響と不思議な絵画
頬杖を突きながら、眼鏡の奥の瞳が瞼が重くなるのを懸命に耐える。
うららかな日差しが店内に差し込んでいた。
その温かさが午睡を誘う。
ましてや、読書による徹夜明けの昼食後という事もあって眠気は何処までも加速していた。
ここはおいかぜ骨董店。鯖江道のカルト組織達が愛用する古物店だ。
必死に眠気と戦いつつ、店台に立つ少女の名は宗谷沙都子。この店の店長であるフリーランスの魔女だった。
灰色の髪が睡魔との戦いでユラユラ揺れる。
店内にはアルバイトの三人娘。客は一人、この店の常連客であるロビン・リッケンバッカーのみである。
「店長、大丈夫ですか? 随分と眠そうですが」
三人娘の内の一人、艶やかな黒髪の少女、吉野豊が見かねて尋ねる。
「ん……結構きつい。徹夜なんかするもんじゃないな」
「仕事熱心なのは良い事ですが、適度な休息や睡眠は大切ですよ?」
心配の声に沙都子は瞳を泳がせる。
徹夜はしたが仕事とは全く関係ない。
三人娘の周防昴から勧められたヘレン・ファウスト著のライトノベル、黒騎士シリーズを一気読みしたのが原因である。
昴が持ち込んだ黒騎士シリーズのアニメを延々と流しながら、ツッコミどころ満載の小説を頭を空っぽにして楽しんだ。
そのツケが今、襲い掛かっているのだった。
当の昴は今日も元気いっぱいといった様子だ。輝かしい銀の髪を揺らしながら、鼻歌交じりに商品の手入れに奔走している。
読書会兼鑑賞会に半ば無理やり付き合わされた三人娘の最後の一人、和泉庵が乱れた金髪を気にもせずに徹夜明けの奇妙なテンションで接客しているのを見ると、この徹夜疲れも年齢によるものではなさそうだった。
長閑な午後の店内。来客を知らせる鐘がなる。
入ってきたのは立派な髭を生やした初老の紳士だった。
品の良いスーツが包む肉体は、鍛えたかのようにがっしりとしている。
「いらさーい……」
「いらっしゃいませ!」
紳士は帽子を脱いで会釈する。
そんな紳士に、ロビンは親しげに声をかけた。
「やっほーテッシン。今日は何用かな?」
「やあ、ロビン君。いや何、店前に珍しいモノが置かれていたので気になってね」
「あの子達は売り物じゃない! ダメダメダメ、売らないわよ!」
壊れた人形のような身振り手振りを加え、異様なテンションで忠告する庵。
「……庵君、どうしたんだね? そんなに目を血走らせて……?」
「徹夜明けだよ。気にしない」
「ふむ。大変だね。しかし、あの狛犬はいったい? 奇妙な魔力を感じるが……」
紳士は店の前にこれまで存在しなかった二匹の狛犬像に興味深々な様子だった。
「ん~あ。私の使い魔だよ。つい最近、ウチのセキュリティ不足が判明してね。用心棒に雇ったんだ」
欠伸を噛み殺しながら沙都子は答える。
「成程。買い取りたかったが売り物でないなら仕方なし。折角だからエントランスに飾れる物でも探そうかね」
「どうぞご自由に~」
紳士の瞳が店内を見渡す。良さそうな古物を確かめながら、ロビン達との雑談に興じていた。
「して、ロビン君。君は何か掘り出し物を見つけたのかな?」
「ふっふっふ~。よくぞ聞いてくれた! 見て見て、これ! 今日ロビンさんが見つけた掘り出し物!」
ロビンが鞄の中から取り出したのは古ぼけてはいるが状態の良さそうな外国語の本だった。
「赤い竜? 君からすれば珍しい本でもなさそうだが……」
「ところが! なんとこれ、初版本なんだよね~! たとえありふれた魔導書でも、こういったレアものが手に入るとやっぱり嬉しい訳だよ、うん」
嬉しそうに戦果報告をするロビンの姿を微笑ましく思いながら、紳士の瞳は彷徨い続ける。
やがて、その視線は一つの絵画の前で止まった。
「む? この絵は……」
寂しい絵だった。半ば砂漠化した荒地の絵。夕日の赤光が反射した様を映したどこまでも赤い絵画。
