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 リフェンナにとって、顔見知りが知らないうちに成長して、老いて、知らない間に死んでいくということは、よくあることだった。リフェンナだけが変わらないのだから仕方ない。

 それに対して悲しみも苦しみもなかったが、大きくなったマトラドの背中に、何か嫌な予感がした。


 ソファに隣り合って座る。

 この頃はまだ一人暮らしで、来客もほとんどなかったため、一つしか置いていなかったからだ。


「まずいな」


 一口飲んだマトラドが言う。


「どうやったらこんなにまずく淹れられるんだ」


 率直な感想だった。

 少年時代から、こういうところは変わらない。この男は昔から、どうしてかリフェンナに対してだけ、何も取り繕おうとしない。

 味を確かめたうえで出したわけだが、リフェンナに申し訳なさなど欠片もなかった。残念ながらリフェンナの人格は良くはない。


「飲みたくなきゃ、飲まなくたっていいのよ」

「いや」


 短くそう返したのち、マトラドはぐっとカップの中身を飲み干した。

 これにはさすがのリフェンナも驚いて、「頭おかしくなったの」なんて言ってしまう。


 顔を顰めたマトラドは、急に幼く見えた。そんなはずはない、と瞬きをすれば消えてしまった。

 なんとなく残念に思う。もう少し、リフェンナの知っているマトラドを見ていたかった、かもしれない。

 深く深く息を吐いたマトラドは、改めて真剣な顔を作って、リフェンナに向き合った。

 リフェンナが姿勢を正すことはない。顔だけを彼に向ける。


「なに」


 貯め込んだ金はいくらだったかな、と考える。


「当ててあげようか」


 ニッと笑んで見せれば、マトラドの青い瞳にリフェンナの意地悪い顔が映る。


「市民権が欲しいんでしょ」

「……ああ」


 マトラドが頷いたのを確認して、すぐに立ち上がった。

 金はいくらでもある。それこそ腐るほど。問題なのは、この男に改めて市民権を与える理由だ。

 適当な理由でも、リフェンナが言えば簡単に審査は通るだろう。しかし、きっとこの男はそれでは納得しない。アドルヴェリアという女がそうだった。

 稼業は悪事であるというのに、変に頑固に自分の中の正しさを曲げなかったあの女に育てられたなら、マトラドもそういう男に育っただろう。


 寝室の壁に貼りつけていた身分証明書と、机の上のペンとインクと何枚かの紙を取って戻る。

 マトラドの隣に座り直して、今度は体ごと彼の方を向いた。


「これが私の身分証明書。これと金、あと推薦書と申請書を持って中央教会に持っていけば、まず教会での審査が行われる。教会で認められれば、次は議会での審査になる。こっちでも金が必要よ。おまえ、歳は」

「二十八で通してる」

「わかった。その歳なら、早くて一年、遅くて五年ってところね」

「結構かかるな……」

「そりゃあそうよ、人間は次々生まれてくるんだから、若い方が優先されるわ」


 ペンにインクを吸わせ、試し書きを兼ねて軽く文章を考える。推薦書の内容は雑でも構わない。最後にリフェンナのサインさえ書いておけば、あとは役人たちが上手く気をまわしてくれるだろう。


「どうして今になって、市民権なんか欲しくなったの」


 書きながら、問う。

 十年以上も連絡なしに、急にやってきたと思ったらこれまで必要としてこなかったものを欲しがったのだ。何もなくそんなことは言い出さないだろう。


 どんなにくだらない理由であろうと、リフェンナはマトラドの市民権を勝ち取ってみせるつもりだった。

 それがアドルヴェリアの願いだったからだ。約束は破るために存在しているが、これだけは守ってやるつもりでいた。


 マトラドは表情を変えなかった。組織のリーダーに相応しい顔だった。


「結婚しようと思ってる。そのために」

「……それだけなの」

「ああ」


 肩透かしを食らった気分だった。思わずマトラドの顔を見る。それから、無意識に入っていた体の力を抜いて、ソファにもたれかかった。


 もっと、重たい理由があるのだと思っていた。そんな風に思わせる、真剣な顔をしていた。

 結婚が軽いことだとまでは言わないが、少なくともリビラのための決断だと、期待していた。


「……おまえ、変わったね」

「十年も空けばな」


 市民権を持たない者の方が多い世の中で、わざわざ権利を買ってまで結婚する夫婦は少ない。

 ほとんどは事実婚の状態のまま添い遂げる。ハナから「正式に結婚する」という選択肢が頭にない者も多いのだから、よほど相手の女に惚れ込んでしまったのだろう。


 いいのかこんな理由で、と考えはしたが、どうであれ買ってやるつもりには変わらない。いっそおかしくなってきて、ひとしきり笑ってから、またマトラドに向けてニッと口の端だけ持ち上げてみせた。


