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大通りを抜け、王宮の前に来てはじめて、祭りの前だから忙しいんじゃないか、とようやく思い当たった。
しかし、そこで気を使って引き返すような優しさはリフェンナにはない。そんなものが欠片でも残っていたら、この手紙だってふた月も放置されずに済んだはずだ。
気にせず杖をちらつかせ、声をかけようとする衛兵たちを拒絶する。
迷わずに女王の自室に向かう。その道中、たくさんの貴族たちがリフェンナを見たが、誰もこちらに近づきはしなかった。
市井であればリフェンナもただの一市民だが、ここにいる間のリフェンナはただの女ではない。
肩書は覚えられないほど多い。
リフェンナは女王の専属魔導士であり、最高魔法責任者であり、特別顧問魔導士である。
魔女として生きた四百年の間で肩書だけが増えて、気が付いたらリフェンナより下の人間は多くとも、上の人間はたった一人になってしまった。
身分が下である人間が、上の人間に自ら声をかけてはならない決まりであるこの王宮内で、リフェンナが口を開かない限りは誰もこちらに話しかけられない。
わかりやすい視線を向けられても、リフェンナは一人として寄せつけなかった。
そうやって女王の部屋にツカツカ入っていって、不機嫌そうな空気を背負う彼女にこう言い放った。
「こんにちは、お久しぶり。おまえには付き合っていられないから、二度と連絡してこないでくれるかしら」
およそ国の頂点に立つ人間に言う言葉ではなかった。
この場で首を刎ねられても文句は言えない。リフェンナは余裕の笑みを浮かべていて、女王は大きなため息をついた。
その顔は見えない。この国の伝統により、女王の顔は、真っ黒な厚いヴェールで隠されている。
「魔女リフェンナ、あなたはいつになっても変わらず変わり者ですね」
「そりゃあね、不死者は変わらないからこそ不死者だ。文字通り時間が止まってしまっているんだからね」
「だからといって、いくらなんでも不敬ですよ。あなたでなければこの場で死刑です。……皆、下がって。この方と二人きりに」
従者たちがぞろぞろと部屋を出て行って、リフェンナと女王の二人きりになる。
途端に女王はヴェールを持ち上げ、親しげな口調になった。リフェンナに変化はない。女王の好意は一方的なものらしかった。
金色の瞳に闇を溶かした黒髪の、まだ若い女は、にこにことリフェンナに話しかける。
「待ちくたびれたわよ、リフェンナ。ね、そこにかけて。手紙を出したのはずいぶんと前なのに、今になって来てくれるなんて。でも、来てくれただけで嬉しいわ。今、お茶を用意するわね」
「何もしなくていい」
はしゃぎながらもてなそうとする女王に冷たく言う。
「何も、いらない。すぐに帰るよ」
「来たばかりじゃない」
「手紙っていうのは、これのことよね。残念だけど、頼みを聞いてやるつもりはないよ」
「じゃあ、どうしてここに来たのよ」
「弟子のことで」
その短い言葉で、女王はリフェンナの意思をほとんど正しく読み取ったらしかった。立ったままのリフェンナから目を離せず、何か言おうと口を開いては閉じ、肩を震わせた。
次に女王が出した声は、濡れて震えていた。
「嘘よ……らしくないじゃない、あなたが」
「私はそんなつまらない嘘をつく女じゃないわ」
「ええ、ええ……。わかってる。でも、そんな、だってあなたは四百年も生きてきたじゃない。どうして今なの、どうして」
ついに泣き出した女王が、なんとなく哀れに見えてきて、リフェンナは彼女を優しく抱きしめてやった。
この女は幼い頃からリフェンナを慕っていた。女王ではなく、まだお姫様だった頃から。残念ながらリフェンナはこの女を愛せなかったけれど、今になってみれば、なんとなく、いとおしいような気がしないでもなかった。
「もう、決めたことよ。どうしておまえが泣くの。私は一度だって、おまえに優しくしたことはないのに」
「そんなこと、どうでもいいのよ。優しくなんかされなくったって、わたしはあなたが好き。それだけのことよ。そのあなたを、失うなんて……」
泣いているわりに、女王の言葉ははっきりしていた。
リフェンナの体にしがみついてきて、少し痛い。
女王の言っていることの半分も理解できなかったが、リフェンナが執着してしまった男と同じようなことを言っているな、と感じてしまって、抱きつかれた外側だけでなく心臓も痛んだ気がした。
リフェンナが重たい足をわざわざ運んできたのは、魔女を辞める、と女王に宣言するためだった。
魔女もしくは魔法使いと呼ばれる存在は、不老不死の魔法を受け、本人が辞めると決めるまで永遠に生き続ける。
辞めるためには弟子を取り、育て、後継として相応しい存在に仕上げなければならない。
リフェンナは長らく弟子を取らなかったから、誰もが皆、あの女はいつまでも永遠のままであり続けるだろうと思い込んでいた。
二年前、リーフィールを弟子に迎えるまでは。