「お目が高いわね! その絵はかの高原蓮なる画家が描き上げたとされる逸品! さあ、買った買った! 買いなさいよ!」
睡眠不足で壊れ気味のまま言葉を捲し立てる庵を背に、紳士は何時までも絵画を眺め続け……。
絵画が結構な値段で売れ、ホクホク顔のまま意識を手放した沙都子であった。
今回、牧師から紹介された仕事は何時もと勝手が違っていた。
普段、牧師は引き受けた依頼の中から響達でも対処可能な仕事を見繕って割り振っていた。
なるべく暴力沙汰にならず、もしもの時の為にロビンと孔明という御守役も同行させるのが常だった。
しかし、今回の仕事はロビンも孔明も参加不可。それどころか、何故か一際幼い印象の持ち主である環を直々に指名してきたのである。
本来、環だけが受けるはずだった仕事。駄目で元々とばかりに同行を頼んでみた響だったが、依頼主の了承を得る事が出来た。
早速、共に現場へと赴いた響達であったが。
「環様、お待ちしておりました」
瘦身の紳士が少女達を出迎えた。
まるで剥き身の刀身の如き鋭さを湛えた初老の男だ。
灰色掛かった頭髪。釣り上げられた切れ長の瞳が刃のような輝きを錯覚させる。
そんな剣呑そうな外見に反して、至極穏やかな口調のまま紳士は続ける。
「宮辺響様、滋野妃様、来栖遼様ですね? この顎門会までご足労、有難うございます」
客室に通される。
小奇麗な部屋の中、ソファに腰掛けた響達の前に、紳士はパウンドケーキとコーヒーを配っていた。
「では、自己紹介をば。私は蘆原良賢。この顎門会の副会長を務めています。環様とは教会での用事の際に知り合いました」
「んで、蘆原さん。私達に……と言うか、タマに頼みたい仕事って何なんだ?」
早速ケーキと格闘を始めた環を眺めながら、響は問うた。
「はい。響様は我が会館のエントランスをどう感じましたか?」
「どうって……」
響は思い返す。確かに奇妙に思っていた。
本来は清潔な印象を受けるエントランスだったのだろう。
洗練された……悪く言えば無機質なエントランスはしかし、何故かとっても砂っぽかった。
放棄されたまま年月が積み重なった廃墟。比較的新しい建物の筈なのに、響が抱いた印象はそのようなものだった。
実際には新しい物なのだろう飾られた調度品や絵画の数々までも、随分と色褪せて見えた。
唯一、生けられた花々だけが鮮やかな色彩を保っていた。
そんな感想を正直に打ち明けると、蘆原は同意を示す。
「まさにその通りです。元々はこの部屋同様に小奇麗なエントランスだったのですよ」
「そーだよね。前にしゅー君と遊びに来た時は、とってもピカピカしていたもん。りょーけんさん、会館の皆お掃除サボってたの?」
「いえいえ、環様。寧ろ以前よりも念入りに掃除をする様になりましたとも。今日も皆様が足を運ぶ前に徹底的に綺麗にしました。その結果、あの程度で済んでいるとも言えるのですよ」
「一体何があったんですか?」
「遼様、それが我々にもさっぱりでしてね。ここ最近、朝にこの会館に赴くと、エントランスの床が砂で埋め尽くされているのです。原因は全くの不明でして」
「それじゃ、今回の仕事は……」
「はい。エントランスで起こっている怪異の正体を探る手助けをして欲しいのです。原因さえ分かれば、後は我々が対処します」
「りょ~か~い。それにしても本当に私で良かったのかな? こういったおしごとなら、ロビンちゃんやヒロにーちゃんの方がてきにんだと思うよ?」
そんな環の言葉に蘆原は溜息をつく。
「会長、最近変なのですよ。部屋に籠りがちなうえ、どうにも挙動不審気味で。最初はロビン様に直に頼もうかと思ったのですが、会長が首を縦に振ってくれないのです。他の方に依頼しようにも、この件は我々だけで解決しないと沽券に係わるの一点張りで……」
