12
憔悴しきった顔で赤ん坊を抱えているマトラドの姿が、かつて彼と出会った日のことを思い出させた。
あの日も、こんなむずがゆいような違和感のある日だった。
閉めていた店の戸を叩く微かな音に気がついて下りれば、マトラドが訪ねて来ていた。
「どうしたの」
とにかく中に招き入れ、二階に上がらせようとしたが、マトラドの体が小さく震えていることに気づき、暖炉のある応接室に通した。
冬はまだ遠いが、確かにこの日は、リフェンナでも寒いと感じるほどだった。
愛用の椅子に座らせてやって、温かくて甘い茶を淹れてやる。今度はちゃんと、おいしく。
「ゆっくりでいいから、話したくなったら、話して。私はずっとここにいるから」
どうしてそんな風に言いたくなったのか、リフェンナ自身にもわからなかった。
ただ、今のマトラドから離れてはいけない、と思った。誰かが、この男の傍にいてやらなければならない。それが自分であるかどうかは、わからなかったけれど。
腕の中の赤ん坊は、少し前に生まれたマトラドとジナの子どもだろう。ぐずる様子もなく、静かに眠っている。
ともすれば聞き逃してしまいそうなくらいの小さな声で、マトラドが口を開いた。彼らしくなかった。
「……ジナが、いなくなった」
え、と漏らしてしまった。そしてすぐ、どうして、と思う。
どうしていなくなる必要があるのだろう。
あの女は満たされている。地位も美貌も財産も、そして愛さえも、あの女は完全な形で手にしていた。
これからの未来もそうであるはずだった。それなのに。
「出かけただけ、じゃないの」
「ひと月、帰ってない。荷物も全部なくなってる」
「どうして、もっと早く言わなかったの」
一週間くらいで言ってくれれば、リフェンナの魔法を使えば足取りを掴めたかもしれない。
人探しはリフェンナの専門ではないため、ひと月もすぎてしまうと、簡単には見つけられないだろう。もっと、早ければ。
「帰ってくると思ったんだ」
「……そう、よね」
何も言えなかった。
そうかこの男は、人間だった。
リフェンナのように、感情を薄められたひとでなしではないのだった。
リフェンナであれば冷静に対処できただろう。
待つなんてことはせず、すぐに探したはずだ。帰ってくるなんて期待せず、相手が必要だと思えば地の果てまで探して追って連れ戻すくらいのことはした。
けれど。
マトラドには、待つしかできなかった。
それだけ、マトラドはジナを失うことが怖いのだ。大切だからこそ。絶望したくないから期待したのだ。信じなかったのだ。
ジナが自分と子どもを置いて消えた、あまりにも残酷な現実を受け入れたくなかったのだ。
マトラドは、ただの、ひとだった。
「……私も探すよ。私のすべてを使って。時間はかかるかもしれない、だけど、できることは全部やるって、約束する。その子のことも」
どうしようもなく、この男を支えてやりたいと思った。
だから、リフェンナはそんな風に言ってしまった。
縋るような目でマトラドがリフェンナを見る。震えはまだ、止まっていない。
ああどうして、この男は幸せになろうとしていただけなのに、どうしてこんなことになっているのだろう。どうしてジナはこの男を置いて行ったのだろう。どうして。
湧き上がる何かが、リフェンナの口と体を勝手に動かした。
気づけばリフェンナは、赤ん坊ごと、マトラドを抱きしめていた。マトラドが可哀そうで可哀そうで、この男が不幸であることがたまらなく嫌で、魔女になって初めて泣きそうになった。感情が、心臓が、激しく脈打った。
何もわからなかったが、リフェンナは決意した。
この男を幸せにしてやろう、この男が幸せになれるようにしよう、と。
その夜は、そうやって更けていった。
詳しいことは何も話さなかった。ただ、マトラドの傍にいてやりたくて、家に泊まらせる。本当に久しぶりに誰かが家にいる中で、久しぶりにリフェンナも眠った。
急なことで、マトラドも何があったのか把握していないようだった。
翌朝、リビラの一人に赤ん坊を預け、リフェンナとマトラドは状況把握のためにあちこち回った。
確かに、マトラドの家から、不自然なまでに綺麗にジナの荷物が消えていた。何一つ置き忘れておらず、リフェンナが魔法を使っても、手掛かりは見つけられなかった。
