16
過眠の時期に入った。比較的早い段階でのそれに、リフェンナ自身も少しばかり驚いた。
リゼルアルヴの部屋でタガルと話したあの夜、リフェンナはそのまま眠ってしまったらしかった。気がつけば二週間が経っていて、自分の家のベッドの上にいた。
目覚めたところで清々しい気持ちになどならない。
常に頭の働きは鈍く、深く物事を考えることは許されなかった。そのため、起きてからしばらくベッドから動けず、リーフィールが様子を見に来るまでそれは続いた。
暗い顔で入ってきた弟子は、上体を起こしてぼうっとしているリフェンナを見て、目を丸くして叫んだ。
「起きたなら言ってくださいよバカ」
高いその声に、声変わりの最中に儀式が重なってしまったら可哀そうだなあ、とぼんやり思う。
ずっと出しづらい声でいつまで続くかわからない生を歩ませるのは、可哀そうだ。せめて今のままか、完全に変わったあと、不死にしてやれたらいいのに。
視界もぼやけていた。リーフィールに何か言おうと口を開いたが、うまく声が出ない。
察した弟子は、一度部屋を出て、コップに水をなみなみと注いで戻ってきた。慌てたのか、こちらへの気遣いであろう五つのコップが乗ったトレーは、濡れてポタポタと床に水滴を落としていた。
リフェンナは一杯だけ飲んだ。ぬるい水は、ゆっくりと生命に染みわたっていくようだった。
それから、口を開く。不思議となめらかに声が出た。
「あと、半年、こんな感じになるわね」
「……そうですね」
「悪いけど、こうやって起きている間に、いろいろ仕事を教えておくわ。まずは……」
「先生、その前に」
リーフィールが遮って言う。
「本当にマトラドには言わないつもりなんですか」
サイドテーブルに置かれた水の揺らぎが、やけに鮮明に見えた。
リフェンナは答えない。ただ水紋だけを見つめた。
「マトラドは、あれから毎日、ここに来てるんですよ」
はっとして夜色の瞳に目を向ける。とても嘘を言っているようではなかった。
マトラドが、来ていた。この異常を見られたということだ。気づかれてしまっただろうか。できるだけ知られずにいなくなりたいのに、今、知られてしまったら、止められてしまう。
そんなリフェンナの不安が伝わったのか、リーフィールは大きなため息をついて、師を安心させようとしてくれた。
「誤魔化してあげましたよ、もちろん。魔法使い特有のもの、って言えば、しぶしぶ帰っていきましたよ。かわいそうに、毎日毎日、死にそうな顔して先生のこと見て……。あんなマトラド、初めて見ました」
「そう……そうだったの。さすがね」
「何がさすがね、ですか。ばれたらぶん殴られるのは僕なんですからね」
「大丈夫。マトラドはそんなことしないよ。少なくとも、おまえが味方であるうちは」
リーフィールが言うには、マトラドは夕方ごろに来て、一時間ほどリフェンナの傍にいてから、溜まり場に向かったとのことだった。
リーフィールの言葉に納得はしていないようだったが、深く追求することはなく、ただ黙ってリフェンナの目覚めを待っていたのだと。
可哀そうなことをしてしまっている。知人が何の説明もなく眠りこけて、ずっと目を覚まさないというのは、普通ならありえないことだ。しかも理由がわかっている上で教えてもらえない。
マトラドでなくても、きっと、こたえるだろう。
そんな可哀そうなことをしてしまっているのに、リフェンナはやはりどうしても、マトラドにだけは知られたくないままだ。
マトラドが自分のために苦しんでいる。それが、うれしい。そんな風に思ってしまう自分に、軽く失望してしまうけれど。
やがてまた睡魔が襲ってきた。今度はじわじわと、浸水していくように。
「……リーフィール、私、また眠ってしまうみたいよ。女王に頼みたいことがあるんだけど、伝えておいてくれるかしら」
瞼が落ちてくる中、自分がちゃんと言葉を発しているのかもわからない状態で、ふたつみっつ、伝言を頼む。リーフィールの声が遠のき、体から完全に力が抜けていく。
たったの一日も起きていられず、リフェンナはまた眠りについた。
眠りには波があった。
寝ぼけたような状態で一日過ごすこともあれば、深い深い眠りに呑まれることも。共通するのは、頭はほとんど働かない状態だということ。
その日は微かに意識があった。眠りの浅いところを漂っているようで、リフェンナは波に揺られる夢のようなものを見ていた。
