13
不眠の時期になってしばらく経った。
リーフィールにほとんどの仕事を引き継ぎ、手持無沙汰になった冬のことだ。
もとより魔法使いの体は生命維持活動を必要としない。
ただの人間として生きていた頃の癖で呼吸は誰もがしているが、別に窒息状態になったところで死にはしない。
不死者は、絶対に死なないのだ。よって、睡眠もまた不要なのだが、眠ろうとすれば眠れる。
この不眠の時期になると「眠ろうとすれば」ということさえ許されなくなり、どこまでも冴えた頭で生活を続けなければならなくなる。
リフェンナにとってそれは苦ではないはずだった。魔女になってから数年前まではずっと、眠る方が稀だったからだ。
それでも、今この状況で眠れなくなることは、あまりに苦しい。
起きていれば考えたくないことばかり考えてしまう。あの男のことや、知らせなくてはならない知らせたくないことを。
夜な夜な街を徘徊するようになった。もちろん目的の場所もない。なるべく人の目につかない道を選び、街のあちこちを歩いた。
この日はちろちろと雪が降っていた。
冬が深まったことを感じつつ、寒さの一つも奥に通そうとしない肌を恨めしく思いながら貴族たちの街屋敷の並ぶ区画を歩いていると、前の方から見覚えのある男がやってきた。
タガル・ティ・トルヴァグ。リビラの中の一人だ。
彼が来た方向から見るに、彼の生家に行っていたのだろう。
半年ほど前からタガルが生家に出入りするようになったことを、リフェンナはその家の人間から聞いていた。
うっかり立ち止まったこちらに気づかないはずもなく、タガルは怪訝そうに眉を寄せたのち、歩幅を広めて近寄ってきた。
「おまえ、こんな夜中に何してんだ」
「相変わらずのクソガキね。私がいつ何をしていようが関係ないでしょ」
ムッとして怒りを滲ませたタガルだったが、すぐ我に返って深く息を吸い、また息を吐いた。懸命に冷静さを取り戻そうとしているようだった。他者から見ればなんてことないその様子が、リフェンナには心底苦しんでいるように見え、気の毒に思う。
かつて人間だったリフェンナが苦しめられた呪いにと同じものに、タガルは今、苦しめられている。
「あいつに見つかったら殴られるぞ」
「あいつって、マトラドのことかしら。それとも弟子の方かしら」
「マトラドに決まってんだろ、バカ。あいつがどれだけ心配性か、おまえが一番わかってるだろ」
「そうね。近頃、誰のせいだか知らないけど、私に対する心配性がひどくなってるものね。誰のせいだか知らないけど」
「人が必死に呪いと戦ってんのに、煽るなんて趣味が良いじゃねえか。さすが天才はやることが違うな」
「あら、嬉しいわ」
「褒めてねえよ、ほんと腹立つなおまえ」
こめかみを抑えながら喋るタガルに、なんとなく癒された。顔の良い男が困っているところは、妙に愉快だとリフェンナは思っている。
長々と立ち話をしていられるような場所でもないので、どこか誰にも介入されないところで話すことになった。
タガルはリフェンナに色々と言いたいことがあるらしく、またリフェンナの方にも、いくつか文句を言いたいことがあった。
少し後ろからタガルを追っていけば、辿り着いたのは、彼が押しかけているある女の部屋だった。今にも倒壊しそうなボロアパートの一室である。
さすがにリフェンナもこれにはタガルの正気を疑う他ない。
しかし、中にいた女は、リフェンナを快く招き入れた。リビラの一人であるその女はリゼルアルヴといって、リフェンナが今、会いたくない人のうちの一人でもあった。
「こんばんは、リフェンナ」
「夜更けに悪いね、リゼルアルヴ」
「いいのよ。今夜は仕事もないし。たいしたものは出せないんだけど、ゆっくりしていって」
「ほんと、おまえはタガルにはもったいないよ」
「私もそう思うわ」
地味だが、よく見たら整った顔をした女だ。
どこにでもいるような平凡な顔をしている、ということは、リゼルアルヴの最大の武器である。彼女は落ち着いた雰囲気と顔に似合わず、リビラで最もスリが上手い。そして基本的に、無表情の女だ。
促されるままに椅子に座って、テーブルを挟んでタガルと向かい合う。
リゼルアルヴは酒を用意したあと、寝室に引っ込んでしまった。二人の話の邪魔をしないためだろう。
リフェンナの方に、タガルと話すべき事柄はない。けれどタガルの方にはあるのだろう。あの男のことで。
口を開いてやるつもりはなく、タガルが何か話すのを待った。
すると彼は大きなため息と共に、「めんどくせえ女だな」と大変に失礼な言葉を投げかけてきた。
動じず、「そうね」と返す。
「長く生きすぎたせいかもしれないわ」
