17
しっかりと意識が戻ったのは、祭りの前日の朝だった。
弟子はリフェンナが眠っている間に女王と儀式の支度を終えていて、あとは本番を待つだけ、という状態だった。
眠りこけていた半年の間に十四歳になっていたリーフィールは、ひとりでもじゅうぶんにやっていけるほど、しっかりと成長していた。声変わりはまだだったけれど、それでいいのかもしれない。背も、まだリフェンナの方が高い。
リーフィールにタガルとリゼルアルヴを呼びに行かせて、その間に、久々にまともに体を洗った。湯を沸かすために魔法を使おうとしたが、以前と違って魔法の発動までに時間がかかってしまった。結局ぬるい湯を浴びたが、夏の初めの暑さには、むしろちょうどよかった。
昼前には、タガルだけを連れてリーフィールが戻ってきた。リゼルアルヴは他の用事でもう少しかかるらしい。すぐに来る、と言ったというから、本当にすぐに来るのだろう。リゼルアルヴとはそういう女だ。
応接室に通して、少し雑談をする。
リフェンナが眠っている間に、タガルは晴れて呪いから解放されたらしかった。何をしたの、と訊けば、真実の愛ってやつだよ、と冗談のような答えが返ってくる。
笑ってはいたが、きっとそれは本当のことなのだろう。具体的には答えてもらえなかったものの、リゼルアルヴと真の意味で心から結ばれたのだろうな、と見当はついた。
「おめでとう。それじゃ呪いもなくなったことだし、おまえが死ぬまでは、しっかりリーフィールを助けてやるように。いいわね」
「先生、この僕がこんな単細胞に助けられることなんてないですよ」
「二人して勝手だな、この師弟」
「おまえほどじゃないわ」
「そうですよ。タガル、あなたほどじゃないです。失礼ですよ」
「殺すぞまじで」
そういう喋り方をやめれば、少しは賢く見えるだろうに。本当はどれだけ優秀な男か知っているリフェンナは、呆れて笑ってしまった。この軽さも、最後になるのだろう。
少しするとリゼルアルヴが到着して、本題に入る。リーフィールを店番に行かせて、リフェンナは茶を淹れてやった。もちろん、あのまずいものを。タガルもリゼルアルヴも、口をつけようとしなかった。二人ともリフェンナの味覚が狂っていることを理解していた。
「あいつに言えなかったこと、全部、おまえたちに話すよ」
本人に言え、と吐き捨てつつ、タガルは座ったままでいてくれた。
ああ、今、すごく清々しい気分だ。自然、口元が緩む。どうしてかリフェンナは、ついこの間まであんなに悩んでいたのに、今は何ひとつ曇りのない気持ちでいた。
一枚の紙を二人に差し出しながら、言う。
「マトラドは、とっくに市民権を認められてるわ。結局、渡せなかったけど……これが証明書」
おまえたちから渡しておいて。タガルは嫌そうな顔をしたが、しっかりとその紙を受け取った。本当に、呪いのないタガルは、なんだかんだいいやつだ。
それから、改めて魔女を辞めることを伝えれば、リゼルアルヴはその無表情の中に驚きを滲ませはしたが、怒りやそれに類するものは見せなかった。
ただ、やはりマトラドのことは気になるらしく、おずおずと「マトラドには」と口にして、
訊いてはいけないかと口をつぐむ。
「いいよ」
そんなリゼルアルヴが可愛らしくて、リフェンナは笑んで答えてやった。
「あいつには言わない。おまえからも、しばらくは言わないでいて。私がすっかりいなくなって、あいつが気にするようなことがあったら、教えてやるといいよ。二人に任せる」
リゼルアルヴは頷き、深く呼吸を繰り返す。
それを待ってから、リフェンナは知っていることのすべてを話した。
「アドルヴェリアは、いなくなったあと、傭兵になってたそうよ。私も知らされてなかったけど、死亡通知が私のところに届いたの。あいつ、勝手に私を身元保証人にしてたのよ。一言でも言ってくれればよかったのに、よほど死なない自信があったみたいね」
アドルヴェリアはずっとそんな女だった。
細い体をしていたのに、喧嘩では負け知らずで、澄んだ目に反して血気盛んな性格をしていた。学のない女だったから、悪事荒事の他は何もできないと、自分で言っていたくらいに。
もともとの彼女は、黒髪に黒い瞳の、可愛らしい少女だった。
何より美しい爪の持ち主で、リフェンナは何度かその爪で殺されたい、と思ったほどだ。もちろん、本人には一度も言わなかったが。
その爪が失われてしまったことが、悲しい。色つやも形も硬さも最高だったのに、もったいない。両手だけでも戻ってこればよかったのに。
リビラのリーダーになったのは、先代のリーダーをアドルヴェリアが自らの手で殺したからだった。
