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転生したら悪役令嬢でしたが、前世が暗殺者なので断罪イベントは処刑イベントになりました

作者: 桜塚あお華

新作短編です。

今回王道をちょっと攻めてみました。


 王国の大広間は、祝宴のごとく華やかに飾られていた。

 しかし、その空気に満ちるのは、どこか冷たく、粛々とした『処刑場』のような重苦しさだ。

 シャンデリアの輝きも、壁に飾られたタペストリーの色彩も、すべてがこの場の異様な緊張感に押し潰されているかのようだった。

 壇上には、王国の名だたる貴族たちが居並び、彼らの視線が一点に集中する。

 その中央に、金髪碧眼の美しい少女が一人、毅然と立っていた。

 公爵令嬢、フィオナ・リンドバーグ。

 彼女の視線の先には、怒りに燃える少女――リリア・ノックスであり、その隣には、彼女の婚約者である第一王子、エドワード・ヴァン・オルティスが、複雑な表情で控えている。


「――これ以上、あなたの好きにはさせません!」


 リリアの甲高い声が大広間に響き渡る。

 その声は、まるで何処かで劇場の幕開けを告げる合図のように、貴族たちの間に静かなざわめきを生んだ。


「リリア様、よく言った!」

「ついにこの時が来たか!」


 周囲からは賛美と期待の囁きが漏れ、場の空気は完全にリリアが『正義』、フィオナが『悪』の構図で染め上げられていた。

 リリアは、その声援を背に受け、確信に満ちた表情で一歩、壇上のフィオナへと踏み出す。


「公爵令嬢フィオナ・リンドバーグ様、あなたは私を貶め、陰湿な嫌がらせを繰り返し、殿下の婚約者という立場を傘に着て、好き勝手振る舞ってきました。その傲慢な行いは、もはや看過できません――ここに、あなたと殿下の婚約破棄と、その責任を追及することを宣言いたします!」


 リリアの言葉が、雷鳴のように大広間に轟いた。どよめきが走り、中には息を呑む者、歓喜の表情を浮かべる者もいる。

 フィオナは、その喧騒の中心で、静かに微笑んだ。いや、正確には――冷笑、だった。

 その薄い唇の端が、わずかに吊り上がっている。


「なるほど。茶番の脚本は、最後までご丁寧に書かれているのね……いいわ、幕が下りるまで、演者として付き合ってあげる。あなたが望むなら、いくらでも悪役を演じて差し上げましょう」


 その声音は、凛としていて、どこまでも冷ややかだ。

 まるで、目の前の出来事すべてが、彼女にとって取るに足らない戯言であるかのように響く。場にいた者たちは、その異様な迫力に、一瞬、息を飲んだ。

 リリアが、フィオナの予想外の反応に戸惑いの表情を浮かべる。


「何を、おっしゃっているのですか、フィオナ様!これは茶番などでは……これは、あなたが行ってきた悪行に対する、当然の報いなのです!」


 リリアの言葉を遮るように、フィオナは静かに、しかし明確に言葉を紡いだ。

 その瞳には、一切の感情が宿っていない。


「ええ、知っているわ。あなたにとっては、これが正義の鉄槌なのでしょう?愚かで、滑稽な、けれどあなたにとっては何よりも尊い『正義』。けれど、私にとっては――ただの、予定調和に過ぎない。この世界の『物語』に組み込まれた、取るに足らない一幕。あなたが、その薄っぺらな『正義』を振りかざすたびに、この舞台はより一層、滑稽に見えるわ。まるで、人形が糸に引かれて踊っているかのようにね」


 フィオナの言葉は、リリアの胸に深く突き刺さった。

 彼女の顔から血の気が引き、瞳には動揺の色が浮かんでいる。

 隣のエドワード王子もまた、フィオナのいつもと違う、まるで別人のような雰囲気に、ただならぬものを感じ取っていた。普段のわがままな令嬢とはかけ離れた、冷徹で知的な響き。


「フィオナ……一体、何を考えているんだ? 君は、本当に……」


 エドワードの問いかけにも、フィオナは答えず、ただリリアを見つめる。

 その視線は、獲物を追い詰める捕食者のように鋭い。


「さあ、続きをどうぞ、正義に味方であるリリア様?貴女の望む結末へと、私を導いてみせて?まさか、ここで立ち止まるわけではないでしょう?」


 彼女は挑戦的に微笑んだ。だが、フィオナはそれを見ながら、内心で呟いた。


(茶番は、最終幕まで見届けないと面白くないわ。そして、この『断罪イベント』こそが、私が仕掛けた最大の罠。この舞台は、乙女ゲームのシナリオ通りになど進まない……これは、私が黒幕を追い詰め、処刑するための完璧な檻なのだから)