「てっしんさん、そんなに頭固かったっけ?」
「以前はそんな事はなかったのですが。この件に関してだけはどうにも頑ななのです。環様ならばよくうちの会館に足を運んでいますし、何時ものように遊びに来たと言えば依頼を受けた事も誤魔化せるかと」
「タマに頼んだのはそれが理由か」
「ええ。ですので皆さん。あくまで遊びに来た環様の御友人という立場で会長に接するよう御願いします。ロビン様達が同行できなかった件に関しては、不肖、この蘆原が微力ながら手を御貸しいたしましょう」
顎門会。それは近代魔術を嗜む紳士達の為に、沢城鉄心が開いた会である。
結成当初は学問会と称していたが、沢城がもっとハッタリのある漢字に変えようと提案して今に至る。
その実態は、魔術やオカルトに興味のある者の為に設けられた親睦会だった。
あくまで趣味は趣味。彼らは人生のスパイスとして神秘を求めているだけであり、それに一生を注ぎ込むような破滅的な生き方は望んでいない。
他の真面目なカルト組織からすると随分といい加減な覚悟で神秘に向き合っているように見られがちではあるが、彼らは寧ろ深淵の深さをどの組織よりもよく理解していた。
彼らはスリルを味わうのを楽しんでいたが、安全が確保された状態でなければ深淵に深入りしたりはせず、浅い場所で神秘を楽しむのに満足していた。
バンジージャンプは好きだが、紐無しでやる程入れ込みはしない、そんなスタイル。
真面目に魔術に打ち込まないが故に、彼らは他のどんな組織よりも上手く魔術と付き合って生きている。
そんな緩やかな団体であるためか、興味を持った人間ならば会員でなくとも自由に会館を利用する事を許可していた。
資料室の魔導書も会員に頼めば読む事が出来る。
結果、鯖江道では新参の魔術師が勉強目的に足繫く通う初心者向けスポットとして有名だ。
一応、深淵の深みに嵌らない様に忠告をしてはいたものの、強制はしなかった。
魔術の使用は自己責任。それで破滅するのも魔術師次第という訳だ。
そんな訳で、今日も人々がごった返すエントランス。
年若い魔術師や、魔術師志望の若者達が互いに情報を交換し合ったり、会員に助言を求めたりしている。
会長の許可を取ったのであろう占い師達が競うように店を並べ、人生や恋に悩む者達を温かく迎え入れていた。
流石に人通りが多くなってくると、響が当初感じていた荒涼とした廃墟感も薄れてくる。
今やエントランスは活気に満ちた空間へと変貌していた。
人が多くて原因の調査は思うように進まないが、遊びに来た一般人という体である以上は閉館後まで残って調べる訳にもいかない。
手分けをしての捜査。しかし、響以外にとってはどうにも誘惑が多いようだった。
質問する魔術師志望者を装って会員から情報を聞き出そうとした妃は、さっそく会員の脱線したオカルト話に引き込まれている。
根が何処までも善人な遼は、会員が調子の悪い機器を前に四苦八苦しているのを見かねて修復に乗り出していた。
環に至っては、会館の魔術師達のマスコット扱い。今も若い魔術師達と一緒になって雑談に興じる始末。一応は情報収集しているともとれるが、会員以外から真っ当な情報が得られるかは怪しい所だった。
まあ、何時もの事。調査が進展すれば彼女達も真面目になる。響は慣れた様子で単独で行動していた。
「あら? 響じゃない」
唐突に掛けられた声。その方向には、見知った顔があった。
「うげ……」
「嫌そうな顔しないでよ。店長は店で御仕事中だから、此処には居ないわよ」
声を掛けてきた少女は灰堂マリ。メイド喫茶マリー&セレストの店員だ。
響達をメイド喫茶に引き込もうと躍起になっている店長のガラシャが居ない事を確認すると、響は安堵の表情を浮かべた。