基本的に呪いを持たない者がリーダーになるべきとされているのだが、その頃のリビラには呪い持ちでない者などおらず、ひとりの男がなし崩し的に選ばれた。
だが、その男の呪いは周囲が不仲になるというもので、リビラは混乱を極め、一番の新入りだったアドルヴェリアが我慢できなくなって殺した。彼女はずっと強かった。そして、優しかった。
リーダーになれば、すべての責任をアドルヴェリアが背負うことになる。
何が何でもリーダーになって、仲間に穏やかな生活を与えたかった。血にまみれてリフェンナの店を訪れたとき、彼女が言ったのは「私をリーダーと認めて」の一言だった。
リフェンナはリビラの設立当初から知っている。先代が次のリーダーを選ばずに死んだ緊急事態には、リフェンナから任命することになっていた。乞われるままにアドルヴェリアを認めてやって、それから、リビラはようやく平和と秩序を取り戻した。
アドルヴェリアは、呪いを持たなかった。けれど彼女は自ら、血の道を歩むことを選び続けた。死に際を見てやれなかったのは、少しだけ、悔しい。
「そこのそいつ、タガル・ティ・トルヴァグは私の子孫よ。厳密には、私の血を引いてるわけじゃないんだけど。こいつの家、私の実家だったところなの。知ってたかしら」
「知らなかったわ」
「知られたくなかったんだよ、バカ」
リゼルアルヴは無表情を崩して、タガルとリフェンナを交互に見た。居心地悪そうにしたタガルにどうして言ってくれなかったの、なんて詰め寄りつつ、リフェンナには話の続きをねだる。
「私が人間だった頃は……今よりずっと呪いのことが知られてた。ああ、リゼルアルヴ、おまえは知っているのかな、呪いのこと」
「ええ、まあ、一応、タガルの呪いを解くときに……」
「なるほど。他の誰にも教えちゃいけないよ。本当に、必要なときにだけ、教えてやるの」
呪いは自覚すればするほど強まっていく。苦しみは、少ない方がいいに決まっている。
タガルを外に連れ出したのは、彼が九つの頃だった。リフェンナが家から捨てられた歳と同じ、九歳。
彼の家から相談は受けていて、できるだけうまく呪いと付き合っていけるようにしてやりたかったが、どうにもならないと判断したからだった。
かつてのリフェンナと同じように、怒りと憎しみに支配される前に、リビラに連れていくべきと考えたのだ。すでにマトラドを引き取り育てていたアドルヴェリアに、もうひとり男の子を育ててやってくれと頼んだのは賭けにも近かったが、彼女は快く引き受けてくれた。
「リゼルアルヴ、おまえは……」
「ちょっと、私のことまで話すの」
「私の知っているすべての人の話を、しておきたいのよ。今、このときだけ。死にゆく老いぼれの最後の願いよ、だめかしら」
「だめよ。もう、私のことなんてほとんどわからないんだから、話したって意味ないでしょう。私だって、自分の出生を知らないのに」
「私は知っている、と言ったらどうするの」
リゼルアルヴは息を呑んで、好奇心と恐怖を滲ませてから、「聞きたくないわ」と答えた。
「知らないままでいいことも、きっとあるはずよ。私は今に満足してるの。わざわざ……苦しいことを知る必要はないでしょう」
「おまえらしいね」
笑って、リフェンナは、今は何も言わないことにした。あとでタガルにだけ、そっと教えてやろう。そう思いつつ。
四百年の間に出会った人々のすべてを語ることは、一晩では到底不可能だ。そんなことはリフェンナが一番わかっていたが、それでも、できるだけ話していたかった。
タガルやリゼルアルヴの知っている人間から始まり、リフェンナの個人的な知り合いにまで進んでいく。どれくらい時間が経ったのかわからないままに、淡々と、それでいてしみじみと、語り続ける。
そして。
「――マリアジナカトジナ。あの女の最後はね」
ついに、ジナの話になった。
マトラドにも話していない、あの美しい女の最期。墓場まで持って行くわけにはいかない。けれど、リフェンナからマトラドには、話したくない。
素直にそう伝えると、二人とも苦虫を噛み潰したような顔をした。勝手だと思っているだろう。どんなに悪く思われようが、リフェンナからは絶対に、言いたくない。
正確には、現実を知った後のマトラドの顔が、見たくない。
「あの女は、マトラドの前から消えたあと、北へ逃げたわ」
どうしていなくなろうと思ったのか。そこまではわからない。女王からの手紙には、ただ、事実のみが書かれていた。
北へ逃げていったジナは、国境近くの比較的大きな町に辿り着いた。平凡な女として働き、町の人々にも好かれた。
しかしやがて彼女は町を出て、どこかへ去っていった。追っ手を恐れて各地を転々とする生活だったらしい。