いくら自ら望んだとはいえ、どんな魔法使いも二百年も生きれば人生に飽きてくる。
不死者の生はどこまでも平坦で、精神をすり減らすには充分だ。その上、魔法は使うたびに心を侵していく。
時間というものから切り離されてしまい、気づけば知り合いは死に、自分だけは何一つ変われないまま世間のすべては変わっていく。
百年は楽、二百年目からが苦だと魔法使いの間ではよく言われている。
事実、現在の魔法使いの中で最も長いのは、リフェンナの三八二年と三か月と十日だった。
四百年生きた魔女として、リフェンナは肩書だけは偉くなり、しかしだんだんと無気力がひどくなり、ひねくれきって、いっそまっすぐになった。
弟子のリーフィールは、まだ一人前とは言えないが、もう一人にしても生きていけるだろう。
そう判断して、リフェンナは魔女を辞めることにした。まだ、誰にも言っていない。
リーフィールにも、マトラドにも。
「一番に報告しにきてあげたんだから、それだけでも褒めてくれていいんじゃないかしら。まだ、おまえにしか言ってないのよ」
「……ずっと、聞きたかったの。どうしてあのとき、弟子を取ったの。どうして今、魔女を辞めるの。辞めた後、行く当てはあるの」
普段は濁して決して答えないような質問だった。
しかし、最後なのだと思うと、答えてやってもいいような気がした。
リフェンナはできるだけ穏やかな声で、囁くように、呟くように、女王に聞かせてやる。
「同じ時間を、生きたいと思ったんだ。あの男と、同じ世界が見たいと思った。それは生きているようで死んでいる不死者のままでは絶対に不可能で、ずいぶんと悩んだけど、それでも、あの男のために、あの男の傍でなくとも、あの男と同じ世界で、生きていきたいと思った。リーフィールなんていう優秀な弟子もいて、あの男もだんだん立ち直ってきていて、今なら、ただの人間になっても、絶望せずに生きていけるような気がしてる。行く当てなんかないけど、もしだめそうだったら、魔女らしく深い森にでも隠れ住むことにするよ」
いいながら、死ぬ直前の人間というものは、こんな風に誰にでも優しくできるのかもしれない、と思った。
リフェンナは死ぬわけではないけれど、似たようなものだ。
そういえばリフェンナが見送ってきた人間たちは、全員ではないが死を悟るとやたら穏やかで優しい言動を取るようになっていた。それとは正反対になる者も多かったが。
そんなことを考えてようやく、リフェンナ自身、自分が何を選んだのかを深く理解した。
女王の手から力が抜けて、すすり泣く声が小さくなっていく。そのままふらふらと彼女はリフェンナから離れた。じっとこちらの目を見てくる。
その目は、先程までとは違って、親しみのひとつもない冷ややかな目だった。それは、彼女が女王である証だった。
ヴェールを下ろしてしまえば、女王の顔は隠れ、表情が見えなくなる。
その中ではまた涙を流しているのだろう。そんな気がした。
「わかりました。魔女リフェンナ、女王はあなたの決断を尊重します。儀式の期日はいつにいたしましょう。こちらの準備もありますから」
「すぐにでも。具体的に言えば、明日の夜がいい」
「……正気ですか」
「正気とは言い難いかも」
「明日は……間に合わせられません」
「そりゃあそうよね。言ってみただけよ」
珍しくすぐに引き下がったリフェンナに、女王はまたため息をついた。
「幸せが逃げてしまうよ」
とリフェンナが言えば、女王は、
「これくらいで逃げる幸福など不要です」
と返してきた。
ヴェールのある彼女は、とてもつまらない人間になってしまう。
できることなら明日、祭りが最も盛り上がるときを選んで、こっそりリーフィールに後を継がせてしまいたかった。
そして、祭りのどさくさの中で、誰にも見つからずに消えてしまいたかった。
特に、あの男にだけは見つからないように。
連絡を先延ばしにし続けた自分が悪い無理強いするつもりもないため、女王の予定を確認しながら、継承の儀式の日取りを決めた。来年の明日がそうなった。
祭りの日を強く希望したのはリフェンナで、女王はそれに応えてくれた。
立場上、彼女は祭りの日こそ大忙しであるはずなのに、絶対に用意を済ませ時間を空けると約束してくれた。
この女は本当に自分のことを慕ってくれていたのだな、とぼんやり思う。どんなに振り返って見ても、リフェンナは女王に好かれるきっかけになった出来事を思い出すことはできなかった。
一通りの軽い打ち合わせが終わり、リフェンナが帰ろうとすると、女王はそっとヴェールを上げた。
「あなたが幸せになれますように」
そう祈り、リフェンナの頬に口付ける。
「あなたがいつかわたしを忘れても、わたしは死ぬまであなたを覚えているわ。約束する」
それだけ言って、ヴェールを下ろした女王は、最敬礼をリフェンナに向けた。何を言えばいいのかわからなくなって少し戸惑ったのち、いつも通りの言葉を返す。
「凡人が私の記憶に残ろうなんて、ハナから無理よ」
結局、女王からの手紙に書かれていた頼みを聞いてやることはなかった。