【1】次期王妃、婚約を破棄される(2)
ブラックウッド王国は大陸の西端に位置する温暖な国だ。
ゆるやかな起伏のある大地に森や湖や低い山が点在し、二筋の大河によって隣国と分かたれている。
数百年の歴史を持つこの国を治めるのはリンドグレーン王室。国名の由来となった神木ブラックウッドと誓約を交わし、神器「オラクルストーン」に王の名を刻むことで天の加護を受けている。……という伝説がある。
彼らの王宮は王都であるリンドグレーン郡の中央に位置し、王宮の奥深くにある神殿の中庭には今も神木ブラックウッドが植えられている。
アイリスは六歳の時に第一王子ノーイックの婚約者に選ばれた。
ブラックウッド王国きっての大貴族ブライトン公爵家の第一令嬢であり、母のリリー・スクワイアは「聖水の女神」の血を引くスクワイア家の出身。
スクワイア家に伝わる「聖水の泉」も神器とされている。
ブラックウッド王国には三つの神器があると言われており、一つ目はブラックウッドの根元にある誓約の石「オラクルストーン」、二つ目はリリーが持つ黒曜石の水盆「聖水の泉」、三つめは失われた禁忌の石「フォビダンストーン」である。
失われた禁忌の石と言われるだけあって、「フォビダンストーン」は現在、行方不明中だ。
いずれにしても、由緒ある二つの血筋を引くアイリスは次期王妃として、これ以上ない条件を備えていたわけだ。
第一王子の婚約者、次期王妃に選ばれてから約十二年、十八歳になった現在まで王宮に住んでお妃教育を受けてきた。
貴族学院にも王宮から通った。
ブライトン家の屋敷は王宮の近くにあったし、アイリスを教育した王妃ハリエットは厳しいところは厳しいけれど、基本的には大らかで優しい人だったので、わりと頻繁に実家に帰ることができた。
週末には必ず王都の屋敷に帰れたし、春と夏と秋と冬、年に四回の長い休みには、王都に隣接するブライトン領の農場屋敷で過ごすこともできた。
だから、家族ともそれなりに楽しい時を過ごしてきた。それでも、最初の頃は父や母や兄や妹と離れて暮らすことが寂して、よく一人で泣いたものだ。
王宮の中に与えられていた広く豪奢な私室を後にしながら、十二年の月日に思いをはせる。
ハリエットからだけでなく、それぞれ専門の異なる何人もの家庭教師から、ありとあらゆる教育を受けてきた。
言葉遣いや所作に始まり、日常生活のマナー、公人としてのマナー、歴史や数学や文学などの基本的な学び、楽器の演奏……。それらを収めると、世界情勢の読み方、統計学、会計学、国家規模の予算の読み方、諸外国の言語得、各国の歴史、外交の要となる出来事などの習得に進んだ。
それらも一通り学んだ後は、国内外の貴族や王族の名前と家のつながり、交友関係を頭に入れるよう言われた。
それらも覚えきると、ハリエットの補佐をするようになった。正確には、ハリエットとディアドラの仕事を手伝い始めた。
王妃の仕事は多岐にわたる。
常に変化する情勢に気を配り、王の執務を補佐する。各地から訪れる婦人たちの陳情を聞き、精査して議会にあげる。国内貴族の結婚、社交界にデビューする令嬢たち、昇進する者たちにそれぞれ祝福の手紙を書き、不幸があれば花を手向け、そこにも手紙を添える。ひっきりなしに開かれる晩餐会やパーティーや舞踏会の招待客を決め、席順を決め……。
とにかくやることが多い。それらの仕事を一つ一つこなしてきた。
時々、ディアドラがやらかした失敗の尻拭いをしながら。
あるいは、ディアドラの代わりに火の粉や泥をかぶりながら。
そんな日々が終わる。
(本当に、終わる……)
ハリエットが王宮を去り、今後のことを思って若干胃を痛めていたところだが、思わぬ方向から背中を押され、次期王妃としての重責から解放されることになった。
ほっとする一方、うしろめたさも覚える。
本当にこれでよかったのかという迷いもある。
だが、少なくとも、今のアイリスに選択肢は与えられていない。選べないものにいいも悪いもないのだと、自分に言い聞かせた。
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