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 リフェンナの家には赤ん坊が口にできるものはおろか、食べ物と呼べるものが何一つなかった。

 どの戸棚を開けてもあるのは酒くらいで、いかに人間らしい生活を失っているか嫌でも思い知らされる。

 だからといって赤ん坊を置いて買いに行くわけにもいかないし、仕方なく魔法を使って知り合いの貴族に連絡をし、赤ん坊に必要なものをひと通り手配させた。

 以前、仕事をしてやった際に面倒で請求しなかったお代の代わりだと言えば、彼は喜んで一時間もせずに家に運んできてくれた。

 従者だけでなく自ら足を運んできた、堅苦しい顔をした男に、一応の礼は言ってすぐに帰らせる。

 元気そうな顔を見られてよかった、などと抜かした男には、あとで何か店にある便利な道具でも送り付けてやろうと思う。


 その夜の遅く、アドルヴェリアが戻るまで、リフェンナは赤ん坊と二人きりで過ごした。

 ほとんど朝と言ってもいい時間だったため、アドルヴェリアを家に泊めてやり、彼女の疲れが取れるまで赤ん坊の様子を見ていてやった。


 ベッドはアドルヴェリアに貸してやって、リフェンナと赤ん坊は居間に移動した。

 赤ん坊を魔法で創った揺り籠に寝かせてやってから、最初からこのくらいのものを創っておけばよかった、思ったものの、昼前に起きてきたアドルヴェリアがとてもすっきりした顔をしていたためよしとする。


「名前を決めたよ」


 寝起きには見えない笑顔で、アドルヴェリアは言った。


「昨日の夜にね」


 ちゃんと考えていたんだな、と感心しつつ、続きを待った。

 もう少し緊張した顔でもするかと期待していたが、アドルヴェリアは思いのほか冷静で、変わらずきれいな顔をしていた。


「マトラド。たいして珍しくもなくて、縁起もずば抜けていいわけではないけれど、悪くもない。どうだろう」


 家名は与えてやりたくても、与えてやれないのだろう。名前だけを口にしたアドルヴェリアは、笑顔ではあったが、瞬きの間だけ寂しげな色を見せた。


 マトラド。

 口の中でその名前を転がして、味を確かめるように考える。この赤ん坊の運命に、その名前が合うのかどうか。


 名づけは人生において最大の儀式である、とされている。

 貴族たちは魔法使いに依頼して名づけてもらうほどだ。リフェンナも幾度となく名づけを頼まれてきたし、名前に魔法を練り込むのが得意であるため、評判もかなり良い。


 愛用の道具を取りに一度、一階の応接室に下りて、机の右の一番上の引き出しからカードを取り出す。百枚で一セットの、両面白紙のカードだ。

 それを持って居間に戻れば、アドルヴェリアが赤ん坊を抱きあげていた。

 赤ん坊は彼女に懐いている様子で、思わず安堵した。安堵した自分に、少し驚いた。こんなことでこんな気持ちになるなんて何年ぶりだろう、とリフェンナは自嘲する。

 自分のことを化け物扱いすることに、すっかり慣れてしまっていた。


「いつもなら金を取るところだけど、私とおまえの仲だから、今回だけはタダでやってあげるわ」


 そう言って、持ってきたカードを上に投げる。

 同時に片目だけでパチンとまばたきすると、ばらばらと落ちてくるはずのカードが、ゆったり、ほとんど宙で止まっているような速度になる。


 カードはすべて真っ白だが、見つめていればリフェンナの目にだけは光って見えるようになる。

 ひときわ輝くカードを一枚取ると、その他は正常な重力を取り戻し、床に落ちていった。


 手にしたカードに息を吹きかける。

 すると、ぼんやりと幾何学模様が浮かび上がった。模様の意味を読み取って、リフェンナは赤ん坊を指さして言う。


「残念なことに、そいつ、信じられないくらい女運が悪いよ。笑えるくらいに」


 模様が示したのは、赤ん坊の運命だ。生まれてから死ぬまで、絶対に変えられない一つの運命。

 リフェンナがやったのは、名づけの際にやってやると喜ばれるパフォーマンスだった。魔法というよりは占いである。


 少しだけきょとんとしたアドルヴェリアは、すぐに吹き出して、豪快に笑った。

 そのあまりの笑いっぷりに、大人しかった赤ん坊もさすがに驚いて泣き出しそうになる。慌ててリフェンナが赤ん坊をアドルヴェリアの腕から救い出してあやしてやると、すぐにまた静かになった。


