覚えてないと殺すと言われた
目の前に、髪の長い人影が立っている。
白い服。顔は髪に隠れて見えない。
——幽霊だ。そう思った。
「私の名前、覚えてる?」
女の声だった。感情のない、静かな声。
「覚えてない」
「それなら、殺す」
女は一歩、こちらへ近づいた。床が軋む音がやけに大きい。
「わ、わかった!」
叫ぶと、女はぴたりと止まった。
「……クルミだな」
「違う」
妹じゃない。
「恵子か?」
「違う」
姉でもない。
「高橋文江……?」
「違う」
母親でもない。
——そうだ。母は昔から短い髪だった。
じゃあ、誰だ。
元カノの名前を、必死に思い返す。
「加乃?」
「違う」
「由紀……?」
「違う」
「保奈美……」
「違う」
その瞬間、胸の奥が冷えた。
——俺の大切な人は、みんな死んだ。
思い出さないようにしていただけだ。
「だめだ……わからない」
気づいた時には、首を掴まれていた。
逃げようとしても、力が入らない。
「お前は……誰だ……?」
かすれた声で問う。
「私は——」
女の声が、すぐ耳元で止まった。
その手は、確かに温かい。
生きている人間と、同じ温度だ。
——違う。
思い出した。
俺は、名前を覚えていないんじゃない。
呼んだことがないんだ。
ずっと。
「……ああ」
そう呟いた瞬間、女の指に力がこもる。
髪の奥で、何かが笑った気がした。
俺が最後に感じたのは、
冷たさじゃなく、
人の体温だった。




