【7】簒奪の勧め(5)
ブラックウッド・ウグイスの声が時折聞こえるようになった。
もう三月なのだ。
手持無沙汰に庭の花壇を見て回っていたアイリスは、いつの間にか隣家との間の柵の前まで来ていた。
同じようにあたりを歩いていたハリエットと目が合い、柵越しに苦笑を交わす。
「おはようございます、ハリエット様」
「おはよう、アイリス」
「私、昨夜のギルバートの剣幕には驚きました」
ディアドラに対して放った『ぶっ殺します』は衝撃だった。
「確かに、『ぶっ殺します』は、言葉が過ぎましたね。せいぜい『殺します』でよかったと思います」
「え……」
殺意を抱くことまでは否定しないのか。
ついまじまじとハリエットの顔を見た。
「でも、実のところ、私はそんなに驚きませんでした。あの子は元々、ああいう気の強いところがありましたし、あれでも自制していたと思いますよ」
「そうなんですか? 私、ギルバートはもっと穏やかな人だと思ってました」
「小さい頃のあの子は、身体のほうが先に動いてしまうタイプでした。あなたも相当でしたが……」
「え? 私……?」
「二人とも、なかなか手がかかる子どもたちでしたね」
ハリエットは昔を懐かしむように目を細める。
「最初から、大人しくて、勉強熱心な子どもたちだったら楽だったのですけど、決して、そうではありませんでしたよ。あなたはよく泣いていましたし……」
アイリスは幼い頃を思い出す。
行儀作法や表立った場における言葉遣い、立っている時、座っているの姿勢など、所作については細々と注意された。時間やその場のルールを守ることにも厳しかった。
言われてみれば、確かによく泣いていたような気がする。
けれど、あまり覚えていない。おそらく、心を傷つけられたことはないからだ。
「好奇心が旺盛で物事に対する熱意がある点はすばらしかったのですけどね……」
厳しくすべきところは厳しくしても、基本的にハリエットはアイリスの意思や自由を尊重してくれた。
「怒ると、すごかったですし……」
「ギルバートにも言われたんですけど、私、そんなに怖かったんですか? あまり、怒った記憶がないんですけど……」
「アイリスが何日もかけて作ったピカピカの泥団子を、ギルバートが壊してしまった時は、すごかったですね」
「全然、覚えてません」
「あの子が少しずつ慎重になって、よく考えてから行動するようになったのは、あの頃からですね。その前は、本当に自由人で……」
意外だ。
(あ、でも……)
領地を回っている時に聞いた話の中に、確かにその片鱗がある気がした。
「そういえば、ヤギを助けようとして、自分が沼に嵌ったことがあるそうです」
「まあ……」
ハリエットは母親の顔になって微笑む。
「人の本質って、意外と変わらないものなのかしら」
アイリスも微笑んだ。
そうかもしれないけれど、教育で変わる部分も多いのだと感じた。
リリーがまたヘーゼルダインを招いて食事会をすると言っていた。
ハリエットとギルバートにも来てほしいと言っていたので、そう伝えた。
「リリーはヘーゼルダインを大事にしていますね」
「小さい時に亡くなった弟と同じ歳なんだと言っていました。最初に会った時は、まだ十五歳だったので、弟のように可愛がっていたらしいです」
「今では、稀代の宰相と言われる人なのに」
「お母様の中では、いつまでも幼いクリスティアンのままみたいですよ? 私やジャスミンより、小さい子扱いすることもあって、なんだかおかしくて……」
「身寄りのなかった彼には、リリーの愛情は大きな支えになったことでしょう。彼が今、ああして活躍できるのも、リリーのおかげかもしれませんね」
少し長話をしてしまった。
「では、次の食事会でまた」
「はい」
挨拶を交わして、ハリエットと別れた。
六歳から王宮で暮らしたアイリスは、実の母以上にハリエットと過ごす時間が多かった。
いつも厳しく、それでいて優しいハリエットは、母親とは違う意味で最も身近な存在だった。
ただの教育係とも違っていた。
アイリスにとって、ハリエットは師であり目標であり、憧れだった。
そのハリエットと王宮の王妃の執務室ではなく、まだ寒さの残る春の庭先で長話をするというのは、なにやら不思議な気がする。
どこかでまた、ブラックウッド・ウグイスが鳴いた。
(なんだか、すごく平和だわ……)
重い責任や心配事のない日々に心の底から癒される。
この先ずっと、ギルバートと小さな領地を治めながら、つつましく暮らしてゆくのだと思うと、とても幸せな気持ちになった。
ほんのかすかな心のざわめきは、自分だけが幸せになることへの罪悪感だろうか。
でも、誰に対して……?
アイリスは首を振った。
いろいろ考えすぎるのはやめよう。
気を回しすぎるのは、ただの職業病だ。
今はただのアイリス・ブライトンなのだから、自分のことだけ考えればいいのである。
きっと幸せになれる。
幸せになろう。
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