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人間を辞めて『ひとでなし』になって、初めてのことだった。
それに、マトラドは彼が赤ん坊の頃から知っている男だ。これが母性でないとは言い切れない。
そもそもがマトラドに幸せになってほしい、という願いからくる感情だ。その幸せの中にリフェンナは含まれておらず、入っていけないこともわかっていた。
ただ、同じ世界に存在したい。もう一度、人間としてやり直してみたい。
そうリフェンナに思わせるほど、マトラドとの関わりは、リフェンナの知らない幸福で満ちていた。それが縺れた関係であると知っていたけれど。
「待つよ」
ストレートにそう言ってみたことがある。
「私は、おまえが私を見てくれるまで、待つよ」
ほんの三年ほど前のことだと思う。珍しく潰れるまで酒を呑んだマトラドを、リフェンナの部屋のベッドに寝かせてやって、その寝顔を眺めながらのことだ。彼が子どもだった頃にそうしてやったように、頭を優しく撫でた。
マトラドの意識があるうちは、絶対にそんなことは言えない。待つのはリフェンナの勝手な決断だ。マトラドに直接言ってしまうと、それなりに誠実であろうとする彼は、こんなに体を捧げたリフェンナの想いに答えようとするだろう。
それはリフェンナの望むことではない。だから、意識のあるマトラドには言えなかった。
それでも言葉にして声に出しただけで、リフェンナはなんとなく、伝えられたような気になった。
すぐあとに、リーフィールを拾った。マトラドと路地を歩いていたときのことだった。ボロを纏って、強い憎しみの目でこちらを睨んできた少年に、昔の自分が重なった。
「おまえ、そこから抜け出したいでしょう」
少年は頷く。
「そう。――ついてきなさい。私の弟子にしてあげるわ」
かつて師たるリットにされたように、リフェンナは、少年の手を取った。
マトラドも特に反対はしなかった。特別な関係ではないのだから当然だ。
三人でリフェンナの店に帰り、のちにリーフィールと名づける少年をお風呂に入れてやり、食事をしっかりととらせ、清潔なベッドで寝かしつけた。マトラドはずっと付き添ってくれていた。
これでマトラドと同じ世界に行ける、と思った。
不死者特有の引き延ばされてぼんやりとした時間ではなく、一瞬一瞬の積み重ねである今という時間を、生きられるようになる、と思った。
マトラドの一番になるつもりは毛頭ないが、同じ時間を生きてみたいと願ってしまっていたところに、弟子にしたいと思える少年が現れたことは、リフェンナにとって福音に等しかった。
と、ここまで考えて、愕然とした。
自分がここまで、マトラドに心を移していると、リフェンナはまったく気づいていなかった。この時点までは。
この男を幸せにしてやりたい、と願っているのは自覚していて、そのために動いているつもりだった。きっと未熟な母性か何かだと思っていたのに。
何かしらの好意だという気はしていたものの、ぼやけていたそれは、気づいてしまったことではっきりしてしまった。
輪郭を持った感情を持て余し始めたのは、この頃からだろう。
弟子を育てるには不純な気持ちのまま、リーフィールとの生活は進んだ。それなりに楽しい日々だった。心を開いたリーフィールはとても良い子だったし、マトラドもずいぶんと立ち直った。
日々があまりにも幸せすぎた。満ち足りていて、今を手放したくない。二年もそんな生活をしていると、リフェンナは変わってしまった。マトラドは変わらず、ジナを待ち続けているのに。
いつか、リフェンナは待てなくなる日が来る。マトラドがこちらを見る目に、深い何かを滲ませはじめているのが、心底恐ろしかった。
つまりリフェンナは、愛情を向けられることに慣れていなくて、ひとでなしであることに劣等感を抱いていたのだ。
ジナがいなくなって、もうすぐ六年、この六年でずいぶんと本当の自分を思い知らされた。
ジナとの最後の会話を思い出す。彼女がいなくなる、三ヶ月ほど前に少しだけ話したのが最後だった。