「すまない。……もっと早く、おまえを頼っていれば」
「うん、本当にね。でも仕方のないことよ。ここまで綺麗に全部持って行かれちゃったら、すぐに調べに来たって、私でも今みたいに何も見つけられなかったと思うわ」
冷静さを取り戻したように見えるマトラドを気遣いつつそう言えば、彼は力なく笑った。
誰にも言わなかったのだという。きっと戻ってくると信じたから。自分たちを置いていなくなったと信じたくなかったから。
リフェンナはアドルヴェリアのことを思った。彼女も、マトラドの前から消えた。あの祭りの夜に。
ジナもまた同じだ。祭りの日に、マトラドを置いてどこかに消えてしまった。
もう呪いの域だ。この男は、大切な女に捨てられる呪いでも持って生まれてしまったのか。
彼を生んだ母も、育てた女も、愛した女も、みんないなくなっていく。
それでも、マトラドは呪われてなどいない。ごく普通の男だ。ただの運の悪い男だ。
だからこそ、逃げ道がない。呪いのせいにして、開き直ることすら許されない。呪いだったら、解く方法も見つけられたかもしれないのに。
リフェンナは約束通り、持てる力、持てるツテのすべてを使ってジナを探した。
マトラドはジナの帰る場所を守るために、赤ん坊と二人で家に残った。リフェンナは毎日のように彼の家に通って手伝えることを手伝い、アドルヴェリアがマトラドを育てたときと同じように、乳母代わりになる女を探して雇ってやった。
マトラドは自分で育てるつもりだったから、乳母は母乳を与えることが仕事になり、やがてそれも代用品を見つけてからは不要になった。
赤ん坊は女児で、女親の代わりとまでは言えないが、リフェンナができることはやってやった。
マトラドは娘のために、次第に持ち直していった。
もしかしたら、ジナが見つからなくても、父娘の二人でじゅうぶん仲良く幸せに生きていけるかもしれない。
そう思った、矢先のことだった。
赤ん坊が死んだ。ごく普通に眠っていたはずなのに、そのまま目を覚ますことはなかった。
生まれつき、心臓の悪い子どもだった。
長くは生きられないかもしれないと、マトラドも覚悟はしていたはずだ。他者の病や怪我に魔法を使うことを禁じられている魔女には、どうすることもできなかった。
リフェンナは中央教会の管理する墓地の中で、いちばん高くていちばん立派な墓を建てて、マトラドの娘を弔った。
マトラドは文句も遠慮も言わなかった。心を失ってしまったかのように、ただ、力の抜けた体で娘を見送った。
リフェンナとマトラドの二人で葬儀をして、参列者も二人だけ。教会の墓地でありながら、聖職者すら参加させない葬式だった。
ひっそりと、小さな赤ん坊は土に埋もれていった。マトラドは泣かなかった。リフェンナも。
なんとしても幸せにしてやろうと決めたのに、どうしても彼が不幸になっていく。
彼の愛した女たちが消えていく。
それからマトラドは荒れた。
昼間はどうということもない。夜も、リビラの仲間の前では、頼もしいリーダーであり続けた。
しかし誰にも知られないように上手く隠れて、ジナの陰を求めてか荒れた生活を送っているようだった。
リーダーとしての仕事はよくやっている。それがなければきっと、とっくにだめになっていただろう。
見かねたリフェンナはマトラドを自分の家に呼んで、無理やり一緒に暮らしはじめた。
縺れた関係を持ちかけたのも、このときだった。
「おまえ、どうせ苦しむんだったら、私を使えばいいよ。私はひとでなしだから、泣くこともないし、期待することもないし、責めることもないよ。おまえが何をしようが、私はおまえの傍にずっといてやれる。私は永遠に死なないからね。たくさんの女の相手をして、そのたびに傷つくくらいなら、最初から道具に等しい私を使えば、少しは傷つかずに済むんじゃないの」
きっとそんなことはない、マトラドはリフェンナを使っても傷つくだろう。マトラドにはジナしかいないのだから。
それでも手当たり次第に求めるよりは、一人から求め続けた方が、少しは気楽でいられるだろう。少しは傷が浅くて済むだろう。そんな、リフェンナなりの思いやりだった。
マトラドはそれに乗った。というよりは、リフェンナが押し切った形になった。
