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さっさと飲み終えたらしいリーフィールが、流しにカップを持って行くため、応接室に入ってきた。
いつものように何もせず、どこを見ているのかもわからない、ぼんやりしたリフェンナを見た彼は、わざとらしく大きなため息をつく。
「まずいお茶飲んで、なんにもしないで座っていられるなんて、ほんと、先生は頭がおかしいとしか思えませんよ」
可愛げのない弟子だと呆れながら、リフェンナは彼に微笑みかけてやった。
「暇をいかにつぶすか、おまえは今のうちにしっかり考えておくように。私のような、なんにもやる気がでなくって、じっとしてるくらいしかできない不死者になったら、おしまいだからね」
自分で言いながら、本当にそうだと思う。
こんなつまらない存在になってしまったら、人としておしまいだ。だから、自分は本物のひとでなしになってしまったのだ。
後悔はない。反省もない。
けれど、もっとマシな生活をしてもよかったかな、と思うことはある。今のように。
「じゃあ、何か趣味でも作ったらいいんじゃないですか」
リーフィールは、先程リフェンナが彼に向けたものよりもっと深い呆れを前面に出して指摘する。
「そうしてくれたら、僕もあなたのことを、これ以上、情けなく思わなくて済むかもしれませんし」
「そうね。それができたら、素敵ね」
「やる気くらい自分で出してください。僕、このままだと、こんな人を師匠に選んじゃって、後悔しちゃうかもしれないんですよ。弟子を助けるつもりで、仕事でも遊びでもいいから、もっとちゃんと動いてくださいよ」
「そうね。本当……あなたの言う通りだわ。悔しいけれど」
普段なら、弟子にしっかり言い返すところだ。しかしマトラドにあんなところを観られてしまった今日ばかりは、そんな元気もない。
リーフィールも師の異変を無視できなくなり、一度台所に行ってから、また戻ってきた。険しい顔つきをしていた。
「先生、何があったんですか。らしくないにもほどがありますよ。大天才リフェンナはどこに行ったんですか」
「大天才もたまには落ち込むのよ、バカ弟子」
そう言いながら、リフェンナは自分の顔の前で軽く振った。まるで小さな虫を払うような仕草だ。
それから、弟子の目をしっかりと見て、強い声で言う。
「約束を忘れているようね」
ゆっくりと、大儀そうに立ち上がりながら、まだリフェンナより背の低い弟子とまっすぐ向き合う。
少しだけ見下ろす形にはなるが、このまま彼が成長すれば、もうあと二年後にはきっと見上げることになるだろう。
その日を思い、しかしそんな日は来ないと、リフェンナはもう知ってしまっている。
「何度も言ったはずよ。許しもなく魔法を使うのはやめなさい」
指摘され、リーフィールはばつの悪そうな顔をして俯いた。
リフェンナはため息をつきながら、声にせず口だけを動かして何かを言った。
それは、リーフィールが呪文も言わずに発動させようとした魔法を無効化するための動作だ。
何の仕草もなかったが、リフェンナにはわかる。
彼は確かに、リフェンナの心を覗こうとした。そのための魔法だった。
慣れた魔法使いでなければ、魔法の発動には決まった手順が必要になる。修行中の身でありながらそれを省略して魔法を使えるなんて、本当にとんでもない弟子を取ってしまったものだと、誇らしくもあり、恐ろしくもある。
しかし、どれだけ実力があろうと、リーフィールはまだ弟子の身分でしかない。
師たるリフェンナの許可なく魔法を使うことは、まだ許していない。
魔法は本来、人の手には負えないものだ。
ほんの少し呪文を噛んでいってしまったり、手順を間違ったりしただけで生死に関わる。それでなくとも魔法を使うたびに、術者の心身に反動としてあらゆる悪影響が与えられる。
正式に魔法使いになって、つまりは不死になってようやく、その反動に体が絶えられるようになるのだ。
魔法使いが不死になるのではなく、不死になって初めて、魔法使いになれると言える。
リーフィールはまだ見習いで、不死者にはなっていない。
だから背も伸びるし髪も爪も伸びる。病も、怪我も、簡単には治らない。
