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それからリフェンナは、しばらく何もない日々を過ごした。
女王は最後の一年だからと山のように仕事を積み上げ、リフェンナも最後だからと重い腰を上げて国中を飛び回った。
ときどきあの痛みが襲ってくるが、なんともなく、忙しいだけの平凡な日々が続いた。
マトラドとも、何一つ変わらないまま続いた。
言いようのない関係をずるずると、断ち切りたいと願いながら、切れてしまわないようにその糸を握りしめて、そのまま生きてしまった。
冬の入り口に立った頃、リーフィールを一人で女王の下に行かせた。
これからはリーフィールだけで国と渡り合っていくことになる。女王がどれほどの曲者かを知っているリフェンナも、さすがに落ち着いて座っていられなかった。
リフェンナと女王の出会いは、やはり彼女が赤ん坊だった頃のことだった。
昔から聡明な子どもだった。魔女として接する機会はそれなりにあったが、リフェンナはもとよりあまり他人と関わることに興味がない。
王女だった頃の彼女は、自分を邪険に扱うリフェンナになぜだかよく懐き、今もそのまま、リフェンナを慕ってくれている。リフェンナにはよくわからないが。
そんな女王のことだから、リフェンナの弟子であるリーフィールのことも、ある程度は大事にしてくれるだろう。
それでも、ストイックな面の強い彼女だ。リーフィールなら大丈夫だとは思うが、万が一、彼をつぶしてしまったら。
ないか、と軽く笑う。リーフィールは自慢の弟子だ。うまくやれるはずだ。
そうやってぼんやり、ぐるぐる思考を巡らせていると、宮殿から使者がやってきた。
女王から二通の手紙。受け取って、一通目を開く。中には、なんということもない、いつものような仕事の依頼だった。
問題は二通目だ。開ける前に、腹の底がもぞもぞと妙な感覚に襲われた。
きっと、知りたくないことが書かれている。知らないわけにはいかないことが。
恐る恐る開けて、中を確認して、あまりの驚きに投げ捨ててしまった。
死んでいたはずの心臓がこれまでにないほど激しく跳ねる。止まりそうにない。
どうしたらいいのか、わからない。
は、は、と短く呼吸を繰り返したのち、できるだけ肺の中を空にしたくて、息を吐いた。深く。それで、拾い上げた手紙を、半ば息を止めた状態で読み返す。
ああ、望みは叶わないのだ。
リフェンナの望みも、マトラドの望みも。
本当はずっと知っていた。
あの日、マトラドが絶望を背負ってここに来た夜、すでにリフェンナはこの手紙の内容を理解していた。
それでも、彼のためにその可能性を口にせず、彼の望みのために協力してやると約束したのだ。
「――ごめん、マトラド」
おまえを幸せにしてやりたかったのに、してやれなかった。
潮時なのだろう。
いつまでも待つことはできない、いつまでもこうしてはいられない、そう思っていた。思うようになった。
けれど、ずるずる、ここまで関係を続けてしまった。
今、こうして確かな結末を突きつけられたということは、もう現実から逃れることはできない、ということなのだろう。
リフェンナはため息をついて、頭を抱えた。痛い。体のすべてが痛い。苦しい。いつ振りかわからない涙が、まつげを濡らすのがわかった。
その手紙には、こう書かれている。
親愛なるリフェンナへ。
あなたに頼まれていた人探しの報告になります。すべての手を尽くしましたところ、マリアジナカトジナの死を確認いたしました。
このような結果になってしまい、わたしもとても残念に思っています。どうかお気を確かに。
調査の詳細は以下のように――
ジナは評判通りの女神じみた女であり、しかし評判以上に過激な女でもあった。
人懐こく、明るく、好かれる性格をしていた。
リフェンナはついぞジナの怒っている顔を見ずに終わったし、彼女が彼女自身のために泣いているところも見たことがない。
よく笑い、よく泣く女だったが、他人の喜びに笑い、他人の痛みのために泣いていた。それらすべてが嫌味やわざとらしさに繋がらないというこそ、ジナが特別な存在である証明だと、リフェンナは考えている。
しかし、そんな女であると同時に、ジナはかなり頑固な面を持っていた。
たいして会話もしていないのに、ジナはリフェンナのことを気に入ったらしく、よく店に遊びに来た。
「女王陛下があなたのことを話していたの」
そう言われて、女王とこの女は少し似ているな、と思った。