その追っ手の正体は、まだわかっていない。懸命に調査していると女王は言ったが、リフェンナはその正体を知る前に、死んでしまうような気がした。
いくつもの町を渡り、最後に辿り着いたのは、南の港町だった。ジナはそこで、国外へ出ようとしたという。海の向こうまで逃げてしまえば、もう追われないと思ったのか。
けれどそれは叶わなかった。身分証明ができなかったからだ。
ジナの名前は国中に知られている。名前すら正式なものを言えない状態で、船に乗るために身分証を見せるのは危険すぎた。
結局、ジナはその町に留まっている間に、疫病にかかって死んだ。
最後は目も見えなくなっていて、それでも、笑顔がとても素敵だったと、晩年の彼女を匿っていたという老女は話した。
「骨も、何も戻ってきてないわ。もう土葬されたあとだった。墓の場所はここよ。一応、持っておいて。知りたがったら教えてあげて」
リゼルアルヴとジナはあまり仲が良くなかったのだが、あんまりだと思ったのだろう、苦しそうに深呼吸を繰り返していた。タガルが肩を抱いてやり、それでなんとか泣かずにいるようだ。
ジナは誰からも愛される女だった。誰に追われていたのだろう。言ってくれれば、リフェンナが簡単に解決してやれただろうに。
そうしてくれれば、こんな風に、ジナが大切に思っていた人々を悲しませずに済んだはずなのに。今、ジナは、マトラドの隣で、笑っていられただろうに。
ひとりで苦しんで死ぬのは、どんな気持ちだろう。追っ手の陰に怯えて、病に侵され、愛する人から離れたところで死ぬのは、どれほど、孤独だろう。
四百年をひとりで生きたとして、ジナの苦しみや孤独には勝てない。そんな気がした。
「……ジナは、マリアジナカトジナは、娼婦の娘だった。邸娼婦だった母は、落ちぶれて、最後に生み落とした娘に自分の夢のすべてを託したのよ。ジナはそれに応えた。国で一番の娼婦になった。誰からも愛され、誰からも求められる女になった。だけど……」
その心には、ずっと孤独があったのだと、リフェンナは思っている。
そうでなければ、リフェンナは彼女を好きになったりしない。ふとした瞬間に、寂しい目をしていたのを知っている。
誰にも知られなかった。誰にも知られないようにした。そんな彼女だからこそ、誰からも好かれたのだ。
「おまえたちの中には、ジナの笑っている顔しかないはずよ。そうでしょう。それでいいのよ」
しんと静まり返った部屋で、リフェンナは、忘れかけていたカップの中の茶を啜った。まずいな、と思った。人間に戻ったら、誰かにおいしい淹れ方を教えてもらおう。知っているけれど、改めて。
「今日はありがとう。気をつけて帰るのよ。くれぐれも、今日だけはあいつには言わないように」
わざわざ店の前まで出て見送りをするのは、初めてのことだった。ずいぶんと立ち直ったらしいリゼルアルヴは、しかしまだ、タガルにもたれかかるようにして腕を組んでいた。
「おまえが礼を言うなんて、初めてじゃないのか」
「そうだったかしら」
「私も、初めて聞いたわ。……ねえ、リフェンナ。もう会えなくなるかもしれないけど、手紙を書くわ。返してくれなくていいから、どこに行くのかは、教えて」
「……リゼルアルヴ」
タガルの腕からリゼルアルヴを横取りして、ぎゅっと抱きしめてやる。リゼルアルヴも、抱き返してくれた。
「リゼルアルヴ、おまえだけは、連れて行っちゃおうかしら」
「何言ってんだ、ババア。おい、帰るぞ」
不機嫌なままリゼルアルヴを取り返したタガルは、そのまま彼らの家の方へ歩いていく。
手を振ってくれたリゼルアルヴに振り返してやれば、彼女は綺麗に笑った。その笑顔が誰かに似ていて、リフェンナは、血というものの不思議に思いをはせた。
その夜、月が真上に昇った頃、マトラドが訪ねてきた。リフェンナは自分の部屋で、まだ眠っているふりをして、リーフィールはそれをうまく誤魔化してくれた。
毎日通ってきていた頃のように、リフェンナのベッドの傍に椅子を持ってきて座ったマトラドは、リフェンナの手を握った。
しばらくそうして、マトラドが立ち上がる。扉の前に立った時、耐えられずリフェンナは声をかけた。
「しあわせに、なりなよ」
意味深な言葉。マトラドは振り返らないまま、濡れた声で答える。
「無理だろう、そんなこと」
扉が開かれる。マトラドが出ていく。
リフェンナは泣かなかった。泣く必要を感じなかった。
きっとマトラドは、幸せになれるだろう。今は苦しくても、時間というものがその苦しみを薄めて、これから出会う誰か、もしくはもう出会っている誰かが、マトラドの胸に温かいものを注いでくれる。リフェンナには確信があった。
彼にはまだ未来がある。変わらないまま、変わっていく彼なら、幸せになれるはずだ。




