【壱章】 少女と妖と 〈壱・中編〉
「……って話ズレちゃったじゃん」
しばらくして一人の世界から舞い戻ってきたのか、咲希が唇をとがらせる。
「勝手に暴走したのは咲希だけどね」
「うっ……。まぁそうだけど……」
少し反省したのか咲希は目線を宙に迷わせ、アスファルトへと向けた。
「で、妖薙さんがなんて?」
続きを促すと地面へと向けていた目線を正面へ向け、咲希は淡々と話し始める。
「あの森……っていうかこの街にはね、平安時代ぐらいのときに本当に本物の妖怪が住んでたんだって。で、あの森は妖怪の住処だったの」
語り始めた咲希の横顔は先ほどまでの子供のような表情が消えどこか陰りを帯び、彼女の持つ大人びた雰囲気をより一層引き立てはじめた。
「その妖怪は人間の心を食べるすっごく怖い妖怪だったんだって」
「人間の心を食べる?」
疑問が口をついて出た。
『心を食べる』
それはいったいどういうことなのだろう。
妖怪と言えば普通は人を惑わせたり、人を食べるものだと思う。
だがその妖怪は普通とは違い、喜怒哀楽といった感情をつかさどる心を食べてしまうのだろうか。
「そう、人の『楽しい』とか『悲しい』とか感じる心を食べちゃうんだって。……でも、それだけじゃないんだよ。それだけじゃ妖怪は街の人たちにすっごく怖がられたりしないよ」
咲希の漆黒の双眸が私の目をまっすぐに見つめる。
感情を押し殺したような漆黒の中で私の顔が揺れている。それが見えるほど近い場所から見つめられる。
歩みは止めないまま、咲希は言葉を紡ぐ。
「妖薙さんが言ってたんだけど『楽しい』とか『悲しい』とかっていう心はね、生きていく中で自然に芽生えてくるものなんだって。だから、時間が過ぎていったらまた芽生えてくるの」
ならば妖怪は何を食べるというのだろう。
私の疑問を見透かしたかのように、咲希が言う。
「妖怪はね、そういう心も食べちゃうんだけど、文字通り人としての心……つまりは自我っていうのかな? そういうのも食べちゃうの」
すっと咲希の瞳が細められる。
「それで、妖怪に心を食べられた人はね、なーんにもできなくなっちゃうの。動くことも、話すことも、食べることも、ホントになーんにもできなくなっちゃうの。わかりやすく言えば人形みたいになっちゃうんだって」
そして咲希は私から瞳をそらし、青く晴れ渡った空を見上げた。
「生きてはいるけど、心が死んじゃってる。でも身体だけは生きてるの。心はからっぽだけど、身体は生きている。だけどなんにもできないから、心を食べられた人はそのまま弱ってみんな死んでいっちゃったんだって」
ひやり、と背筋が冷える。まるで冷たい氷を当てられたかのように。
妖怪に心を食われた者は皆、『人として』ではなく『生きた人形として』死んでいったのだろうか。
いや、妖怪に心を食われてしまった、その時に『人として』死んでしまったのだろう。
「……それだけ?」
口内で絡みついてしまったような舌をなんとか動かし、私は尋ねた。
空を見上げたまま、ゆっくりと咲希の瞳だけが動き、その視線は背筋を凍らせた私を絡め取る。
そして彼女はそのまま、首を左右にゆったりと振った。その動きに合わせ、日光に透けて輝く髪が揺れた。
「ううん、それだけじゃないよ。妖怪がこの街で暴れ出した頃ぐらいから、当時の都で悪い意味で有名になり始めた陰陽師さんが居たんだってさ」
陰陽師と言われれば、悪霊を祓ったり、式神と呼ばれる僕や術を使って妖怪を退治する人たち、というイメージしかわかない。
だが、どこかで陰陽師とは吉兆を占ったりなど、いわば占い師のような役職である、と聞いたことがある気がする。
「単純に自分より強い妖怪とか悪霊と戦うのが大好きな、戦闘狂、っていうのかな? とにかく自分より強い人とかと戦うのが大好きだったの。だから悪い意味で有名になったんだって」
私たちの隣をランドセルを背負った子供たちが駆け抜けていく。
咲希が正面を再び見据えた。
そして、感情の起伏を感じさせない淡々とした言葉を紡ぐ。
「それでね、あるときその陰陽師さんはこの街で暴れ回ってる妖怪の噂を聞きつけたの。だけど心を食べちゃう妖怪がこの街で暴れ回ってるって噂が都に届いたときから、陰陽師は何人か派遣されたらしいの。でも」
「みんな妖怪に心を食べられちゃった?」
咲希の言葉を遮り、私は予測を口にする。
ちらり、と咲希が私の顔をのぞき込み、ゆっくりと首を縦に振る。
「そう」
私の予測を咲希が肯定する。
「妖怪はこの街の妖全部を従えちゃうほどすっごく強くて、派遣された陰陽師たちはみんな歯が立たなかったの。それを聞いて、都で悪い意味で有名な陰陽師さんが黙って見過ごすと思う?」
私は首を横に振った。
咲希はそれを見ると口を開く。