拾って弟子にすると決め、最初の魔法を教える前に、ひとつ約束をした。彼を守るために。
「魔法はとても危険なものよ。特に生身の人間には。だから私たち魔法使いは、師からその立場を譲り受ける前に、修行を終えた証明と魔法を使う許可を兼ねて、不老不死の魔法を受ける。頭を吹き飛ばされても、心臓を抜き取られても、決して死ねない体になる。世界から切り離されて、時間に見捨てられる。そうしてようやく、自在に魔法を使えるようになる。おまえの体を見なさい。おまえの存在を振り返りなさい。あなたはまだ、魔法使いじゃないのよ」
魔法を使った反動は、目には見えにくい。魔法を使った術者本人が気づかないうちに、取り返しのつかないことになってしまうことも多々ある。
なんのために国が魔法使いの人数を制限して、師弟制度を整え、不死の魔法を完成させたのか。リーフィールには何度も何度も伝えたつもりだ。リフェンナの師は何も教えてくれなかったから、せめて自分の弟子だけは、魔法使いになる前に死にかけるような目には合わせたくない。
「おまえは天才だわ。それは認める。私と同じ、生まれ持った才能が大きすぎる。きっとこれから先、正式に魔法使いになったら、私と同じようにもてはやされ、そして持て余されることになるわ。それでも、今の私がこうして好き勝手魔法を使えるのは、不死者になったからよ。リーフィール、おまえは、不死になる前に死ぬつもりなの」
リーフィールは俯いたままだった。不満に思っていることは、ぐっと握られた拳を見ればわかる。
この賢い弟子が、師の言っている意味を理解していないはずがない。それでも何度も約束を破ってしまうのは、何か思うところがあるのだろう。リフェンナはそう信じている。
しばらくの沈黙ののち、ふっと表情を和らげて、リフェンナはリーフィールの肩を抱いた。
少年の体は温かく、頬を撫でれば彼は猫のように目を細めた。
「説教はおしまい。おまえは悪くはないよ。今日はもう店も閉めて、私の仕事を手伝ってくれるかしら」
リフェンナがそう言って、机の引き出しから二通の手紙を取りリーフィールに見せると、彼は心底嬉しそうに頬を緩めた。
可愛らしい、まだ十三かそこらの少年らしい顔だった。リフェンナは長く生きているが、子どもを育てたことはない。
リーフィールを弟子として迎えたことにより、甘えにくくなっているのかもしれない、というのはリフェンナの常の悩みだ。
リーフィールが素直に甘えてくれれば、リフェンナはそれ以上に嬉しいことはないと思っている。
手紙の中身はとても簡単で退屈な依頼だ。やる気がでなくてしばらく放置していた。二通のうち、一通をリーフィールに渡す。
「そっちなら、おまえ一人でやれるよ。中に書かれてるリストの物を持って行くだけ。簡単でしょう」
明るかったリーフィールの表情が不満げに変わる。もっと魔法使いとしての仕事を期待していたのだろう。今しがた魔法を使って叱られたのに、懲りない弟子だ。
それでもリーフィールは、リフェンナの前から去って、てきぱきと準備を進めた。
弟子を見習って、リフェンナものろのろと外出の支度をする。手元に残した手紙は、女王からのものだ。気乗りしないが、前々から言いたかったことを言いに行く良い機会だ。
リーフィールが配達物を用意し終え、身なりを整えた頃になっても、リフェンナの支度は終わらなかった。
そんな師に呆れきった目を向けた弟子は、肩をすくめたのち、先に出て行ってしまった。配達先は少し離れた場所にあるから、彼が帰ってくるのはいつもの夕飯時を過ぎてしまうだろう。
それに続いて、リフェンナも店を出て、歩きで王宮へ向かう。
持ち物は三〇センチほどの長さの杖だけだ。こんなものがなくても魔法は使えるが、城に入る際には身分証明になる。邪魔くさいので普段は持ち歩かない。
街は明日の祭りのためによく賑わっていた。
そういえば、今夜は前夜祭だった。家に帰って、リーフィールが戻ったら、二人で屋台でも冷やかしに行こう、とぼんやり思う。
いつもはリーフィールが夕食を用意してくれているが、今日からの三日間の祭りの間くらいは、外で何か買ってもいいだろう。
もちろん、彼が望むなら。リフェンナとしては、できる限り今日と明日くらいはリーフィールのわがままをきいてやりたい。