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あの男と出会ったのは、今から三六年前のことだったと思う。
その頃のリフェンナは今と変わらず無気力で、違ったのは弟子がいなかったことくらいだ。具体的に何をして過ごしていたかは記憶にない。たぶん今と変わらなかったのだろう。
雨でも晴れでもない、妙に肌寒いだけの曇りの日だった。
何か落ち着かないものが腹の底に落ちてきて、朝っぱらから絶えず酒を呑み続けていたのを覚えている。
酒をいくら飲んでも酔えない体なのに、気分を紛らわせたくて呑まずにはいられなかった。
一応は店を開けていて、ぼんやり店番をしていたら、青々とした黒髪の女が何か抱えて入ってきた。
当時は珍しい短髪にすらっとした体型に合うシンプルな男装で、どの季節も薄着で靴を履かない主義のその女はアドルヴェリアという名前だった。先代のリビラのリーダーである。
店に充満する酒のにおいで顔をしかめたアドルヴェリアに、お、と少しだけ驚いてしまう。
いつか見た真っ青な湖に似た瞳を持つ彼女が、においくらいであからさまに嫌そうな顔をするのは珍しい。
「いらっしゃい。何かご用でも」
「……まだ真っ昼間だというのに」
「酔わないんだから、これくらい許されたいものだわ」
アドルヴェリアはため息をついて、腕の中の布の塊を恐る恐る抱え直した。
見た目のわりにがさつな彼女には珍しいことで、枯れかけたリフェンナの好奇心を刺激した。
何か言いあぐねているアドルヴェリアに近づき、布の中身を覗き込む。
「……赤ん坊」
「今朝、私の家の前に置かれていたんだ」
アドルヴェリアの言い方には、この子供を拾ったわけが明確に表れていた。
そういうことか、と納得したリフェンナは、アドルヴェリアから赤ん坊をそっと受け取る。不安げな顔をした彼女を、軽く笑ってやった。
赤ん坊をしっかりと、しかし優しく抱え、その顔を見つめた。
とても静かで、大人しい赤ん坊だった。生後半年といったところだろう。
捨てられてから拾われるまで、きっとそう時間は空いていなかったはずだ。今ならまだ、魔法を使えば簡単に親を見つけられる。
そんなこと、この目の前の青い瞳の女に、止められてしまうだろうが。
「この子は大丈夫だよ」
やわらかさを楽しんで、赤ん坊を返しながらアドルヴェリアを安心させるために言う。
「呪いなんか持ってない。ごく普通の男の子よ」
「そう……そうか。よかった」
「後継にするつもりなの」
「いや、まだ決めてない。適正があるかどうかもわからないからね。ただ、次もできれば呪いのない人間をリーダーにしてやりたいんだ。呪い持ちが上に立ってしまうと、不安定になってしまうからね」
「ああ、なるほど」
ほんの数年前までのリビラのリーダーを思い出し、リフェンナは顔を顰めた。
「他にいなかったとはいえ、あいつが呪い持ちだったことで色々あったものね」
「それも特別やっかいな呪いだった。あんな思いはもうしたくないし、させたくないんだよ」
哀しげに俯く大人になった彼女と、数年前、血にまみれてこの店にやってきた少女時代の彼女が被って見えた。
アドルヴェリアは強い。強いが、だからこそ過去が重く、そんな目をする。
リフェンナは強い彼女をぼんやりと哀れんだ。
赤ん坊を育ててやるつもりなのはわかった。わかったが、リフェンナがしてやれることは何もない。アドルヴェリアがここに来た理由がわからなかった。
それを素直に訊いてみれば、当然だとでも言うような声色で彼女は答える。
「あなたは子供の扱いに長けている。もちろん私が拾ってしまったんだから、責任をもって育てるよ。けれど、できることなら、手伝ってもらいたくて」
「……手伝う、私が」
「無理にとは言わないし、たまにでいいんだ。私にどうしても外せない仕事があって、リビラの誰にも預けられないときに、世話をしてやってほしい」
「……ははあ、なるほど」
アドルヴェリアが何を言いたいのかよく理解したリフェンナは、ニッと口の端を吊り上げて当ててみせる。
「たとえば、今日のような日のことね、あんたの言う『たまに』っていうのは」
「正解」
にっこり笑んだアドルヴェリアが、しかし腕は恐る恐るといった慎重さで赤ん坊をリフェンナに差し出した。
きっとアドルヴェリアは、夜になったらリビラの溜まり場に戻って、祭りに浮かれる新入りたちに軽く注意をして、遊びに出る態で仲間の誰かが掟を破っていないか見回りに行くのだろう。毎年そうだった。
犯罪によって生計を立てる者の多いリビラだが、この祭りの日だけは、一切の悪さを禁じられている。
それはリビラという集団が出来上がった当初からの掟であり、決して破ってはならないものだ。
本来なら、誰もが阿呆になる祭りの夜は稼ぎ時と言える。それなのにこんな掟がある理由は、リビラのリーダーとなった者と、リビラ結成に立ち会ったリフェンナくらいしか知らない。
そういうわけで、今夜、アドルヴェリアに赤ん坊の面倒を見ている暇などない。
「相変わらず……人を使うのが上手いわね」