「お前ら、もう仕事終わったのか? て言うか何で此処に?」
「休暇よ、休暇。此処に来たのはルミの付き添い。あの子、占いに嵌っているのよ」
確かに、占い体験コーナーには鴫留ルミの姿が見える。
優しい占星術入門の看板を掲げる占い師の話を聞きながら、熱心にメモを取っているようだ。
「最近休暇が入る度に此処に来るものだから、私達もすっかり常連って感じ。私はこれから資料室に行こうと思っているんだけど、暇ならあんたも来ない?」
「悪いが野暮用で此処に来ているんでな」
「あら残念。それじゃ、また会いましょう。マリー&セレストは何時でもあんたの為のメイド服を用意してあるわよ」
にやにや笑いながら、マリはその場を後にする。
あの店長は何時になったら諦めてくれるのか。響は頭を抱えた。
気を取り直して調査に戻る。
一人の金髪の少女が目についた。
マリとルミの同僚、朴シンシアだ。
澄んだ青い瞳が飾られている絵画から離れない。
響は絵画を覗き込む。赤い荒野を描いたものだ。照り付ける太陽。爽やかな青空と荒涼とした砂場の対比が印象的である。洞窟の前ではコアラに似た生物が屯している様子が描かれていた。
「……その絵、気に入ったのか?」
響の言葉に、シンシアは首を横に振った。
「んと……この絵。こんなだったかなって思っていたです。前にルミちゃん達とここにきたときにくらべて、おひさまの場所やコアラさんの位置がずれているように思えるです。あたらしい絵に変えたのかなって会員さんに訊いたら、前と同じ絵だって笑われたですよ」
たどたどしい日本語で答えるシンシア。会員の回答に、どうにも納得がいっていない様子だ。
響もまた、この絵に若干の違和感を感じていた。どうにも魔力が籠っているような、いないような。
最も、此処は立派な魔術結社。魔力を秘めた品物があっても不思議ではないのだが。
ふと、絵画から乾いた風を投げかけられたような気がした。
砂気交じりの熱い風。
響は気付く。これは門だ。離れた土地を繋ぐ門。
恐らく、エントランスの砂はこの絵画を通して此処に現れたのだろう。
しかし。今、絵画は閉ざされたままだ。
門を開くには鍵がいる。その持ち主は今何処?
怪異の原因を見つけるという一応の目的は果たされた。
後は蘆原達の仕事だが、中途半端なままで事件を放り出すつもりは毛頭ない。
鍵の存在を解き明かすべく、響は蘆原への報告に向かうのだった。
「結局、鍵は見つからず、か」
午後七時前。閉館時間が迫る。
エントランスには帰宅を促すアナウンスが流れていた。
「ごめんね、りょーけんさん。犯人、全然見つからなかったよ」
「いえいえ。こちらこそ無理を聞いて頂いたのです。依頼自体は完遂していただいたのですから、お気になさらず」
「とは言ってもな……報酬を貰う以上しっかり仕事はこなしたかったんだが……」
響達が帰宅しようとした時だった。
蘆原の元に屈強な体をスーツに閉じ込めた髭面の紳士がやってくる。
「会長」
「かいちょーさん。こんばんわ~」
「やあ環君。こんな時間まで遊び歩いていると牧師さんも心配するよ? おや、見ない顔だね。そちらのお嬢さん達は?」
「ヒビキちゃんにキサキちゃん、それにハルちゃんだよ! 私の大事なお友達!」
「そうか、そうか。私は沢城鉄心。此処の会長をやっているものだ。っと、もう閉館時間だ。今日はもう遅い。よかったらまた今度、遊びに来なさい。蘆原君?」
「何でしょうか」
「私は今日も忙しい。怪異の解決の為に集中したい故、誰も会長室に近寄らせないで欲しい」
「会長……実はあの絵画が……」
「いいかね? 絶対だよ? 絶対に入って来てはならないからね? 私と君の約束だ」
蘆原の言葉を遮って沢城が会館の奥へと去っていく。
余りにも念を入れた確認。響の心中に疑念が沸き上がる。