「女運が悪い、なんて、そんなの見てどうするんだ」

「おまえがそこまで笑うなんて、ほんと、珍しいね……。カードは間違いを示さないし、私は天才だから、私が読み間違えるなんてこともないよ。絶対にね。女運は悪いけど、他はけっこう満足のいく人生を送れるだろうよ。おまえが考えてくれた名前も、悪くない」


 読み取れたままのことを話せば、アドルヴェリアは安心したらしかった。

 母親になるのか、この女も。時間というものは人を変えるなあと、しみじみ思う。

 昔から面倒見のいい女ではあったが、この歳になっても男を作らず、子どもを持つような気配もなかった。アドルヴェリアがこんな風になるとは、予想外だった。


「国に申請してあげようか。出生届」


 リフェンナには珍しく、心からの親切での申し出だった。

 国に出生の届出をしていない者は、正式な市民権を認められず、たとえ子を産もうがその子の出生も届け出ることを許されない。それがこの国の決まりだった。


 貴族やそこそこの基盤を持つ者ばかりが集まるこの王都ですら、市民権を持たない者は全体のおよそ三割である。

 届出に金がかかる上に、やはり「親に市民権がなければ子も得られない」という原則のせいでなかなか増えないのだ。


 市民権がなければ正式に婚姻を結ぶことも、正式に店を構えることもできない。

 例外として、三年以上市民権を保持し続けている者の推薦と、莫大な金を積めば自分自身の市民権を買える。

 これはこれで推薦者の奴隷と化してしまう問題もあり、改善が必要だという声も上がっているが、成金にはありがたがられる仕組みだ。


 アドルヴェリアに親はない。リビラの人間のほとんどがそうだ。よって、市民権も持たず、持たない彼女に拾われた赤ん坊もこのままだと得られない。

 捨てたくらいだから、親が届け出ていることもないだろう。


 まともに営業していないとはいえ、店を構えているわけだから、リフェンナはもちろん市民権を持つ。

 曲がりなりにも三百年、国に認められた魔法使いであるわけで、その権利は王族と同じくらい確固たるものだ。


 なくてもまだ生きることは許されているが、あって損するものでもない。

 金もリフェンナが出してやるつもりだった。


 しかし、アドルヴェリアは首を横に振った。


「ありがとう。でも、変にこの子どもだけが持っていたって、ややこしいことになるだけだよ。ある程度おおきくなってリビラに入ったならまだしも、生まれてすぐに入るなら、ない方が馴染みやすい。……もしこの子が成長して、必要になってきたら、そのときはお願いしてもいいかな」


 なるほどアドルヴェリアらしい。

 妙に感心して、「わかった。約束するわ」なんて簡単に引き受けてしまった。未来の約束はしない主義だというのに。


「マトラド」


 赤ん坊に語りかける。


「おまえは本当に運がよかったわね。大丈夫よ。この女は、こんな風だけど、けっこう信頼できるから」


 赤ん坊――マトラドと名づけられたその子どもを、揺り籠の中にそっと戻してやる。

 優しい手つきでマトラドの頭を撫でてやるアドルヴェリアは、これから先、この子どもの母になっていくのだろう。

 きっと彼女が自ら母親だと名乗ることはないだろうし、認めることもしないのだろうが。アドルヴェリアとは、そういう女だ。


 あとになってその予感は正しかったと証明される。

 アドルヴェリアがマトラドを育て、途中からもう一人引き受け、三人で暮らしていても、一度も彼女は自らのことを「母」とは呼ばせなかった。


 そして、ある日突然、姿を消す。

 成長したマトラドにリビラのリーダーの座を譲ると書き残して。生きているか死んでいるかもわからないまま、マトラドは、後を継ぐ他なかった。


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