 ▽


 この世界に生まれた瞬間、フィオナ・リンドバーグは泣かなかった。

 なぜなら彼女は、生まれた直後からすでに、自分が『転生』した存在であることを完全に理解していたからだ。

 その小さな体は本能的に泣くことを拒み、代わりに冷徹な思考が頭の中を駆け巡っていた。


 前世の名は、『カゲ』。本名はもう覚えていない。


 国家規模の依頼を請け負い、成功率100%を誇った、伝説の暗殺者――その名は裏社会の伝説となり、彼女が動けば標的は必ず消えると言われた。

 任務に忠実で、感情に流されず、必要とあらば仲間すら切り捨てる冷徹さを持つ、完璧なプロフェッショナル。

 彼女の人生は、ただひたすらに任務を遂行することに捧げられ、そこに個人的な感情が入り込む余地はなかった。

 だからこそ、その人生に悔いはなかったのだ。


 だが、そんな彼女にも最期は訪れた。


 それは、巧妙に仕掛けられた罠だったのかもしれないし、あるいは、長年の激務がもたらした肉体の老いというものに、ついに敗れたのかもしれない。

 任務遂行中に受けた致命傷は、彼女のプロとしての冷静さを揺るがすことはなく、カゲは自らの死を静かに受け入れ、意識を手放した。

 そして、次に目覚めた時、彼女は柔らかい産着に包まれ、この異世界の貴族令嬢として産声を上げていたのだ。


(なるほど。今度は、煌びやかな“貴族社会”が舞台ってわけね……しかも、どうやら私は、その最高峰に位置する存在として生まれたらしい)


 この新たな世界での人生は、暗殺者であった彼女にとって、ある意味でこれ以上ないほど都合がよかった。

 公爵家の一人娘として生まれたフィオナは、幼い頃から最高の教育を受け、莫大な財力と揺るぎない地位、そして広範な人脈を、生まれた瞬間から手に入れていたのだ。

 それは、前世では情報収集や資金調達に多大な労力を要した要素が、すべて最初から揃っていることを意味した。まさに、完璧な『スタート』地点だった。


 しかもこの世界、どうやら前世で暇つぶしに読んだことがある、いわゆる『乙女ゲーム』の世界に酷似していることに気づいた。

 登場人物の名前、起こるべき事件、そしてその背後にある設定まで、すべてが記憶の中のゲームと寸分違わず一致していたのだ。

 その既視感は、フィオナの冷静な思考をわずかに揺るがすほどだった。


「まさか、前世で暇つぶしに読んでいた『乙女ゲーム』の世界に転生するとはね。しかも、私がよりにもよって『悪役令嬢』だなんて……ふふ、これは面白い。退屈せずに済みそうだわ」


 そして、彼女が転生したキャラクターは、まさにそのゲームの『悪役令嬢』である『フィオナ・リンドバーグ』だった。

 ゲームのシナリオでは、ヒロインを陰湿にいじめ抜き、最終的には王子に婚約破棄され、国外追放か、あるいは死刑という悲惨な末路を辿る役どころだ。

 しかし、伝説の暗殺者『カゲ』であったフィオナにとって、そんなゲームの『運命』など、取るに足らない。


「破滅の運命? そんなものは、この私には通用しないわ。むしろ、これほどの『悪役』を演じられるのなら、裏で何をしようと誰も疑わないでしょう? 最高の隠れ蓑よ」

 

 むしろ、それは彼女の新たな目的を遂行する上で、この上なく好都合な『仮面』となることに気づいたのだ。


「――この『悪役令嬢』という『仮面』、最高の隠れ蓑になるわ」


 それから彼女は、公爵令嬢フィオナというキャラクターを完璧に演じきった。

 高飛車で傲慢、プライドが高く、周囲の人間を見下す嫌な女――誰もが眉をひそめ、陰で悪口を叩くような振る舞いを、彼女は寸分の狂いもなくこなした。

 周囲からの反感を買い、孤立を深めることで、彼女の裏での暗躍は誰にも気づかれることはない。


「ええ、完璧に演じきってあげるわ。誰もが私を嫌い、誰もが私を嘲笑う。それでいい。そうすることで、私の真の目的は、より深く闇に隠れるのだから」


 すべてが、彼女の冷徹な計算ずくであった。

 