「……怪しいな。あそこまで念を入れて忠告する必要があるか?」
「響様。確かに怪しく思えましょう。しかし、念には念を。怪異に対しては何処までも慎重に対処するのが我々なのです」
「だったら尚の事、専門家に任せるべきだろ。何だって一人で解決する事に拘る?」
「それは……」
言葉に詰まる蘆原。
確かに響の言う通りだ。そもそも、この会館が怪異に巻き込まれたのは一度や二度ではない。その際はしっかりと専門の魔術師達に依頼して解決してきたのである。今回に限ってそれを認めないというのは余りにも怪しい行動だった。
「そもそもだ。あの絵を買ってきたの、会長なんだろ?」
「響様は会長を御疑いで?」
「怪しい所だらけだろ、あいつ。絵画が原因ってあんたの言葉を遮るように会話を切り上げたし、どう見てもこの絵が門だって事を知っているだろ」
「しかし、納得いきません。魔術に入れ込みすぎれば深淵に取り込まれる。己を律して他人を巻き込まない様にしよう。常々そう仰っていた会長が魔術を用いて問題を起こすなど……」
「……覗くか。会長室」
「え~! ダメだよヒビキちゃん! かいちょーさん入るなってあれほど言ったじゃない! きっと見られたくないものがかいちょー室にあるんだよ! 男の人の部屋には必ずそういうものがあるってロビンちゃん言ってたもん。ベットの下とか、机の裏とか……」
「タマ……見るなのタブーは破られる為にあるんだ」
音を殺して会長室。
渋る蘆原と約束を守ろうと躍起になる環を説き伏せ、響は会長室の前にやってきた。
そっと扉を開けてみる。
隙間から見える明るい室内で、沢城が何かブツブツと呟いていた。
此方には気づいていないようだ。
響は耳を澄ます。
「……可愛いなあ。可愛いなあ。私達はずっと一緒だよ……」
孫を甘やかすかのような猫撫で声。
チラリと映るは沢城。
幸せ一杯といった蕩け切った表情で抱き締め頬擦りするその対象は……何処かコアラに似た容姿の小さな生物であった。
「怪異警察だオラァ!」
勢いよく扉を蹴破って室内に転がり込む響。
突如の行動に固まったのは沢城だけではない。扉の前の蘆原達もまた、響の行動に唖然としている。
「ななな何かね、君! 会長室に入るなとあれほど……」
「喧しい! その生物、エントランスに飾られた絵に描かれていた奴と同じじゃねえか! 手前あの絵が門だって初めから知っていたな!」
捲し立てる響の言葉に視線を泳がせる沢城。その様子は自分が犯人だと暴露しているのも同然だった。
「か……会長。本当にあなたが元凶なのですか?」
「い、いや、だって君らに本当の事を話したら、あの絵を処分しようとするだろう? そうしたらこの子を……有加利ちゃんを愛でる事が出来なくなるじゃないか!」
「いや、その子を元の場所に戻せばいいだけの話じゃないですか!」
「嫌だい嫌だい! 私はずっと有加利ちゃんと暮らすんだい!」
生物を抱きしめながら見苦しい駄々をこねる初老の紳士。それをコアラ似の生物は蔑んだ冷たい瞳で眺めている。心底迷惑そうだ。
「ほら見なさい! その子も迷惑そうにしていますよ! 早く元の居場所に戻してあげなさい!」
「……くくく……こうなったら! 縛!」
その言葉と共に、床から光り輝く鎖が姿を現した。
完全に不意を突かれた一同は、鎖に絡めとられて身動きできない。
「驚いたかね? まさか魔女以外に呪文を省略して魔術を発動できるとは思ってもみなかっただろう? 床を見て見たまえ。私の御宝の一つだ」
言われた通りに視線を落とすと、五芒星の描かれた魔法陣のカーペット。
どうやらこれが魔術の補助として機能しているようだった。
「さあさ蘆原君! 戒めを解きたくば私と有加利ちゃんの仲を認めたまえ!」
「会長! 魔術の深淵に引き込まれてますぞ! 何かもうダメな方向に!」