だからこそ、このアドルヴェリアは、好き勝手して生きる人間が集まったリビラのリーダーができる。
アドルヴェリアはリフェンナが断れないことを知っている。否、断らないことを知っている。
アドルヴェリアの真の事情も、リビラの裏の事情も理解しているリフェンナが、集団緒まとめ役であるリーダーの心からの頼みを断ることはないと知っているのだ。
残念ながらリフェンナはあまり人格がよろしくないのだが、もっと残念なことに外道になりきれない中途半端な女であることを、アドルヴェリアは見て見ぬふりなどしてくれない。
深い深いため息をついて、リフェンナは指をパチンと鳴らした。換気のためだった。
さすがに、いつ迎えに来るかわらないのだから、いつまでも酒の混じった空気を赤ん坊に吸わせるわけにもいかないだろう。それくらいの配慮は、リフェンナにもできた。
「わかったよ、たまに、でいいなら手伝ってやるわ。でも夕方まで、あんたに私が知っている限りの世話の仕方を教えてやる。それくらいの時間すら取れないんなら、子供を育てようなんて思わないことね」
ぱっと明るい顔をして、アドルヴェリアはその美しい顔に花を咲かせた。
ともすれば美青年にでも間違われそうな、男とも女ともとれない容姿の持ち主であるが、アドルヴェリアが美しいことには変わりなかった。不死者になってまで凡庸を極めたリフェンナとは違って。
「もちろんだよ」
アドルヴェリアは赤ん坊を抱え直してリフェンナの目を見た。
「私は責任を持つと決めたものはしっかり守る人間だ。それだけが私の唯一の誇りだからね。教えてくれ、リフェンナ。永遠であるあなたが知る、人間の育て方を」
射抜くようなアドルヴェリアの目つきに、まずは話すときに赤ん坊をモノ扱いするな、と言いたかったが、リフェンナもそんな扱いをしてしまうため、なんとも言えない微妙な笑みに似た何かを返すことしかできなかった。
二階の居住スペースに案内し、使っていない部屋の扉を久々にあけた。
埃だらけで衛生的には最悪だ。またパチンと指を鳴らし、今度は換気だけでなく汚れもすべてなくし、清潔な部屋にする。
口を半分開いて、右手の中指を胸のあたりで床と平行に宙に滑らせれば、広々とした寝心地の良さそうなベッドが現れた。
すべてリフェンナの魔法である。
魔女リフェンナにとって、これくらいのことはどうということでもなかったが、アドルヴェリアは律義にすべてを褒めてくれた。
がさつで一見他人のことはまったく考えてない振る舞いをする女だが、こうして細々と褒めてくれるから、集団のリーダーとして立っていられるのだろうな、とリフェンナはぼんやり思った。
腕の中の赤ん坊をそのベッドの上に寝かせてやったのを見ながら、まずどこから教えてやろうか悩む。いつの間にか赤ん坊はぐっすり眠っていた。
リフェンナに出産の経験はないが、これだけ生きていれば、ある程度の知識は勝手に頭の中に蓄積されていく。
実践したことはほとんどなく、リフェンナ自身はあまり子供が好きではない。
それでも、アドルヴェリアはリフェンナしか頼れないらしかった。人の上に立つ者は、時にその立場によって行動を制限されてしまう。アドルヴェリアにとってはこのときがそうだった。
日が落ちきるまで、リフェンナは記憶を掘り起こしつつ、真剣なまなざしのアドルヴェリアにあれこれ教えてやった。
すべて伝聞としてしか話せなかったが、アドルヴェリアは心底ありがたいことのように聞き、月が目覚めた頃にはずいぶんと理解を深めていた。
「何度も言ったけど、私も育てたことなんかないんだから、鵜呑みにしないでよ。まともに育てられたことも、育てたこともないんだから」
念押しで言った言葉に、アドルヴェリアはまた神妙に頷いた。
普段は掴みどころのない微笑を湛え、それでいて頼りがいのある彼女が、今日は珍しい顔ばかりする。少しおかしくなって、リフェンナも珍しく、長く生きてみるもんだなあ、と思った。
リフェンナの知識はほとんど譲り渡せただろう。
また何かあれば相談くらいにはのってやると言ってやり、アドルヴェリアを送り出した。もう空は濃紺に染まり、街の灯りが眩しいくらいに輝いている。
赤ん坊と二人きりになった。
相変わらず、赤ん坊はとても静かで大人しい。なめらかな頬を優しく撫でれば、その手触りと温度に、何かじんわりとした温かいものがリフェンナの胸に注ぎ込まれた気がした。
真っ黒な瞳はわずかに濡れていて、じっとこちらを見つめてくる。リフェンナの琥珀色の瞳は、この赤ん坊の黒には勝てないだろう。口元が緩むのを感じた。
「良い子ね。……良い人に拾われてよかったわね」
アドルヴェリアはとても誠実な女だ。がさつで、怠惰で、そうは見えずとも頑固な女だが、仲間のことを第一に考えている。
彼女を構成するすべては彼女の一面でしかなく、まるで人格が変わってしまったかのようにころころと態度が変わる女ではあるが、何もかも計算して上でそんな風に振舞っているのだ。
母親として、とても立派に育ててみせるだろう。母親というものを知らないアドルヴェリアだ、きっと世間一般の『母親』にはなれないだろうけれど。