「相手の分は買わないよ」

「ああ。向こうはもう持ってる」

「そう。だから必死なのね。正式に結婚しなきゃ、他の男に取られちゃっても文句は言えないものね」

「そういうことだ。金は自分で払う。どのくらいかかりそうなんだ」

「いいのよ、気にしないで。これはおまえのためじゃなくて、アドルヴェリアのため。それに、金の処分のいい機会だわ」


 マトラドはなかなか引き下がらなかったが、リフェンナだからこそ無理を通せるのだと告げれば渋々といった様子で口を閉じだ。

 長くこの国に使われてきて、地位も与えられているリフェンナだからこそ、本来なら通らないはずのこの申請を通せる可能性がある。


 職人であるわけでも、商人であるわけでもないマトラドが、正規の方法で申請したところで今さら認められるはずがない。まして結婚のためだなんて。金だけ取られて却下されるのが目に見えている。


「ガキは黙っていればいいのよ」

「もうそんな歳でもないがな」

「私から見たら誰だってガキだわ」


 推薦書の清書を済まし、申請書に移る。書式は自由だが、いくつか決められた項目がある。

 年齢、二十八。性別、男。職業の項で悩む。適当に、リフェンナの店の用心棒ということにした。申請理由もリフェンナの都合と書いておく。


 書きあがった書類を見て、マトラドは呆れたようにため息をついた。適当なことばかり書いてある。


「これじゃ、おまえの下僕だな」


 そう笑ったマトラドは、しかし少しだけ安心したらしかった。

 祭りの日に外に出るつもりはない。明日の朝いちばんに中央教会へ持って行くことを約束し、マトラドを送り出した。マトラドは養母と同じように、見回りを行っているらしかった。来る前にやってきたが、帰りながらまた見てみるという。熱心な男だ。


 その日はそのままソファで寝た。久々の睡眠だった。ひとでなしに、睡眠はいらない。食事もそうだ。基本的に不死者は人間として最低限の生命維持のための行為を必要としない。

 それでも、ただの人間だった頃と同じような生活を続ける者の方が多かった。リフェンナほど極端に人間的な生活を手放す者は稀だ。リフェンナの師ですら、たまには食事をした。

 かれこれ十年ほど、リフェンナは眠ることも、食べることもしていない。マトラドに出した茶を飲んだことも、久々の睡眠も、不思議な感覚だった。眠りながら、このまま死んでしまいそうだ、と思った。


 朝になり、約束通り中央教会に提出に行った。書類一式と、申請費を持って。

 受付にいた聖職者は下っ端で、リフェンナの顔を知らなかったため、大司教を呼んで来させる。疑いの目を向けてきた下っ端は、これでも礼儀正しくしている方だということも知らないようだ。

 引きこもりすぎたな、と少しだけ反省する。


 出てきた大司教は、前に会ったときよりずいぶんと老け込んで見えた。

 人の良さそうな笑みは変わらない。親しみを込めた抱擁を交わし、大司教の執務室に招かれる。

 そこで、マトラドの市民権取得の申請書を直接、手渡した。


「できるだけ早く判定を教えてほしいの。頼めるかしら」

「人は神の下に平等です。正規の順番でしか、審議はできませんよ」

「そうよね。言ってみただけよ」


 優しげな微笑みのわりに、頑固な人間だということはよく知っている。食い下がるのは無駄だ。

 この大司教は、正しいことを正しく行える。その点は信頼できる。

 しばらく世間話を交わして、教会を後にした。最初に会った下っ端は、リフェンナがあの『魔女リフェンナ』であると誰かに教えられたらしく、あからさまに怯えた様子で謝りに来た。なんとなく面白かった。