「でね、その陰陽師さんはさっそくこの街にやってきて、妖怪の住んでた森に入っていったの。それから何日間かの間、森からは人の狂ったような笑い声と獣の雄叫びが街中に響き渡ってたんだって」
少し想像してみる。
街の中心の森を住処にする人の心を食らう妖怪。
その妖怪にいつ心を食われ、いつ死ぬかも分からない。
恐怖という名の波に飲み込まれた街へとやってきた陰陽師。
陰陽師は街の住民の目にどのように映ったのだろう。
『新たな犠牲者』か。『救世主』か。それとも『単なる狂人』か。
そして陰陽師が森へと姿を消し、街中に響く狂気の笑い声と獣の咆哮は人々にどんな感情を抱かせたのだろう。
「笑い声と雄叫びはある日ぷっつり消えたんだって。そして、その日から妖怪が姿を現すことはなくなったんだって」
「陰陽師さんが勝ったの?」
「ううん、分からない。でも森に入ってそれから姿を見た人は居ないらしいよ。それから森の中心には、今までなかったはずのお社が現れて、『そのお社に行けば悪夢を食べてくれる妖怪が居る』っていう噂が街に流れ始めたらしいよ。これでおしまい」
語り疲れたのか、咲希があからさまに疲労した顔でため息をつく。
先ほどまでなんの感情も感じさせずに淡々と言葉を紡いでいた少女とは違う。
いつもの咲希の顔だった。
「でもさー、結局妖怪が勝っちゃったのか、陰陽師さんが勝ったのか分からないでしょ、この話。後味スッキリしなくてなんだか怖くない?」
「え? どこが?」
きょとんとして尋ね返した私に咲希が大げさに肩を落とす。
「だってさー、どっちが勝ったか分からないんだよ? 妖怪が今も生きてるかもしれないんだよ?」
「あのさ、咲希。前から何回も言ってるけど、幽霊とか妖怪とかそういうのっていないから。人間が生み出しただたの空想の塊だよ? 妄想だよ?」
確かに怪談や都市伝説には背筋を凍らせられるものもある。
だが幽霊も妖怪も、まだ物事が科学で解明されていなかった頃に作られた人々の空想の塊でしかない。
私はそう思っている。
「こっちこそ何回も言うけどさ、雪華は夢がなさすぎだよー。都市伝説とか本当にありそうですごく怖くない?」
「絶対になさそうで全然怖くない」
人間は死んでしまえばそれまでだ。
心臓が止まれば、脳の活動が停止すれば、それでおしまいだ。
残るのはただの動かない肉と骨の塊。魂というものなどない。
魂が死者の『遺志』であるのならば、確かにそれは存在するだろう。
だが、魂が死者本人の『意思』であるのならば、それは存在しない。そう思う。
死んだ後にまで死した場所に『意思』が残る、または『意思』がさまよう、などということは決して起きない。
『意思』は『意思』だけでは存在できない。
『意思』を表現し、伝える者が居て初めて存在できる。
「とか言って、実は信じたりしてるんでしょー? 長いつきあいのあたしには分かるから、素直になりなさい」
ふふん、と自慢げに胸を張る咲希の、私より少し高いそのつむじに無言で手刀を振り下ろす。
「あいたっ!?」
「だから信じてないってば」
大げさにつむじを押さえる咲希に向かって少し不機嫌に言い放つ。
「ていうか咲希は妖薙さんの言ってることを信じすぎ」
妖薙さんは不思議な人だ。
客を前に怪談や都市伝説をいくつもいくつも、数え切れないほど語る姿をよく見かける。
今の時代、ネットを利用すれば怪談や都市伝説を集めることなど簡単だろう。
だが、妖薙さんはとても信じることのできないような不可思議で奇妙な怪談や都市伝説を、まるでその目ではっきりと見てきたかのように艶めいた低い声で語るのだ。
それもどこか恍惚とした表情で、ひどく残酷な話を。
「だって妖薙さんのお話、すっごく面白いんだよ? なんていうかこう、聴いてるうちにどんどん話の中に引き込まれるというか……」
「咲希って怪談とか都市伝説とか苦手じゃなかったっけ?」
うっとりと語り始めようとした咲希の言葉を遮り、尋ねる。
すると咲希はきょとんとした表情で小首をかしげて言った。
「妖薙さんのお話は別だよ」
「……もうノーコメントでお願いします」
どこまでも妖薙さんを盲信する咲希に返す言葉がない。
また少し頭が痛くなってきた気がする。
私はひっそりとため息を吐き、こめかみを押さえた。
妖薙さんの話題が出たせいかご機嫌な咲希はそんな私に気づくことなく、他愛もない話を始める。
昨晩のバラエティ番組はどうだったか。
今日の時間割にはどんな授業が振り分けられているか。
元々他人に自ら話題を振るより、振られた話題に対して受け答えするのが好きな私は、それらに自らの感想も交えて返事をする。
途中、妖薙さんに関わる話題が出るとすぐに目を輝かせる咲希に鉄拳制裁を加えつつ、私たちは学校へと向かう。