すると、誰かがリフェンナの左手を、包み込んだ。大きな手だった。触り慣れた手。
きっとこれはあの男の手だ。弱い力でこわごわと握ってくるそれが、愛しくて愛しくて、このまま一生目覚めたくない、と思った。
こんなに素直に、感覚だけを受け入れられたのは、いつ振りだろう。
優しい手だ。細かな傷のせいで、皮膚が硬くなった手。あの女を愛した手。あの女に愛された手。
働かない頭は溢れる感情だけを拾う。愛しい。好きだと、なめらかな気持ちがリフェンナを満たす。
このままずっと握っていてほしい。もっと、触れてほしい。その指が触れたところから、リフェンナの体は作り替えられてしまうようだった。
遠くの方から声が聞こえる。リフェンナの名を呼ぶ、囁くような声。低くて、鼓膜を心地よく揺らす声だった。
――リフェンナ、おまえもいなくなるのか。
切実な色を纏ったそれに、リフェンナも悲しくなる。持ち上げられた左手に、何か湿ったものが触れたあと、水滴が一粒、落ちる。
頭が急に痛くなった。自分が、目覚めようとしているのを感じた。
――おまえは、傍にいてくれると、言っただろう。
そう、確かにリフェンナは、マトラドの傍にいてやると言った。不死だからいなくなることなんてない、とも、いつだったか言ったような気がする。
リフェンナは自分がどれだけ勝手なことをしているか、よく理解していた。
幸せにしてやりたいと願った相手を苦しめるなんて、あまりにも愚かだ。罪深いことだ。
わかっていてもなお、リフェンナは選んでしまったし、元には戻れない。もう、ひとでなしではいられない。
ひとでなしは、こんな風に、矛盾だらけで面倒な感情にとらわれたりしない。そのためにリフェンナはひとでなしになった。今のリフェンナは、とてもではないが、ひとでなしとは言えない。
どんなにマトラドを苦しめても、リフェンナは、諦めたくなくなってしまった。
もう一度ただの人間として、生きたいと願ってしまった。かつて苦しめられていた呪いが戻ってきてもいいから、もう一度、この男と同じ世界に、同じ時間に生きる人間になりたいと、思ってしまった。
どれだけ勝手かはわかっている。わかっているけれど、自分の幸せが、欲しくなってしまった。そんなものはいらないと捨てたすべてが、惜しくなってしまった。
あのとき魔女にならなければ。不死にならなければ。
したくなかった後悔ばかりで、死にたい、今すぐ消えたい、でも、幸せになりたいと、望んでしまう。
マトラドを幸せにしてやりたかったはずなのに、マトラドに幸せにしてほしいと思ってしまった。
その裏切りが、何より自分を許せないものにした。
届くか届かないかは、わからない。目覚めと眠りの狭間で大きな波を感じながら、目も開けないまま、寝言のようにつぶやく。
「しあわせに、なって。ジナと――」
左手が痛いほど握りしめられて、息を呑む気配がした。
今、自分は、マトラドを傷つけた。それだけは確かだった。
ゆっくりと離れていく手に縋りたくなる。そんなことは、できないけれど。部屋を出ていく音がする。行かないでと、ここにいてと、泣きたかった。
幸せになってほしい。ジナと、彼女との子どもと、三人で。
今だからこそわかる。あの頃はリフェンナも、三人を見ていて幸せだった。
叶わない願いだと知りながら、そう思うしかなかった。
おまえの傍にいてやると約束したのに、離れていくこと、本当に悪いと思ってる。
だけど、私もおまえと同じ存在になりたくなった。おまえがどんどん変わっていって、でも、ずっとジナを待っていて、そういうの、すごく、素敵だなと思った。
私はきっと、おまえに待っていてほしかったんだ。おまえがこっちを向いてくれる日を待とう、そう思って、待っていたけど、本当は、待っていてくれる誰かが欲しかった。ジナのように、ひたすらに愛されてみたかった。
マトラド。私も、ジナが好きだった。だからおまえを好きになったのかもしれない。
私、もしかしたら、ただ、ジナがうらやましかっただけなのかも。私、ジナになりたかっただけだったのかも。それでも、おまえを幸せにしてやりたいと思ったのは、それだけは、真実だよ。
だっておまえは、子どもの頃からずっと、私を私として扱ってくれただろう。
その日から、マトラドは来なくなった。
リフェンナは眠り続ける。夢も何も見ず、沈むように、眠り続けた。




