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「その他大勢」に転生したので、定時退勤を死守します  作者: 九葉(くずは)


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第1話 退勤の鐘が六つ鳴る

 退勤の鐘が六つ、鳴った。


 私は羽根ペンを置き、インク壺に蓋をした。書きかけの決裁書類を左端に揃え、明日の朝いちばんに手を付ける順番で重ねる。未処理の山は今朝より三枚減った。残り十二枚。明日の退勤までには片付く。


 鞄に本日分の業務記録の控えを入れる。これは欠かさない。五年間、一日も欠かしたことがない。


 席を立つと、同僚のハンナが目を丸くした。


「ホルン書記官、もうお帰りですか」


「鐘が鳴りましたので」


「……ですけど、ブルーメ局長がさっき追加の写しを——」


「明日の朝、対応します」


 ハンナが何か言いたげな顔をしたが、私は鞄を肩にかけて一礼した。悪いとは思う。思うけれど、譲れない。


 前の人生で、私はこの鐘を無視し続けた。


 日本という国の、中央省庁の、名前も覚えていない課で、私は終電を乗り過ごし、机に突っ伏して目を閉じて、そのまま二度と開かなかった。三十二歳だった。死因は過労だと、たぶん誰かが書類に書いたのだろう。あの世界にも書記官のような人がいて、私の死を処理したはずだ。きっと定時には帰れなかっただろう。


 だから、この人生では鐘が六つ鳴ったら帰る。何があっても帰る。


 それが、マリエッタ・ホルンの唯一の信条だった。


 書記局の廊下は夕暮れの光が長く差し込んで、石畳が琥珀色に染まっていた。同僚たちの大半はまだ机に向かっている。この国——ガレスティア王国の宮廷書記局は、慢性的に人手が足りない。足りないのに非正規の私が五年間正規に登用されないのは、まあ、色々と事情がある。


 事情の名前はゲルハルト・ブルーメという。


 書記局長。勤続三十年の大黒柱。私が提出した業務改善案のすべて——二百四十七件、年間千二百時間の削減に相当する——を、自分の名前で上に報告している人物。正規登用試験の推薦状を三度握り潰した人物。


 最初の一年は怒った。二年目は呆れた。三年目からは諦めた。いや、正確には方針を変えた。怒りで残業する羽目になるくらいなら、記録だけ正確に残して定時に帰る。控えは全部、自宅の書棚にある。日付、内容、削減効果、すべて記してある。


 いつか役に立つ日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。どちらでもいい。記録を残すのは公務員の習性で、私は二つの人生を経てもそれを変える気がない。


 中庭に面した渡り廊下に出ると、向こうから一人の男が歩いてきた。


 濃紺の監査官服。飾り気のない黒髪。表情というものがほとんど存在しない顔。


 宮廷魔術監査局所属、アーレンス監査官。


 この宮廷で、私以外に定時退勤する人間を、私は一人しか知らない。


「お疲れさまです、アーレンス監査官」


「お疲れさまです、ホルン書記官」


 それだけだった。毎日、それだけだ。三年間、千日以上、退勤の鐘のあとにこの渡り廊下ですれ違い、同じ言葉を交わす。彼が何を考えているのか知らない。私も何も考えていない。ただ、鐘が六つ鳴ったあとにまだ宮廷にいる人間が、自分だけではないという事実がほんの少しだけ心地よかった。


 すれ違いざま、彼がわずかに首を傾げた気がした。何か言いかけたのかもしれない。けれど振り返りはしなかった。振り返ったら一秒遅くなる。


 私は正門をくぐり、夕風の中を歩いて帰った。


 春の風は前の世界と少しだけ匂いが違う。こちらの方が、緑が濃い。


 ——翌朝。


 書記局に着くと、空気がいつもと違った。


 机の列のあいだで、書記官たちが声をひそめて何かを話している。ハンナが私を見つけて、小走りで寄ってきた。


「ホルン書記官、聞きました? 第一王子殿下が、大広間で断罪の儀をなさるそうですよ」


 断罪の儀。


 その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、二十歳のときに思い出した記憶がぱちりと音を立てた。


 蒼穹のエトワール。


 前の人生で、同僚が休憩時間にやっていた乙女ゲームの名前。私はプレイしていない。ただ、隣の席で延々と聞かされた攻略情報の断片が、転生五年目のある朝、唐突に全部つながった。


 ここはあのゲームの世界だ。第一王子アルベルト・ガレスティアは攻略対象の一人で、クライスト公爵令嬢エリーゼは悪役令嬢。そして——断罪イベントがある。


 ゲームの中身は知らない。攻略対象の名前と悪役令嬢の名前と、断罪イベントが存在すること。私が持っている情報はその三つだけだ。


 正直に言えば、どうでもよかった。私はヒロインでも悪役令嬢でも攻略対象でもない。台詞のひとつもないモブ書記官だ。物語に出てこない、宮廷の端っこで紙をめくっているだけの「その他大勢」。


 だから五年間、何もしなかった。干渉する理由がない。


 けれど。


「断罪の儀って、大広間でやるんですよね」


「ええ。来月の十五日だと。もう殿下のお側の方々が準備を始めているとか」


 来月の十五日。大広間。


 私の仕事のひとつに、大広間の使用管理がある。正確には、予約台帳の管理と使用許可の決裁確認。公式行事に大広間を使用する場合、申請書を書記局に提出し、局長の決裁印を受ける必要がある。どんな行事であっても例外はない。これはガレスティア王国行政手続法第四十二条に——まあ、条文番号はどうでもいい。要するに、手続きを踏まなければ大広間は使えない。王族であっても。


 私は自分の机に向かい、引き出しから大広間の予約台帳を取り出した。


 革表紙を開く。今月のページ。来月のページ。十五日の欄。


 空白だった。


 何も書かれていない。申請者名も、行事名も、決裁印も。


 念のため前後三日の欄も確認した。すべて空白。大広間の使用は、少なくとも書記局には一切申請されていない。


 台帳を閉じて、私は小さく息を吐いた。


 知っている。こういう人間を知っている。前の世界にもいた。手続きを飛ばす人間。口頭で済ませようとする人間。「自分は特別だから書類なんか要らない」と思っている人間。


 結局同じだ。世界が変わっても、魔法があっても、王子であっても。


 手続きを守らない人間は、どの世界にもいる。


 さて。


 これは物語の問題ではない。攻略の問題でも、恋愛の問題でも、正義の問題でもない。


 これは、手続きの問題だ。


 そして手続きの問題は——宮廷書記官の管轄だ。


 私は新しい羽根ペンを取り出し、業務記録の控えに今日の日付を書いた。

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