きされたものです。私の名前は、一度も報告書に記載されませんでした」
声は震えなかった。
「また、私は過去五年間で三度、正規登用試験の推薦を申請しましたが、いずれも書記局長の段階で却下されました。却下理由の記録は、書記局の人事台帳に残っています」
ブルーメ局長は正面を見たまま動かなかった。
「以上が、私の証言です」
席に戻った。
国王陛下が裁定席で書類に目を通していた。鑑定報告書。私の控え。会計帳簿の不整合の一覧。数分間の沈黙が、評議室を満たした。
やがて、国王陛下が顔を上げた。
「裁定を申し渡す」
全員が姿勢を正した。
「宮廷書記局長ゲルハルト・ブルーメ。会計不正、文書改竄、職権濫用、および職員に対する脅迫の事実を認定する。処分は懲戒免職とし、宮廷への出仕を禁ずる。横領された金貨五十枚相当の賠償を命じる」
ブルーメ局長の肩が、わずかに落ちた。それが、三十年の宮廷人生の終わりの形だった。
「第一王子アルベルト・ガレスティア。告発なき断罪の企図、および行政手続きの著しい軽視を認定する。継承順位を一時停止とし、半年間の謹慎を命ずる。謹慎期間中に王政学および行政法規の研修を受けること」
アルベルト殿下の顔から血の気が引いた。継承順位の一時停止。それは、第二王子オスカー殿下が事実上の第一位に繰り上がることを意味する。
「メルツ男爵令嬢リゼリア。聖女候補の認定を取り消す。ただし、本人に対する刑事上の処分は行わない」
リゼリアが小さく息を呑んだ。隣の側近が彼女の腕を支えた。
「クライスト公爵令嬢エリーゼに対するすべての嫌疑は不存在であり、名誉の毀損に関してはクライスト家への正式な陳謝を王家として行う」
傍聴席で、エリーゼの瞳がかすかに揺れた。クライスト公爵が娘の肩にそっと手を置いた。
「最後に。宮廷書記局非正規書記官マリエッタ・ホルン。五年間にわたる職務における顕著な貢献、および本件における証言の正確性を評価し、正規書記官への即時登用を命ずる」
正規登用。
五年間、三度拒まれたもの。
聞こえていた。聞こえていたのに、すぐには意味が頭に入ってこなかった。
正規書記官。即時登用。
国王陛下の声が続いた。
「本裁定に対する異議申し立ては、七日以内に書面にて行うこと。以上をもって、本公聴会を閉廷とする」
記録担当のハンナが閉廷を宣言した。声が裏返っていた。
国王陛下が退廷した。人々が動き始めた。近衛騎士がブルーメ局長を連行した。アルベルト殿下が足早に退室した。リゼリアが側近に支えられながら出ていった。
傍聴席から、エリーゼが歩いてきた。
「ホルン書記官」
「エリーゼ嬢」
「ありがとうございます。あの日、閲覧結果を正確にお教えいただいたこと。あの一枚の写しが、わたくしの支えでした」
公爵令嬢がモブ書記官に頭を下げていた。今度も。やはりこの人はそういう人だった。
「私は、手続きに基づいて事実を確認しただけです」
「それが、どれほどのことか」
エリーゼが微笑んだ。穏やかで、静かで、けれど芯のある笑みだった。
クライスト公爵が娘の傍らに立ち、私に一度だけ深く頭を下げた。筆頭貴族が下級貴族の書記官に。私は慌てて頭を下げ返した。
二人が去った後、評議室には数人の関係者が残っていた。フリッツが書類をまとめていた。ハンナが記録台帳を閉じていた。
私は鞄を持って評議室を出た。五冊の控えは証拠として提出したので、鞄は朝より軽くなっていた。
東棟の廊下を歩き、渡り廊下を抜け、正門に向かった。
退勤の鐘は、まだ鳴っていなかった。公聴会は午前中に始まり、午後の早い時間に終わった。正規の業務時間はまだ残っている。
けれど今日は、もう仕事はなかった。書記局の業務は公聴会のために一時停止されている。明日から、新しい局長代理の下で再開される。フリッツが暫定的にその任を引き受けることになるだろう。
正門をくぐった。
午後の日差しが眩しかった。春の光は白くて、石畳を明るく照らしていた。
数歩進んで、後ろから足音が聞こえた。
振り返った。
濃紺の監査官服。飾り気のない黒髪。表情の乏しい顔。
アーレンス監査官——ヴェインが、正門をくぐって歩いてきた。
接触制限は公聴会の終了とともに解除されている。公式監査が結審した以上、監査官と被監査部局の職員の接触を制限する理由はもうない。
彼は私の前で立ち止まった。
数秒間の沈黙があった。渡り廊下での三年間の沈黙と同じ種類の、けれど少しだけ温度の違う沈黙だった。
彼の右手に、紙包みがあった。
見覚えのある包み方。裏門前の屋台の。湯気はもう立っていなかったが、紙の端から焦げ茶色の皮がのぞいていた。
焼き栗。
彼は紙包みを私の前に差し出した。あのときと同じように。何の説明もなく。
「公聴会の前に買いました。終わった後に渡そうと思って」
初めてだった。焼き栗を差し出す理由を、彼が口にしたのは。
受け取った。紙包みはまだほんのりと温かかった。
「ありがとうございます」
「——お疲れさまでした、ホルン書記官」
「お疲れさまでした、アーレンス監査官」
いつもの言葉。千日以上繰り返した言葉。けれど今日は、渡り廊下ではなく、正門の外の日差しの中で。
彼がまた口を開いた。言葉を探す時間が、いつもより短かった。
「明日も、定時に」
三語。短くて、飾り気がなくて、この人らしい言葉だった。
明日も定時に退勤しよう、という意味か。明日も定時にすれ違おう、という意味か。あるいは、明日もあなたがあなたのまま帰れるように、という意味か。
全部だろうと思った。この人の言葉は、いつも全部が入っている。短いのに、全部。
「ええ。明日も、定時に」
同じ言葉を返した。
彼が歩き出した。
今日は——今日だけは——反対方向ではなかった。
同じ方向に歩き出していた。どちらが先に方向を合わせたのかはわからない。わからないまま、二人で石畳の大通りを歩いていた。
焼き栗の紙包みを開いた。一つ取り出し、皮を剥いた。黄金色の実。口に入れると、素朴な甘さが広がった。あの日と同じ味だった。
「一ついかがですか」
差し出すと、彼は受け取った。無言で皮を剥き、口に入れた。
並んで歩いた。会話はほとんどなかった。大通りの石畳を踏む靴音と、遠くの市場の喧騒と、春の終わりの風の音。
彼の右肩が、私の左肩のすぐ隣にあった。雨の日に傘を傾けてくれた側の肩だ。
「アーレンス監査官」
「はい」
「今日は、雨ではないですね」
「ええ」
「でも、隣を歩いていただけますか。もう少しだけ」
彼が足を止めなかったことが、答えだった。
大通りの角を曲がった。日差しの中を歩いた。焼き栗の甘さが口の中に残っていた。
五年間、一人で歩いた帰り道だった。退勤の鐘のあとの、誰ともすれ違わない道。前の人生では帰り道すら持てなかった。この人生で手に入れた、自分だけの時間。
今日、その道に、もう一人分の足音が加わった。
隣を歩く人の足音は、静かで、正確で、私の歩幅に少しだけ合わせてくれていた。
春が終わる。夏が来る。明日も鐘は鳴る。明日も私は帰る。
ただ、明日からは——帰り道が、少しだけ賑やかになるかもしれない。
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