 そして、その緻密な計算の究極的な目的は、『真の敵』への接近を可能にするカモフラージュ。

 これは、この世界に深く根を張る、真の『悪』を排除するという、彼女の暗殺者としての本能に根差した使命に他ならない。

 標的はただ一人、明確に定められていた。


 ――宰相・クロード・ド・ラ・ヴァリエール。


 彼は、この王国を陰から操り、政敵を排除し、王権を形骸化させ、さらには戦争を誘発して私腹を肥やすという、ゲームシナリオにおける最終的な敵役ラスボスとして設定されていた。


「あの男の存在は、この国にとって悪性腫瘍そのもの。法も慣習も、奴には通用しない。ならば、裏から切除するしかない。……それが、私に与えられた任務。そして、果たすべき唯一の使命。」


 彼の危険性を認識した国王は、極秘裏に王家直属の『影の諜報員』の探索を進めていた。

 事実、フィオナは既に国王との接触を完了しており、王家直属の『裏の刃』として、正式にその任務を受諾していた。

 彼女は表面上、傲慢な悪役令嬢として振る舞う一方で、その裏では王の密命を遂行する影の処刑人としての役割を担っていたのである。


 そして本日――ヒロインであるリリア・ノックスによって主導される『断罪イベント』が遂行された。

 暇つぶしにしていた『乙女ゲーム』で実際にあったイベントである。

 リリアは、ゲームのシナリオに忠実に、フィオナを『悪役令嬢』として糾弾し、王子との婚約破棄を宣言する。

 彼女は純粋な正義感と、前世のゲームに関する知識を絶対的なものと信じ、自身の行動が完全に正当であると疑うことはない。

 しかし、フィオナの冷徹な視線は、その『正義』という概念の背後に潜む、見えない操作者の糸の存在を明確に見抜いていた。


 「愛らしいヒロイン殿。貴女もまた、その『正義』という名の幻想に囚われ、真の黒幕の手のひらで踊らされているに過ぎないという事実に、一体いつ気付くのであろうか? その無垢な純粋性は、皮肉にもこの舞台の複雑性を増し、結果的に黒幕の計画を利することになるであろう」

 

 この断罪イベントは、クロードが油断し、その姿を公衆の前に現す数少ない『狩り場』の一つとして、フィオナによって周到に計画されていた。

 クロードは、この場をフィオナの完全なる失脚と王家の権力弱体化を狙う、自身の勝利を確信する舞台としか認識していなかった。

 しかし、フィオナにとって、これは周到に仕組まれた『檻』である。


「さあ、獲物は既に檻の内部に誘い込まれた。残るは、その扉を完全に閉ざすのみ……貴女の『正義』という無邪気な行動が、皮肉にも、私を窮地に陥れるどころか、この檻を完成させる最後の鍵となる。この点においては、リリア様に感謝の意を表しますわ」


 会場の空気は熱を帯び、集まった者たちの誰もがフィオナを『悪』と見なしていた。

 それは彼女の想定通りであり、計画の一部であった。

 しかし、その場にいる誰一人として、この『悪役令嬢』が、どれほど恐るべき存在であるかを知る由はなかったのである。


「『カゲ』の標的となった時点で、勝敗は既に確定している……ゲームのシナリオという名の薄っぺらな筋書きなど、この私にとっては、単なる無意味な紙切れに過ぎない。さあ、絶望を味わうがよい、クロード」