沢城の醜態を嘆く蘆原を余所に響の視線は相変わらず床に……己が影に向けられている。
影の中で赤い双眸が光る。
「行け! シオン!」
「合点招致!」
響の影から吸血幼女シオンが沢城に向けて飛び掛かる。
沢城は思ってもいなかった乱入者に目を見張らせた。
一瞬の隙。だが、それはほんの一瞬に過ぎなかった。
「縛!」
冷静に一言呟くと、新たに現れた鎖がシオンを巻き取る。
「くくく……若いのになかなかやるなあ響君。ほんの少しだけ驚いたよ。ほんの少しだけね。だが、私の方が魔術師としての実力は上だったようだね」
これが愛のなせる力だよ、と勝ち誇る沢城。
しかし、勝ち誇るのは彼だけではない。響もまた、勝利を確信していた。
床に転がるシオンとアイコンタクト。もう既に、彼女の目的は果たされている。
それは沢城の影に自らの影を繋げる事。
「出番だ芙蓉!」
瞬間、沢城は自身の影からそそり立つ様に現れた何かに突き上げられ、盛大に宙を舞う。
天井に叩き付けられ、そのまま落下。衝撃で意識を手放した。
術者が気絶した事で鎖が掻き消える。
戒めから解き放たれた一同の前には、目を回して倒れ伏した沢城……そして、くねくねと勝利の舞を踊る妖樹の姿があった。
「行き過ぎた愛情は人を狂わせるものなのですね。まさか会長が自らの教えに背いて此処まで盲目になるとは……」
蘆原は溜息を吐く。一方的な愛情を向けられていた生物に同情の視線を向けた。
有加利と名付けられた生物は、部屋の中に備えられた飼育ケースから虫を取り出して食している。何となく気にするなと言っているような気がした。
「そんで、如何する? あの絵は物置にでも仕舞って置けばいいが、その前にこのコアラ擬きを元の居場所に戻さなきゃならないだろ? 私ら、門の開き方なんて知らないぞ」
気絶したままの沢城。門を開く鍵は彼が持っているのだろうが、有加利を溺愛する彼が門の開き方を洩らす等とは到底思えない。
仕方なく、食事中の有加利を部屋に放置したまま、一同は資料室へと足を向けた。
何か情報が無いか、一縷の望みをかけての事だったが、生憎と資料室はその期待に応えられなかった。
書架に収められているのは「魔術入門」「春秋分点」「生命の樹」「ヴェールを脱いだカバラ」といった近代魔術の本ばかりで、古い魔術に位置する絵画の謎を解く鍵にはなりそうもない。
どうしたものかと悩む一同の下に、有加利がのそのそとやってくる。その手には丸めたカーペットと分厚い日記帳を抱えていた。沢城の日記だ。
これを見ろと言わんばかりに差し出された日記を開く。
『面白い掘り出し物を見つけた。高原蓮の絵画だ。あからさまにレン高原を捩った雅号。部屋で怪死していたこの画家については噂で知っている。何でも空間と空間を繋ぐ不思議な曇り硝子を持っていたそうだ。本人は否定し、実際にそんな物は彼の住処から見つからなかったのだが、とある噂ではその曇り硝子を粉にして絵具に混ぜて幾つかの絵画を仕上げたという。果たして、これがそうなのか?』
『門の繋ぎ方は幸いにも承知していた。必要なのは星と呪文。星は本来ならば床に書く必要があるが、五芒星のカーペットで代用できそうだ。呪文は以下の通り。ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん。ダゴン秘密教団の聖句と同じだ』
『絵画の前で呪文を唱えると、絵画の空が赤から青に変わっていく。途端に生き生きと動き出す風景。本物だ。ならば、この門は彼方側からでも認識できるはず。気を付けねば』
『カーペットを丸めて門を閉じた。門は絵画に戻ったが、買った時とは違い空が青く染まっている。どうにも以前に見た最後の光景が門を閉じた時に絵画化するようだ。門の繋ぎ方によっては風景を変える事も出来るだろう。定期的に絵画を買い替える必要がなくなったのは嬉しい誤算だ』