「わたし、呪いのことはよくわからないのだけれど」
何の脈略もなくそう言ったジナは、そっとリフェンナの手に触れた。
「想いの強さだと思うの、呪いというものは。だから、わたしもきっと呪われてるわ。マトラドが好きって思えば思うほど、どんどん好きになっていくの。呪いを解くのに、自分の努力が必要になってくるのは、叶えようとしなければ叶わない恋に似てると思わないかしら」
何を言っているんだ、とそのときは思った。リフェンナに恋の話など、笑ってしまう。ひとでなしが誰かを愛せるはずがない。リフェンナのような、薄れきった感情の女は、特に。
顔に出ていたのか、ジナは苦笑して、そのままリフェンナの手を握った。
「あなたが幸せになれるといいのに。あなたの夢は……きっと叶うわ」
「さっきから、何を言いたいの」
「簡単なことよ。あなたのことが好き。それだけ。だから、幸せになってね」
「幸せ、幸せって……。そんなに大事なことかしらね、幸せって。私は今でもじゅうぶん満足のいく生活だよ」
「そう、それならそれで、いいの。……あの子も幸せになれるといいのに。あなたやあの子だけじゃないわ、わたしの好きな人、みんなが幸せになれる、そんな日が来るといいのだけれど」
わたしは諦めないわよ、と強い光を宿した目に射抜かれたような気がして、リフェンナは居心地の悪い思いをした。
あの子、とは、リゼルアルヴのことだろう。特別かわいがっているリゼルアルヴが、あのタガル・ティ・トルヴァグに恋しているのを良く思っていないらしく、度々そういうことを言った。リゼルアルヴももう二十の半ばだというのに、過保護だった。
「あなたもいつか恋をするわ。とっても素敵な恋を。そうなったら絶対に手放しちゃだめよ、何が何でも手に入れなきゃ。わたしも全力でお手伝いするわ。すぐに教えてね」
「わかった、わかった。そんな日は来ないだろうけどね」
「来るわよ、絶対。わたしのお仕事を思い出して。駆け引きも恋心を見抜くのも、娼婦の特技なんだから」
芽生えてもいないものをどう見抜くというのか。
この日のジナは、いつにもまして何を言っているのかわからない話ばかりした。リフェンナに心を許しているらしく、ときどきこんな風に脈略のない話をすることがあったが、この日だけは、違和感をぬぐえなかったのを覚えている。
あのとき、ジナはもう、マトラドの前から姿を消すことを決めていたのかもしれない。
そしてそれを止められたのは、リフェンナだけだったのかもしれない。あとになってそう思う。
ジナ、本当に私は幸せになってもいいのかしら。
マトラドを好きになってしまったリフェンナは、言葉にせず、胸の中だけでもういない彼女に問いかける。
おまえが好きだった人を、私も好きでいていいのかしら。おまえは怒るのかしら。どうして、帰ってきてくれなかったの。
マトラドを幸せにしてやりたい。ひとりの人間をあれだけ一途に想えて、仲間のために無意識に無理をできる男なのだ。
報われて、誰よりも幸せになるべき男であるはずだ。だから、幸せにしてやりたい。それなのに。
マトラドと共に生きたい。同じ時間を生きてみたい。時間から取り残された不死者を辞めてでも。
いつか、こちらに振り向いてほしい。でも、振り向かないでほしい。
もしかしたらリフェンナは、絶対に振り向かないとわかっているマトラドだからこそ、好きになれたのかもしれない。
マトラドがもっと簡単に次の女を探せる男だったら、こんなにも大事にしてやりたいと思うこともなかっただろう。それが揺らいで、変わらないままの、変わらないはずのマトラドまでも変わりはじめてしまったから、これほどに恐怖を抱くのか。
自分の知らないところで、幸せになってくれたら、どれだけ楽だったか。リフェンナは思う。本当に、不死になんてならなければよかった。したくない後悔をしてしまっている。
あの日ジナが言ったことは、正しかったのかもしれない。
こんな苦しみは、呪いと似ている。