 彼女の瞳は冷徹かつ計算高く、そして、確実に次の殺意へと移行していた。


 ▽


 そして、今まさに『断罪イベント』が開始されようとしていた。

 その厳粛な雰囲気は、大広間全体を支配し、貴族たちの間に微かな緊張感と期待を醸成している。


「あなたは最低ですわ!殿下の御心も顧みず、ご自身の立場のみを盾として、あらゆる不当な行為を繰り返してこられました!」


 リリア・ノックスの叫びが、大広間の隅々まで響き渡る。

 その声は、純粋な憤りを帯び、聴衆の感情を揺さぶるに十分であった。

 貴族たちは一斉に彼女へと視線を向け、その言葉の背後にある『正義』を絶対的なものとして認識し、深く頷いた。

 フィオナはその群衆の中心に毅然と立ちながら、相変わらずの冷笑を浮かべている。

 その表情は、この場の喧騒とは隔絶された、静謐な湖面を思わせる。

 しかし、その瞳は周囲の人間を――いや、彼女の視点からすれば『動く駒』に過ぎない貴族たちの微細な動きを、寸分の狂いもなく見極めていたのである。


「ふうん……『正義の味方』、ですか。その言葉が、これほどまでに安易に用いられるとは、興味深いものです」


 そう呟きながら、フィオナは視線をほんの一瞬、舞台袖へと滑らせる。

 その視線の先には、彼女が最も警戒すべき存在が、既にその定位置に就いていた。


 ――そこに、彼は存在した。


 宰相・クロード・ド・ラ・ヴァリエール。


 漆黒の礼服を完璧に着こなし、まるで舞台の主役を見守る高貴な観客のように、優雅な姿勢で佇んでいる。

 その表情は穏やかで、知的な雰囲気を漂わせているが、フィオナにはその仮面の奥に渦巻く、冷酷な支配欲と、そして致命的な油断が明確に見えていた。


(油断しているわね。完全にこの舞台の『流れ』が、彼らの意図するがままに進行していると錯覚している。彼らは、自らが脚本家であり、演出家であると信じ込んでいるのでしょうが、実際には、彼らもまた、私の掌の上で踊る一介の役者に過ぎないということに、いまだ気づいていない)


 クロードにとっても、この断罪イベントは、彼の壮大な計画の一部に過ぎなかったのは調べが憑いている。

 フィオナを悪役として公衆の面前で断罪させ、それによって国王の権威を失墜させ、さらには自身の政治的影響力を第一王子にまで及ぼすための――周到に仕込まれた布石の場であったのだ。

 しかし、それこそが、彼の命取りとなる。


(立場を濫用し、世論を操作し、偽りの『正義』を掲げて他者を断罪する……そのような行為は、確かに彼らにとって陶酔的な快感をもたらすでしょうね。しかし――それは、光の当たる表の世界に存在し得る者の特権に過ぎない。私の領域は、常にその裏側にある)


 フィオナは一歩、極めてゆっくりと、しかし確固たる意志をもって踏み出した。

 その微細な動きに、エドワード王子がわずかに反応し、戸惑いの表情を浮かべる。


 この大広間に集う貴族たちは、エドワード王子とリリア・ノックスの間に芽生えた感情の機微を、既に公然の事実として認識していた。

 本来であれば、王子の婚約者であるフィオナが存在する中で、別の女性との親密な関係は、貴族社会の厳格な規範に照らせば、重大な問題として糾弾されるべき事柄である。

 しかし、この場の誰もが、その不自然さに対して疑問を呈することはなかった。

 あたかも、それが定められた『シナリオ』の一部であるかのように、あるいは、この『ヒロイン』と『王子』の結びつきこそが、この物語における「正義」の帰結であると、無意識のうちに受け入れているかのようであった。

 彼らの視線は、リリアの言葉に込められた感情の純粋さにのみ向けられ、その背後にある倫理的な矛盾は、完全に看過されていたのである。


「……フィオナ、もうこれ以上は控えるべきだ。これ以上、お前を――」


「少し黙っていただけるかしら、殿下。私の処遇は、既にあなたと、そこに立つ新たな『恋人』殿が独断で決定されたことでしょう? 現に、あなたは私という婚約者が存在しながら、公衆の面前で別の女性に心を奪われている。その事実を前にして、今さらあなたが口を挟む余地など、存在しないはずですわ」


 言葉は刺々しく、声には冷笑が滲んでいた。

 その場にいた誰もが、気圧されたように息を呑む。

 そしてエドワードもまた、何か言い返そうとした口をわずかに開きかけ——しかし、出しかけた言葉を呑み込むようにして、静かに口を閉ざした。

 その様子を、フィオナは一瞥しただけで見逃さなかった。

 だが、彼女の本心は、すでにこの場の表面的なやり取りから一歩も離れていた。

 意識は完全に、これから始まる『段取り』へと移行している。


──護衛騎士たちの厳密な配置確認。

──宰相クロードが視界から外れる、極めて微細なタイミングの特定。

──聴衆の視線を誘導するために利用する、リリアの言葉の選定。

──そして、自らの髪飾りに巧妙に仕込まれた、極細の毒針の最終確認。


(風の流れを読むように、あらゆる可能性と、すべての事象の連鎖を予測する。それが、真の暗殺者に求められる流儀である)