行為が終われば普段と変わらず接したリフェンナに安心したのか、マトラドも徐々に心を開き、リフェンナの体を使うことにためらいを抱かなくなった。
寂しさに慣れてきたのか、時間という偉大な神の情けが作用したのか、マトラドの精神は徐々に安定していった。
それでもときどき、発作的に人の肌を求めてしまうようだった。
リフェンナは体を提供し続けて、どうすればこの男が幸せになれるかを考え続けた。いい方法は、思いつかなかった。
なんとなく、わかっていた。
マトラドの望みは叶わないのだろう、と。けれど絶対に諦めるつもりはなかった。不気味なほど足取りの見えず、人間の能力を超えているとしか思えないほど、ジナはすべての痕跡を消していた。
まるで最初から存在しなかったかのように。迎えるであろう結末を拒んで、リフェンナは願い続けた。
どうか、あの女が見つかりますように、この男が幸せになれますように、と。
やがて目を離しても大丈夫だと思えるようになって、リフェンナはマトラドを自分の家に帰してやった。
リフェンナとしては少し怖い部分もあったが、マトラドもいい歳した男だし、何より彼が望んだから、リフェンナは一人暮らしに戻った。
誤算だったのは、ある程度の時間を共に過ごしたことにより、リフェンナに「マトラドを幸せにしてやりたい」という願い以外のものが生まれてしまったこと。
マトラドの幸せを願うことには変わりない。
だから、リフェンナはマトラドと同じように、待つことにした。
いつかマトラドが、自分を選ぼうと思ってくれるまで、待つことにしたのだ。選ばれなくてもいい。待っていること自体が目的だった。
自己満足にすぎないかもしれないが、長い生の中でリフェンナが一度もしたことがない「待つ」ということをやることにした。
傍にいれたらそれでいい、いつか選ばれたら嬉しいが、近くでひっそりその幸せを手伝えたらそれだけでいい。
誰にも理解されないかもしれない。報われなくていい、なんて、本心ではないはずだと言われるかもしれない。
今さら、そんなことはどうでもよかった。他人の目を気にするほど、リフェンナは繊細にはできていない。
待って、縺れた糸をそっと握って、もう五年、六年過ぎた。
まだ、リフェンナはマトラドを幸せにしてやれていない。
愛した女を失い続けたマトラドの傷は、まだ癒えない。
それなのに、リフェンナはもう、待てなくなってしまった。
マトラドの新たな苦しみを、知ってしまったから。
安易な考えで持ち掛けた関係は、リフェンナがひとでなしだからこそ提案できたわけで、本来ならしてはならなかったものだろう。
リビラの男女関係は非常にシンプルだ。
恋愛は娯楽である。捨てた捨てられたくらいで騒ぐ男も女もいないし、一度寝たくらいで恋人だと勘違いする者もない。
市民権がなく正式な結婚ができないからこそとっかえひっかえ遊ぶ男女の多さは、今は一時期に比べずいぶんと落ち着いた方ではあるが、それでも奔放すぎる印象は否めない。
そんな中で、マトラドはひたすらに待つ男だった。ジナの帰りを待ち続けていた。リビラの女は、そんなマトラドだからこそ、体を貸してやったのだ。
このままだと彼は潰れてしまう、と心配していたのだと、誰かがのちに話していた。
そして、リフェンナが一手に引き受けて、ようやく女たちは安心したという。リフェンナが新たにマトラドの特別になり、その支柱になればいい。そう願ったのだと。
マトラドと行動を共にするようになれば、自然、リビラの仲間たちとも関りができてくる。
人間らしい生活を手放していたリフェンナだが、お節介なある女のおかげで規則正しい生活をするようになり、たまに多趣味なある女に付き合って出かけるようになった。
マトラドの周りには、世間的には悪人だが、根はどこまでも善人である人間が多かった。
そんな仲間に囲まれて、マトラドは、かつての頼もしい男に戻っていった。リビラのために常に頭を回し、仲間たちが本物の悪人になってしまわないように自分だけが手を赤く染め、新しく入った者の教育に精を出した。
ジナがいなくなり、娘を失って五年経った今、マトラドはそんな過去を感じさせないほど、立ち直った。
だからもう、いなくなっても大丈夫だ。
そう思って、リフェンナは自分の望みを叶えるために、自分勝手な決断を下せたのだ。