 祭りの翌日だ。夜になれば最後のバカ騒ぎが始まるが、昼間は奇妙な静けさが街を満たしている。あまり人通りもない。

 ゆっくり歩いて帰ることにした。来るときに拾った馬車が待っていたが、帰路の分の金を渡して帰してやった。

 これほど静かな街では、もしかしたら夕方まで、彼らの仕事はないかもしれない。


 ふと思い立って、リビラの溜まり場に立ち寄った。入り組んだ貧民街の路地裏を進み、溜まり場に辿り着くと、そこにはマトラドがいた。その隣に、見覚えのある美女もいた。


 こちらに気づいたマトラドが、女に何か言った。そして、こちらに声をかけてくる。


「リフェンナ。ちょうどよかった。紹介させてくれ」


 つまりその女が、マトラドが結婚したい相手なのだと、誰であっても悟るだろう。

 それくらい彼の纏う空気が違った。ほう、と感心して、じっと女を観察する。

 指先まで金のかかった仕草だった。嫌味が一滴も含まれていないことが、彼女が本物の上流であることを示している。


「知ってるからいいよ。マリアジナカトジナ、天国に一番近い女。そうでしょう」


 マトラドの紹介を遮って、彼女の名前を当ててみせる。


 長ったらしい舌を噛みそうな名前。この国の中枢に近い人間が知らないはずがない。

 彼女は、当代一『運のいい女』だ。


「ジナと呼んで」


 女がにこやかに言う。


「その名前はあまり好きではないの」

「ジナ。そこを切り取るのね。こっち側に来るつもりなの」

「ええ。……今の方が幸せだもの。魔女リフェンナ、どうかあの人たちに何も言わないで」

「そこまで深く首を突っ込むつもりはないよ。好きにするといいわ」


 女二人の会話に、マトラドは少しだけ目を丸くしたが、この国におけるリフェンナの立場を思い出したのか、合点がいったように笑んだ。


 マリアジナカトジナ――ジナは、邸娼婦の中でも最も高い位の女である。


 この国の娼婦は大まかに三種類に分けられ、上から邸娼婦、見世娼婦、街娼婦となっている。簡単に言えば、高級、中級、下級ということだ。

 呼び名の由来は文字通りで、自分の邸を持ってそこで商売をするのが邸娼婦であり、娼館に所属しているのが見世娼婦、通りで客を見つけてそこらの宿で春をひさぐのが街娼婦である。邸娼婦はほとんど貴族と同じ扱いになり、教養ある賢い女として重宝されているのがこの国の現状だった。


『邸娼婦マリアジナカトジナ』といえば、抱かれない女として有名でありながら、最も値の張る女である。

 聖母のように慈愛に満ち、その歌声はカナリアより澄み、女神そのものの美貌を持つ。

 彼女と話をするだけであらゆる欲は満たされ、結果として彼女を買えた男たちも誰ひとり手を出さずに帰る始末。

 嘘のような評判だが、彼女の客には貴婦人方も多くあり、それだけの不思議な空気をもつ娼婦であると女王すら感心したくらいだ。


 そんな、冗談にしか思えない、女神という形容に相応しい娼婦が、マトラドの恋人。


「賛成も反対もするつもりはないし、そこまで立ち入ったりしたくないけど、これだけは聞かせて。どこで知り合ったのよ」


 社会の最下層に近いところに住むマトラドと、雲の上に近いところに住むジナ。

 普通に生きていれば、交わることはないはずだ。仕事上、貴族らから汚れ仕事を頼まれたりするマトラドだが、そういったものとは無縁に見えるジナと、どうやって知り合ったのか。


「彼はわたしを盗んでくれたの」


 ジナは躊躇いなく答えた。


「物理的に」


 比喩がわからない。

 素直にそう伝えれば、今度はマトラドが「わからなくていい」と言う。語気は強くはないが、マトラドはジナを叱りつけ、ジナはそれでも楽しげに笑っていた。


 どうであれ二人の仲はかなり良いということはわかった。

 仕草の節々は砂糖で煮詰めたように甘く上品だが、話に聞いていたよりジナは庶民的であるように見える。

 少なくとも、お嬢さまの気まぐれでこんな汚いところに遊びに来ているようには見えなかった。

 マトラドの目も、ジナの目も、どこまでも真剣に、深く、相手を想う目をしていた。


 それならいいや、と思う。

 愛さえあればなんとかなる、なんて呑気なことは言わないし、リフェンナは長い人生の中で破綻した家庭をいくつも見てきた。

 いくら愛し合ったところで、他人と他人が一緒に暮らせばそんなものだ。そんなことは、誰だってわかっているだろう。捨て子だったマトラドは、特に。

 身をもって理解している彼が選んで決断したのだから、リフェンナが口出しするのは筋違いだ。親でもあるまいし。


 マトラドが幸せそうな顔をしているのが、どうしてか嬉しかった。

 アドルヴェリアにも見せてやりたかった。どうしてこの子どもを置いて行ってしまったのだろう。自分が育てた子どもがこんなに幸せそうな顔をしているのを見れば、きっと彼女の誰にも知られなかった育児の苦労も報われただろうに。


 話しておいてやらなければならない、と思った。

 アドルヴェリアがその後、どうなったのか。


 リフェンナはすでに彼女の生の結末を知っている。時が来たらマトラドに教えるつもりだったが、その時というのは、きっと今だ。


 けれど、リフェンナはこのとき、話さなかった。

 マトラドの市民権を無事に買い取れたら、アドルヴェリアの最後の頼みを果たしてやれたら、話そう。

 そう決めて、溜まり場を離れた。


 あれから六年近く経っても、まだ、話せていない。

 それだけでなく、気がつけば話せていない結末が増えてしまっていた。


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