 この数週間にわたり、フィオナは完璧な計画を仕込んできた。

 貴族の中に巧妙に紛れ込ませた協力者たち。宰相の微細な動きに連動するよう設定された『声なき合図』。

 毒物の調合から、その効き目の時間、そして投与方法に至るまで、すべてが彼女自身の手によって、寸分の狂いもなく整えられている。


(逃げ道は存在しないわよ、宰相閣下。あなたは、既に私の用意した舞台から一歩も出られない)


 舞台は完全に整い、演者たちはそれぞれの役割を演じ、観客は固唾を飲んでその展開を見守っている。

 そして、この劇の真の『主役』は——未だ、自身が照明の真下にいることに気づいていない。

 まもなく、クロードがその優雅な足取りで前に出てくるだろう。


「この場において、暴走する公爵令嬢に対し、我々は国家の秩序を保つためにも、毅然とした判断を下すべきであると確信いたします」


 ——そう言って、彼はこの『芝居』に、自ら進んで参加してくるはずだ。


 そして、その瞬間こそが、彼の破滅の始まりとなる。


 その瞬間、フィオナの舞台は『断罪劇』という仮の演目から、真の『処刑劇』へとその本質を変貌させた。

 彼女の唇の端がわずかに持ち上がったのは、前世の自分を思い出していたからである。

 伝説の暗殺者『カゲ』――その本性が、その冷徹かつ絶対的な輝きを放ち始めた、まさしくその合図であった。

 その変化は微細であり、一般の観衆には認識し得ないものであったが、その場に満ちる空気は、既に死の予感を孕んでいたからである。


(さあ、宰相閣下。そろそろあなたにも、この舞台の真の『主役』として、その役割を演じていただく時が来たようですわね。私が周到に用意した、この最高の舞台の幕開けを、存分に味わっていただきたい。貴方の愚かな油断が、この結末を招いたことを、しかと理解なさい)


 暗殺者の刃は、既に鞘から完全に抜かれている。

 残るは、それを標的へと放つ、寸分の狂いもない完璧なタイミングを待つのみであった。

 その静謐な待機は、嵐の前の静けさにも似て、極限の集中を伴っていた。


「はぁ……もう、いい加減にしてちょうだい……この茶番に付き合うのも、心底飽き飽きしたわ」


 フィオナのその一言は、それまでの喧騒を切り裂くように、大広間全体を絶対的な静寂で支配した。

 それまで騒がしかった断罪劇の空気は、一瞬にして凍りつき、貴族たちの間に緊張と困惑が走る。

 その声音には、演技のような高飛車な響きは一切なく、本物の『冷酷』が滲む、心の底からの言葉だった。

 それは、彼女がこの状況を、もはや許容できないほどに無意味なものと断じていることを明確に示唆していた。


「な、何を……!?今更、開き直る気ですか、フィオナ様!これまでのあなたの悪行の数々を、この私が、この場で全て暴いてあげます!」


 リリアが声を荒げる。

 その声には、戸惑いと怒り、そして、これまで感じたことのないほんの僅かな恐怖が混ざっていた。

 フィオナの予測不能な反応に、彼女の『ゲームの知識』が通用しないことを悟り始めたかのように、その表情には焦燥が浮かんでいた。


「暴く?ふふ、それは面白い冗談ですわね、リリア様……貴女が知り得るのは、所詮、誰かに見せられた『物語』の表面に過ぎない。その裏に何が隠されているかなど、貴女の浅薄な『正義』では決して見抜けないでしょう? 貴女は、ただ与えられた役を演じているに過ぎないのよ?」


 フィオナは静かに、しかし明確に言葉を紡ぐ。

 その瞳は、リリアの奥底に潜む無知と、彼女を操る見えない糸を、まるで透視するかのように鋭い。


「そんな!私は、この国の未来のために、あ、愛する殿下のために 私は、正しいことをしていると信じて――」


 リリアは必死に反論するが、その声は既に自信を失いかけていた。

 彼女の言葉は、フィオナの冷徹な論理の前に、脆くも崩れ去ろうとしていた。


「未来?殿下のため?貴女が信じるその『正義』が、誰かの手によって巧妙に仕組まれたものである可能性を、一度でも疑ったことはありますか?貴女は、ただ誰かの望む通りに、この舞台で踊らされているだけだということに、いつ気づくのかしら?その純粋な信念が、貴女を盲目にしているのよ」