『運命の出会い! 今日、門を開いてみると、絵画を通して紛れ込んできた者があった。すわ怪物かと身構えていたら、コアラのような小さな生物だった。何という愛らしさ! さっそく有加利ちゃんと名付けて匿う事にする。これからはずっと一緒だよ、有加利ちゃん!』
『今日もまた、門を開く。有加利ちゃんは何でも食べる健啖な子だが、どうにも地元の味が好みらしい。この子と一緒に紛れ込んだ虫を美味しそうに食べていた事を思い出し、調達しようという訳だ。ただ、しっかり抱きしめていないと有加利ちゃんは門の中に入りたがる。どうにかしなければ』
『絵を会長室からエントランスに移す事にした。此処なら会長室よりも遥かに広いし、沢山の虫が迷い込んでくるだろう。有加利ちゃんを会長室に待機させておけば、私は自由に行動できる。我ながらいいアイディアだ』
『予想通り! エントランスで門を開き、しばし放置しておくと砂を含んだ風に乗って、様々な虫が迷い込んできた。一匹残らず回収する。これで有加利ちゃんの食べ物には困らない。ただ、門を開閉する時間はしっかりと決めた方がいいだろう。これを守らないと絵の印象がガラリと変わって会員達にバレかねない』
赤裸々な犯行告白の数々。
全くあの会長は、と頭を抱える蘆原。
響は有加利から受け取ったカーペットを確認する。しっかりと五芒星が描かれていた。
「とりあえず、これで門を開けますわね! どんなものなのか、今から楽しみですわ~!」
好奇心に満ち満ちた妃を先導に、エントランスにやってきた響達。
例の絵画の前でカーペットを広げる。日記を広げて呪文を確認しようとすると、あの聖句なら諳んじる事が出来ると環が名乗りを上げた。
軽い調子で環が呪文を唱える。
絵画が動き始めた。二次元だった画像が三次元に拡大されて行く。
やがて、乾いた風がエントランスの中を満たし始めた。門が繋がったのだ。
「凄い凄い、凄いですわ~!」
目の前で起こった人知を超えた出来事に、妃は一人喝采を上げる。
絵画に手を伸ばす有加利。届かないのを見かねた遼が、コアラ擬きを抱きかかえる。
その時だった。
「有加利ちゃあああん!」
会長、覚醒す。
会館を揺るがす咆哮を上げながら、沢城がエントランスに駆け込んで来た。
その声を聴いて慌てた様子を見せるコアラ擬き。遼の手を借りて間一髪、門の中に飛び込んだ。
「ああ!」
絵画の前に駆け付けた沢城は悲嘆の声を上げる。
「有加利ちゃん! 戻っておいで! 有加利ちゃ……」
嘆願の声が急に途絶える。
門の外。
照り付ける太陽。青空の下、有加利が嬉しそうに荒地を駆け回っている。
喜びの鳴き声を一つ。
それに誘われて、洞窟から無数のコアラ擬きが姿を現した。
大小様々なコアラ擬き達が、有加利を囲んで歓喜の声を上げている。
心底嬉しそうな有加利の顔。
大切な家族との一時。
人間の世界では与える事が出来ない確かな幸福が其処にはあった。
沢城の頬に涙が一滴。
「てんちょーさん……」
「分かっている。分かっているさ、環君。有加利ちゃんの幸せは家族と共にあるんだ。真にあの子の幸せを望むのなら、私は身を引かなければならない。だけど……」
堰を切って流れる滂沱の涙が床を濡らしていく。
「悲しいなあ……。あの子の幸せを祝ってやりたいのに涙が止まらないよ。何でだろうね、環君」
嗚咽する沢城を環が慰める。
そんな茶番を白々しい目で見つめる響達。
事件の元凶が何だか綺麗な感じで物事を閉めようとしている。
自分を悲劇の主人公とでも思っているのだろうか。
涙を流しながら門を見つめ続ける沢城。
その哀愁漂う無防備な背中をどつき回してやりたい感情に駆られる響であった。