タガルはじっとこちらを見てきた。澄んだ琥珀の瞳は、リフェンナのすべてを見透かすようで、不気味にすら思う。猫のように自由な男だから、余計に。
「ひねくれてんなあ」
「おまえにだけは、言われたくなかったよ」
「俺のはほとんど呪いのせいだろうが。だけど、おまえ、呪いなんざとっくに解けてんだろ」
「……そうね。ひとでなしは、呪われたりしないからね」
「わかってるだろうが、改めて言ってやる。あいつは、自分からは踏み込めねえぞ。気づいてほしいのか何なのか知らねえけど、あいつが何も言わずに気づいてくれるような気の利いたやつだったら、おまえだってこんなに苦労してないだろ」
わかっている。出された酒を一口含んで、ゆっくりと喉の奥に押し込んだ。
タガルは、リフェンナのことも、マトラドのことも心配しているのだ。そういえば今日は新月だ。どうりで、いつもは本心を口にできないタガルが、素直に向き合ってくれている。
彼の呪いは、新月の日だけは弱まるのだ。
もうずいぶん薄れてしまったが、自分に流れる血のいくらかは、このタガル・ティ・トルヴァグにも流れている。
そう思うと妙な感じがした。リフェンナの子孫は存在しない。しないが、リフェンナの生家はまだ続いている。
ただの人間だった頃はあんなに潰してやりたかった家だが、四百年経ってもこうしてその家の者と関わりがある、とかつての自分に言ってやれば、どんな顔をするだろう。
不思議な気分だった。
なんとなく、アドルヴェリアに会いたくなった。あのどこまでも澄んだ青い目が見たい。今は、マトラドが持っている、あの目を。
人間だったリフェンナは、呪いを持って生まれた。
とても厄介な呪いだった。その呪いのせいで生家に捨てられたリフェンナはその先で出会った魔法使いに拾われ、不死を目指した。
魔女になってからは生家への憎しみも薄れてしまい、いつの間にか、はっきりとした和解はしていないものの、互いの力を必要とすれば助け合えるくらいになった。
その家に、リフェンナと同じ呪いを持って生まれてしまったのが、タガル・ティ・トルヴァグだ。
だからリフェンナはそれなりにタガルのことを気にかけてやっていたし、タガルをリビラに導き、アドルヴェリアに託したのも、リフェンナだった。
「おまえは本当に、呪いさえなければ面倒見のいい男なんだけどね」
「好きに言え。おまえ、本当にどうするんだ。魔女、辞めるんだろ」
「……前から訊きたかったのよ。どこでそれを知ったの」
「見てりゃあ、わかるに決まってんだろ。痛みに鈍い女が、急に倒れたり苦しんだりしたんだからよ。魔法使いのことはさすがにわからねえけど、リーフィールが血相変えて頼ってきたってことは、つまり、ただごとじゃねえってことだろ」
「それくらいで、私が魔女を辞めるなんて、わかったの。とんでもない男ね」
「まあな、色々。そもそもおまえのおかげで、あの家には魔法についての本がやたらあるんだからよお」
相変わらず安っぽい口調だ。黙っていればやたら顔の良い男なのに、心底もったいないと思う。けれど、だからこそ、タガルを好きになる女が多いのだろう。
完璧な男より、多少欠陥のある男の方が女に好かれるのは世の常だ。
タガルは言う。
マトラドは、リフェンナの身に何が起きているのかわからず、しかしどこまで踏み込んでいいのかもわからないため、身動きがとれなくなっているのだと。
笑ってしまった。そして、嬉しくなった。
少なくともそれくらいの心配をしてくれているということが、幸せでたまらなかった。マトラドは、そういう男だ。誰にだって優しい。その誰にでも、という中に自分もいることが、これ以上なく嬉しかった。
そんなことで、と思われるかもしれない。リフェンナも自分のことをとても単純な女だと思った。それでも、嬉しいものは、うれしい。
「魔女辞めるんなら、行く場所もなくなるだろ。ここらでちゃんと、向き合って話した方がいいんじゃないのか。将来のことも、過去のこともよお」
「そうね。あいつに話さないといけないことだらけだよ。言わないといけないのに、言えなかったことばっかりだ。情けない……」
「リーフィールに継承する儀式はいつなんだ」
「祭りの日よ。あと半年、かしら」
そうリフェンナが告げると、タガルは勢いよく立ち上がって叫んだ。
「よりによってその日に何も言わずに消えるつもりだったのか」
マトラドのことを知っている人間なら、誰だってそう叫ぶだろう。正気か、と問われた。
正気なんてとっくになくなっている。まともになるために不死になって、感情を薄めて言ったのに、今はこんなに冷静さを欠いている。
「おまえ、あいつがどれだけその日に苦しまされてきたかわかってるんだろうが。それなのにわざわざその日を選ぶのか」