 フィオナの言葉は、リリアの心に深く、そして容赦なく突き刺さる。

 彼女の隣に立つ第一王子エドワードは、フィオナの変貌した姿に目を見開いていた。

 彼の脳裏には、これまでのフィオナの言動と、今目の前で展開されている現実との間に、埋めがたい乖離が生じていた。


(この女……今、誰にも見せたことのない、まるで別人のような顔を……一体、何が起きているのだ?リリアの言葉が、まるで彼女に届いていないかのように……いや、それどころか、リリアの言葉の裏にある、深淵な何かを見透かしているかのような……目の前にいる女は、私の知るフィオナではない……)


 そして、その異様な空気の中で、フィオナは一歩、極めてゆっくりと、しかし確固たる意志をもって前へ踏み出した。

 その足音は、大理石の床に微かに響くだけで、その一歩一歩が、場の緊張を極限まで高めていく。

 その視線は、既に定められた標的へと向けられている。


――その先には、宰相クロード・ド・ラ・ヴァリエール、彼は、いまだ事態の真の意図を把握できずにいた。


「あなたの罪状を、一つだけ読み上げさせていただきますわ……この国を内側から腐敗させ、その根幹を蝕んだ真の元凶、クロード・ド・ラ・ヴァリエール。貴方の行いは、この国の未来を破壊し、無数の民衆を苦しめてきた。その罪は、万死に値する」


