【壱章】 少女と妖と 〈壱・前編〉
まどろみの中で、目覚ましのアラーム音を聞いた。
暖かい布団の中でもう一度眠ってしまいたい衝動をなんとか抑え込み、手を伸ばして耳障りな電子音を止める。
布団を頭から被ったままのびをして、襲い来る睡魔の攻撃をかわしながら上体を起こす。
月曜日の朝はどうしても二度寝がしたくなるのはなぜだろう。
そんなことを考えながらベッドから降り、クローゼットの前でパジャマから制服に着替える。
何の変哲もない白のワイシャツ。
赤いリボンがよく映える紺のブレザー。
同色に緑のチェックが入った短めのスカート。
それが私の通う学校の制服だ。
クローゼットにパジャマをしまい、二階にある自室から一階の洗面所へと向かう。
途中であくびをかみ殺しながら、洗面台の前に立つ。
洗面台の鏡に映るのは、少し寝癖のついた胸元までの黒い癖毛に、茶色がかった黒い瞳。
黒い瞳はただでさえ幼く見える面立ちをさらに際立たせる、大きなアーモンド型で現在ではコンプレックスの一つでもある。
歯を磨き、顔を洗い、寝癖を直してから、髪を背中へと流す。
最後に寝癖などが残っていないか入念にチェックして、次はリビングへ。
リビングとは言ってもダイニングキッチンとつながっているため、広さはけっこうなものである。
「おはよう、雪華」
「今日はちゃんと起きれたのね、おはよう」
リビングで先に朝食をとっている両親へ挨拶を返し、ダイニングのテーブルにつく。
テーブルにはトーストとサラダ、スープが三人分並んでいる。
少し離れた場所に置かれたソファの向こうのテレビが流すワイドショーを見つつ、家族三人で他愛のない会話を交わしながら、朝食をとるのが我が家の習慣だ。
そして朝食を食べ終われば、それぞれ家を出る準備をする。
私は再び階段を登り、自室へと戻って教科書やノートを詰め込んだ学校指定の鞄を手に取り、玄関へ向かう。
エナメルの黒い靴を履き、玄関を出る。
玄関を出て、すれ違う近所に住む人々からかけられる挨拶を返しながら、学校へ向かう途中のある場所へと向かう。
そこは街のちょうど中心部にある小さな森に近い公園。
しかしその場所は公園とは言うものの、ベンチと錆びかけた遊具がいくつか設置されただけの小さなものだ。
公園の周囲には人が住んでいるか否かも怪しい見るからに古い民家がぽつりぽつりとまばらに立っているだけで、人気は少ない。
何十年か前まではこの公園の近くの小さな森をマンションやスーパーに建て替えるという計画がいくつもあったらしいが、いざ伐採を始めようという段階でいつも工事関係者が次々と事故や病気で倒れ、伐採用の機械がことごとく故障。
結果的に毎回計画は取り消され、工事に携わる人々の間でこの森は『呪いの森』とまで呼ばれているらしい。
そのせいか、この街の住民もこの森には近づこうとしない。
馬鹿馬鹿しい話だ。
私は鞄につけたキーホルダー型の時計で時間を確認し、公園のベンチの一つに腰掛ける。
森に向き合うように設置されたこのベンチは私のお気に入りだ。
風が森から吹いてくる。その風は森の木々の葉を揺らし、公園を駆けて古びた家々の間を吹き抜けていく。
前髪を風にあおられながら私は森を見つめる。
風にざわめくその森は、ただ静かにたたずむだけだ。
なぜか鳥の鳴き声も、虫の声も聞こえない。文字通り、静かにたたずんでいる。
ただ静かすぎるせいか少し不気味ではあるが、それはむしろ神秘的な空気をはらんだ不気味さで。
私にはとてもこの森が呪われているとは思えない。神がかった“何か”に守られている――そんな気がする。
何も考えず、ただ静かに森を見つめる。
遠くから通学中であろう子供たちの声が聞こえる。
遠くから車のエンジン音が聞こえる。
森から風が起こす音が聞こえる。
森から静かな生命の鼓動が聞こえる。
「ごめん、また寝坊した!」
そしてすぐ側からもう幾度も聞いた親友の言葉と声が聞こえた。
「おはよう、咲希」
私は森から声の主へと目を向ける。
そこには私と同じ制服をまとい、同じ鞄を地面へ下ろして膝に両手をつきながら懸命に息を整えようとしている少女が居た。
ところどころ寝癖がついてはいるが光に淡く輝く柔らかできれいな、肩で切り揃えられた茶色とも栗色ともとれる髪。
大人びた雰囲気を醸し出す整った顔。
切れ長で漆黒の瞳。
すらりとした、それでいて華奢ではない、均整のとれた体。
絵に描いたような美少女。
そんな言葉が当てはまる、誰もが羨むであろう容姿。
だが、自分の容姿には欠片ほどの関心も持たず、寝癖をつけたままの親友――咲希のいつもの姿に私は苦笑する。