「誰にも気づかれずに消えるなら、騒がしくて慌ただしい日が一番でしょう」
「だからって、ああクソ、おまえがそこまでのひとでなしとは思わなかったよ」
「……バカね。私はもう、四百年も前から、正真正銘のひとでなしよ」
じゃあもう死んじまえよ、とタガルが漏らす。本当に、もう死んでしまいたい。
いつからここまでひねくれてしまったのだろう。きっと、最初からだ。人間だった頃からずっと自分勝手に生きてきた。他人に迷惑ばかりかけて、そうして呼吸を続けてきた。
死んでしまえるなら今すぐにでも死んでしまいたい。こんなに醜い感情を持ちたくなかった。
せめて、マトラドに出会う前に戻りたかった。
気づきたくなかったし、変わりたくなかった。
ひとでなしでも、誰にも会わないから誰にも迷惑をかけない、ひとでなしでいたかった。
「おまえには幸せになってもらわねえと困るんだよ」
「おまえでも幸せになれる、ってモデルケースとしてね」
「ああそうだよ、悪いか。でも俺だけじゃねえ。あの忌々しい一族も、おまえを放り出したことを四百年経った今でも後悔してんだよ。だから未だにおまえが頼ったら飛んでくるんだろ」
「みんなおかしいわよね。頼んでもないのに助けてくれる。こんなひとでなしのために。みんな、バカばっかり。殺してくれたらいいのに」
だめだ、と思ったときにはもう遅かった。たまらなく悲しくなって涙が溢れてしまう。しゃくりあげながら、タガルを見た。
「私だって、幸せに、なりたいのよ。でも、それよりマトラドに、私は私より、マトラドに幸せになってほしい」
「……だから、逃げるのか」
「待つのを、やめる、それだけよ。いつまでも待っていられない」
「もうすぐ報われるのにか」
「……だから、こわいのよ」
リフェンナも鈍くはない。薄々、マトラドがリフェンナに気持ちを向け始めていることには、もうとっくに気づいている。
だからこそ怖かった。自分に好意が向けられるということが、それを受け取るということが、リフェンナにとってはただひたすらに怖いことだった。
得てしまえば失う恐怖が背中に張りついてしまう。誰も愛したことのなかったリフェンナだが、それくらいはわかる。
何事もそうだ。手にしなければ、無駄な恐怖にせかされることもない。
マトラドは、リフェンナがはっきりと自分の気持ちを口にすれば、きっと受け入れてくれるだろう。
むしろそれで、マトラドは今度こそ幸せになれるかもしれない。リフェンナは不死だ。死にゆくマトラドを見守り、見送ることだってできる。
だが、それでは意味がない。
リフェンナは、ジナを愛するマトラドが好きなのだ。誰かひとりをひたすらに愛して、戻ってこないとわかっていながら待ち続ける、そんなマトラドだから愛したのだ。
それにマトラドも、ジナ以上に愛せる女を見つけることはできないだろう。
自分と子どもを置いてどこかに行ってしまった女だが、それでもマトラドは、ジナを嫌えないし、憎めない。
もうどうすれば正解なのかわからなくなって、リフェンナは待つのをやめることにしたのだ。自分が願ったことを、優先することにしたのだ。
「マトラドと、同じ世界を生きたかった。私が不死である限り、どうしたってひとでなしと人間との間には、深い隔たりがあるのよ。だから、人間に戻りたい。人間に戻って、ちゃんと死にたいのよ。わからないでしょうけど」
タガルはじっとリフェンナを見下ろしたままだ。悔しそうに顔を歪めたまま、泣きじゃくるリフェンナを見ている。
異変に気づいたらしいリゼルアルヴが寝室から出て来て、何を考えているかわからない無表情のまま、そっとリフェンナに寄り添った。
「少しだけ、話を聞いてしまったの」
細い体でリフェンナを抱きしめ、少し掠れた優しい声で言う。
「ごめんなさい。でも、ねえ、もしよかったら今日は泊っていって。とても寒い部屋だけど」
タガルは何も言わなかった。舌打ちをひとつ残して、リゼルアルヴの部屋を出て行ってしまう。
体に力が入らなくなって、涙を垂れ流したまま、椅子の背もたれに身を任せる。
リゼルアルヴが濡れた布で顔を拭いてくれた。情けなかった。四百も年上なのに、子どものようにリゼルアルヴに甘えることしかできないことが、情けなくてどうしようもない。
寝室に通されて、ベッドに横になるよう促される。
それはさすがに遠慮しようとしたが、突然、思いきり頭を殴られたような衝撃に襲われる。
それは痛みではなかった。強烈な睡魔だ。
どうしたの、と呼び掛けてくるリゼルアルヴの声に答えることすらできず、リフェンナはその場に倒れる。
遠のく意識の中で、このまま死んでしまえますように、と願う。