 その名が、フィオナの冷徹な声によって告げられた瞬間、場が、完全に停止した。

 誰もがその言葉の真の意味を理解するのに、数秒の沈黙を要し、貴族たちの顔には、困惑と不信、そして僅かな恐怖が入り混じった表情が浮かぶ。

 そしてようやく、ざわめきが爆発的に広がる。その声は、驚愕と混乱に満ちていた。


「なっ……宰相閣下を、糾弾だと……!?たかが公爵令嬢が、何を……!」

「正気を失ったのか!不敬にも程があるぞ! すぐに捕らえよ!」

「冗談にも程がある!これは一体、どういう事だ!?」


 ――その刹那。

 小さく、空気を切り裂く音がした。

 ピュン、と風を裂く、極めて微細な音。それは、訓練された暗殺者にしか認識できない、死の飛翔であった。


 誰も見ていない。誰にも見えない。


 フィオナの髪飾りの裏に巧妙に仕込まれた極細の毒針が、完璧な軌道を描き、宰相の首筋に正確に突き刺さる。

 その一撃は、まさに芸術的なまでに無駄がなく、完璧であった。


「あっ……ぐ、う……」


 クロードが息を詰まらせる。

 彼の瞳に、信じられないという驚愕と、迫りくる死への恐怖が浮かんだ。

 次の瞬間、彼の顔は苦痛に引きつり、口からは泡を吹き始めた。

 肉体は毒に侵され、急速にその機能が停止していく。

 その苦悶の表情は、一瞬にして広間の貴族たちの顔から血の気を失わせた。


「ぐ、うぅ……おお……あああっ……!」


 周囲が悲鳴を上げる間もなく、クロードはがくりと膝をつき、そのまま床に崩れ落ちていく。

 その体は激しく痙攣し、やがてぴくりとも動かなくなった。


 静まり返る議場――誰もが言葉を失い、ただ目の前の信じがたい光景に立ち尽くしていた。


 宰相が、公衆の面前で、悪役令嬢によって毒殺されたのだ。

 その事実は、彼らの常識を完全に破壊した。

 フィオナは、その混乱の中心に立つ。

 堂々と、凛とした姿勢で、王座へと視線を向け、その瞳には、任務を完遂したと言う、揺るぎない満足感が宿っている。

 国王と、視線が静かに交わる――その眼差しは、微かに細められ、しかしその奥には、深い理解と、そして満足の色が宿っていた。

 そして――フィオナは、優雅にカーテシーをしながら、その冷徹な唇を開いた。


「ご命令通り、清掃完了ですわ。陛下」


 国王は静かに頷き、その声は広間の喧騒に紛れることなく、フィオナの耳にだけ届くよう、微かに響いた。


「……見事であった、フィオナ。これにて、長年の懸案が解決した」


 フィオナは、その言葉に小さく会釈を返した。


「陛下の御期待に沿えまして、光栄に存じます」


 その時、呆然と立ち尽くしていた第一王子エドワードが、ようやく絞り出すように声を上げた。


「フィオナ……お前……一体、何者なんだ……? これまでの君の行動は、全て……」


 彼の声は震え、混乱と、そして微かな恐怖が入り混じっていた。

 目の前の女性が、自分が知る婚約者とは全く異なる存在であるという、衝撃的な事実に直面していたのだ。

 フィオナは振り返りもせず、ただ一言だけを冷たく残す。

 その言葉は、まるで氷の刃のように、エドワードの胸に突き刺さった。


「私は『悪役令嬢』よ……あなたが、そしてこの世界の誰もが、心底嫌うようなね。それが、私の役目だった。それ以上でも、それ以下でもないわ」


 一方、リリアは既に、その場に膝をついていた。

 信じていた自分自身の正義という揺るぎない基盤が、目の前で音を立てて崩れ去ったのだ。

 自分が断罪すべき悪役令嬢が、実は国王の密命を帯びた『影の処刑人』であり、真の悪は自分たちが崇めていた宰相であったという現実。

 そのあまりにも残酷な真実が、彼女の心を容赦なく打ち砕いた。

 彼女の瞳からは光が失われ、顔色は蒼白を通り越して、まるで生気のない人形のようだった。

 震える唇から、か細い声が漏れる。


「これ……は……ゲームじゃ……なかったの……? 私が、信じていたものは……全て……」


 その震える声は、虚空に吸い込まれていく。彼女の問いに答える者はいない。

 なぜならこれは、もはや無邪気な『物語』ではない。

 残酷な現実が突きつけられた、真の『断罪』なのだから。

 王の瞳が静かに細まり、そのわずかな仕草が、すべてを物語っていた。

 この『断罪劇』の裏にあった真の筋書き、王が命じ、影が処理する、表に出すことのない国家の『裏仕事』。

 そして、その極秘任務を、悪役令嬢フィオナ・リンドバーグが、完璧に、そして冷徹に完遂したのだ。


   ▽

 

 王国の大広間における『断罪劇』の終幕から、数時間が経過していた。


 その壮絶な出来事の余韻が未だ冷めやらぬ中、フィオナ・リンドバーグは、ひとり静謐な回廊を歩く。

 赤絨毯の上に響くのは、彼女の軽やかな足音のみであり、その規則的なリズムは、広間に満ちていた混沌とした感情の残滓を払拭するかのように、静かに空間に溶け込んでいく。

 窓の外には、満月が煌々と夜空を照らし、その銀色の光が回廊の奥まで差し込んでいた。


 先ほどまで身を置いていたあの場所――歓声も、怒号も、恐怖も、そして絶対的な沈黙も。

 それらすべての感情の奔流を背に、彼女は淡々と歩みを進めていた。

 その姿には、先ほどまで完璧に演じきっていた『悪役令嬢』の影は微塵も感じられない。

 仮面を外したその横顔は、静かで、冷静で、そしてどこか――深い孤独を秘めた寂しげな表情を浮かべていた。


(『フィオナ・リンドバーグ』という役も、これで完全に幕引きだわ……与えられた役割を全うした以上、もはやその仮面を保持する必要はない)


 彼女は、あくまでも与えられた役を『演じていた』に過ぎない。

 公爵令嬢としての地位も、悪役としての振る舞いも、傲慢な態度も、そのすべてが最初から最後まで、与えられた任務を遂行するための、精巧に作られた仮面に過ぎないのだ。


(舞台が終わったのならば、その役割は速やかに捨て去るべき。ただそれだけの、極めて単純な話よ)


 フィオナは、回廊の先に現れた重厚な扉を静かに開け、人気のない部屋へと足を踏み入れた。

 そこは、王国直属の諜報員にのみ用意された、密命の報告と次なる指示を受けるための機密室である。

 この場所には誰も来ない、誰にも見られない。

 そして、机の上には、既に一枚の書類が置かれており、それは、彼女の次の任務指示書であった。

 フィオナは、何の感情も表に出すことなく、その書類を手に取る。

 表紙には、簡潔かつ明確な文字でこう記されていた。


 ――機密任務 No.077:王都地下組織“白蛇”壊滅――


 そして、その下に列挙された対象者の名。


 ・統率者『白の商人』

 ・情報屋コードネーム『黒蝶』

 ・王族系譜の私生児『ロドリゲス候補』


(……まだ『仕事』は終わっていないのね。この世界に蔓延る膿は、想像以上に深いところまで達しているようだわ)