「おはよ。今日も待たせちゃってごめん、雪華」
「いつものことじゃん、気にしちゃだめだって」
そう言うと咲希は気まずそうに、あはは、と笑う。
彼女の遅刻癖は今に始まったことではない。
「でも今日はいつもより十分ぐらい早く起きれたし、絶対間に合うって思ったのに……」
ため息をつき、咲希が俯く。
この癖を本人も直そうと努力をしてはいるらしい。だが、咲希と待ち合わせをし、彼女が待ち合わせの時間通りに姿を現したことは十年以上になるつきあいの中で一度もない。
私はちらりと時計の針が指す時間を確認し、立ち上がる。
「だから気にしてないってば。ほら、そろそろ行かないと遅刻するよ?」
咲希にも時計を見せ、しゅんとうなだれた彼女の手を引く。
鞄を空いた手に取り地面に目線を落としたままの咲希の手を引き、公園を出る。
「それに私、待ってるの全然辛くないし。だからそんなにへこまないでよ」
笑顔を見せながら明るくそう言うと、咲希は背後の森をちらりと振り返る。
「雪華、あの森好きだもんね……。いつも思ってたんだけど毎日見てたら飽きない?」
「飽きないよ。だって見るたびに違う表情っていうのかな? そういうのを見せてくれる気がするし」
実際は森はただただ静かにそこに在り、秋や冬でさえも木々は緑の葉を茂らせ、聞こえる音は風の吹き抜ける声のみ。
四季や時間の流れから完全に切り離されたような場所だが、私にはいつも違う表情を見せてくれているように見える。
「そうかなぁ? あたしにはただちょーっと不気味な森にしか見えないんだけど」
どうやら咲希の機嫌は少しよくなったようだ。
私はつないでいた手を離し、咲希の隣を歩き始める。
「それにさ、あたしも最近聞いたんだけど、この森、都市伝説っていうか怪談みたいな妙な昔話みたいなのがあるんだよねー。それがまたちょーっと不気味なんだよねー」
私も生まれてから今までこの街で暮らしてきたが、それは初耳だ。
「へー、そんなのあるんだ。どんなの?」
ホラーや都市伝説といった類のものが苦手な咲希は唇をとがらせながらも、渋々といった様子で歩きながら話し始める。
「妖薙さんから聞いた話でうろ覚えなんだけどさ……」
咲希の家のすぐ近くには小さいが品揃えは豊富な雑貨屋がある。
妖薙さんとはその雑貨屋の店主だ。
用途の分からない骨董品らしきものや、怪しげな護符のようなものが棚に並んでいたりするが、『雑貨屋』の名の通り生活に必要な様々な物が売られており、店主である妖薙さんの容姿と相まってこの街では少し有名なお店だ。
私も咲希に連れられて何度か足を運んだが、店の品揃えと女性客の多さ、そしてなにより妖薙さんのその容姿には言葉を失ってしまう。
モデルだと紹介されても違和感のないほど均整のとれた体。
そしてどこか妖艶で中性的で日本人離れした顔立ちに、つり目気味で琥珀色の優しげな双眸。
軽くウェーブがかかった肩よりも少し長い髪は金色。
白いシャツとジーンズの上につけた淡いオレンジのエプロンが、妖薙さんの春の日差しのような優しげな空気をいっそう引き立てているように思える。
『綺麗だ』、と思った。そしてその言葉はなんの抵抗もなく口からこぼれ落ちた。
男性に対して「綺麗」という言葉を使うのは少しおかしいことかもしれない。だがその言葉以外に彼の容姿を表現できる言葉を私は知らない。
「また妖薙さん? 咲希ってほんとに妖薙さん好きだね」
「うん! 妖薙さんのためならお店の品、いくらでも買っちゃうんだから!」
昨日も行ってきたんだよ、と堂々と胸を張り咲希がどこか誇らしげに言う。
そんな咲希を見ているとなんだか頭が痛くなってくる。
咲希のような妖薙さんのファンは少なくない。実際、私たちの通う学校にも妖薙さんのファンは数え切れないほど居るうえに、彼に会うために雑貨屋へと足を運ぶ客も多いそうだ。
それだけの魅力が彼にはあるのだろう。
だが私はただ『綺麗だ』という感情を抱いただけで、彼に魅了されたファンたちの行動は正直理解できない。
もちろん隣で妖薙さんに想いをはせながら彼の魅力について語り始めた咲希の行動も、だ。
隣で咲希が熱弁をふるう、そのうちに周囲の景色が変化し始める。
咲希との待ち合わせ場所である公園は古びた家々に飲まれ、その家々も比較的新しい住宅の波に飲まれ始めている。
私たちの歩む道も所々にひびが入った細いアスファルトの道から、住宅街のゆったりとした広い道へと変わっていた。
車道を車やバイクが走り抜け、反対側の歩道を小学生らしい子供たちが駆けていく。