 彼女の足元には、かつて暗殺者だった頃と寸分違わぬ――標的リストが置かれていた。

 その紙面に、軽く指を滑らせる。

 一人、また一人と名を読み上げ、最終的に、誰にも聞こえないほどの微かな声で囁いた。


「……また始まるのね、『お仕事』が……終わりのない連鎖、か」


 その瞬間、閉ざされた扉の外から、微かな足音が聞こえた。

 反射的に、フィオナの手が、腰に隠し持った短剣の柄に伸びかける。

 しかし、ゆっくりと開かれた扉の向こうにいたのは――セレスティンであった。

 彼は、乙女ゲームにおける『攻略対象』の一人でありながら、フィオナが転生して間もない頃から、その真の姿と目的をいち早く見抜き、影で彼女に協力し続けてきた唯一の理解者。

 彼の顔には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいる。


「相変わらず警戒心が強いな……でも、それでこそ君らしい。君のその本質は、決して揺らぐことがない。僕が知る限り、君は常にそうだった」


 彼はそう言いながら、静かに部屋の中へと入ってくる。

 その視線は、フィオナの冷徹な瞳の奥に、彼女自身も気づかぬような温かい光を見出そうとしているかのようだった。


「全部、終わったね。君の、あの『悪役令嬢』としての役目は」

「まだよ。あれは『序章』に過ぎない……これからが、本番。この国の真の闇は、まだ消え去ってはいないわ。それに、貴方との協力関係も、まだ終わっていないでしょう?」


 フィオナは、静かに、しかし断固とした口調で言った。

 セレスティンはその言葉に目を細める。彼の心には、フィオナの強さと、その背負う宿命に対する深い理解と、そして秘めたる感情が渦巻いている。

 彼女の孤独を知るからこそ、彼は常に傍にいたかった。


「それでも、君が演じていた『フィオナ・リンドバーグ』は、もういない。君は、あの仮面から解き放たれたのだから」

「……そうね」

(でも、昔の自分……『カゲ』ももういないわ。私は今、この世界で生きている。過去の自分に縛られるつもりはない)


 その静かな言葉の裏にあったのは、確かに『選択』だった。

 暗殺者でも、悪役令嬢でもない、彼女自身の人生を、今ようやく歩み出そうとしているという、確かな意志。

 セレスティンは、彼女の返事を聞きながら、彼女の隣に立つことを何よりも望んでいた。

 彼女が選ぶ道が、たとえどれほど険しいものであっても、彼だけは彼女の傍らに在り続けたいと願っていた。

 セレスティンがふと窓を見上げる。

 満月の光が、彼の穏やかな顔を照らしていた。


「月が綺麗だね。まるで、君のようだ」


 フィオナは、その言葉に答えず、ただ短く息を吐いた。彼女にとって、月はロマンチックな存在ではなかった。


「月の明かりは便利よ。死角が多くなるもの。暗殺者にとっては、最高の舞台装置だわ」


 その台詞に、セレスティンは苦笑を漏らした。

 やはり、彼女は変わらない――だが、その変わらない冷徹さの中にこそ、彼が惹かれる真のフィオナがいるのだ。

 そして彼女は、新たな任務指示書を手に、夜の闇へと歩き出す。

 彼女の歩く先にあるのは、終わりのない戦いか、ようやく訪れる平穏か、それとも――まだ誰も知らない、彼女自身の真の物語か。


 だが、ひとつだけ確かなことがある。

 最強の暗殺者は、何度生まれ変わろうと、決して獲物を逃がしたりはしない。

 そして、今の彼女はその刃を、守るために振るうこともできる。

 守るべき者、守るべき場所を見出した時、彼女の力は真の輝きを放つであろう。


 今回、『悪役令嬢』は役目を終えた。

 だが、『彼女』の物語は、これからも続いていく。

 静かなる影として、華やかな舞台の裏で、そして、彼女を見守り続ける者の傍らで。

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