私生活になると頑固だし、子どもっぽい顔をする。きっと二人は気が合うのだろう。
そのままそれを口に出すと、ジナは当然のように頷く。宮殿へも、よく遊びに行くのだそうだ。
女王が稀に開く茶会や、王家主催の夜会にも必ず出席するという。邸娼婦の中でも、それらに招待されるのはよほど高い位になければならない。
この女が本当に、国一番の娼婦であることを改めて思い知らされた気分だった。
「陛下が、たまにはあなたにも、顔を見せに来てほしいと言っていたわ。あなたの着飾った姿が見てみたいのに、夜会に呼んでも茶会に呼んでも来ないし、いざ来たと思っても普段着と変わらないものだから、もうどうしていいのかわからないわ、とも」
「そんなの、時間の無駄だよ。あいつがそんなことを望んでるんなら、なおさら今後は行かないことにするわ」
「ああ、そんな、わたしが怒られちゃうわ。ごめんなさい、聞かなかったことにして」
でも、とジナは続ける。
「無限に時間があって、無駄に消費してるあなたがそんな冗談を言うなんて、本当に愉快な人ね」
「……おまえが言うと、殺意すら沸いてこないのはなんでだろうね。おまえには、魔法も呪いもないのに。ただの人間のくせに生意気よね」
「褒められてるのかしら、それ」
真顔でそんな風に返すジナの方が、リフェンナにとっては愉快な人間だった。
最初、リフェンナは、ジナの人気は魔法だか呪いだかによって支えられていると予想していた。そうでなければ娼婦でありながら体を使わないなんてこの国では考えられないし、娼婦とも名乗らなかっただろう。
一度も抱かれたことがない、というわけではないと彼女は言った。だから自分は娼婦なのだと。
邸娼婦はその教養を認められ、話し相手や社交場でのパートナーとして重宝され、それゆえの地位だが、体を売るから娼婦なのだ。
誰にも手を出されない娼婦は娼婦ではない、それはまた違う職業だ、とジナは語る。
それでも、話し相手としてのジナを求めて彼女を買う客がほとんどなのは事実だ。
女王が彼女の邸に通っているのが最たる例である。
悪評のひとつもなく、それでいて雲に近い場所にいる。
そんなマリアジナカトジナが、ただ実力だけで上り詰めるはずがない。
けれど、初めて会ったあの日、リフェンナはジナから魔法も呪いも見つけられなかった。
そしてマトラドもこう言った。「ジナには、呪いはない。傍に置いておくなら結婚した方が早いんだ」と。
なるほどな、と思った。
マトラドの考えそうなことだ。リビラは呪いを持つ者ばかりが揃っていて、居場所のない人間しか仲間として認められないことになっている。
ジナは呪いも持たず、居場所もあった。どれだけ仲間たちがリビラとして認めたとしても、リーダーという立場上、入れてはならないと考えているのだろう。
マトラドは真面目すぎて、リビラなんていう犯罪組織に規律を求めすぎている。それでうまくいっているところを見ると、なんとかバランスよくやっているのだと感心はするが。
ジナは徐々に取る客を減らしていった。
それは、マトラドが彼女の傍に行けないから、彼女がマトラドの傍に行くための準備だった。
聞けば、ジナの母も邸娼婦だったという。
ジナの出生はほとんど公開されていなかったため、初めて聞いたときはリフェンナも驚いた。
どんなに人気の高い邸娼婦も、その地位を維持し続けるのは難しい。
ジナの母親も一時は爆発的な人気を誇っていたようだが、最後は落ちぶれてひとり寂しくジナを産み落としたのだという。
自らの夢を託し、娘に『マリアジナカトジナ』なんて大層な名前をつけて、ため込んでいた金をふんだんに使い蝶よ花よと育て、邸娼婦へと押し上げた。
生まれつき運がよく、また美貌に美声まで持って生まれたジナは、最初から決められていたように国一番の娼婦になった。
もちろん、その裏には彼女自身の努力がある。けれど母親の執念なくしてここにはいないだろう。
一度、訊いてみたことがある。
せっかくの地位を手放して、底辺に下りて、いつか後悔する未来はないのか、と。
ジナはとても綺麗に笑って言った。
「ないわ。絶対によ」
「ずいぶんな自信だね」
「自分の選択には責任を持ちたいもの。後悔は絶対にしないって、ずっと昔から決めてるのよ。それこそ、娼婦になる前から」
「へえ、いいわね。私、そういう人間は好きよ」
綺麗な笑顔が眩しく感じた。同時に、少しだけ暗い気持ちになった。
リフェンナも、同じように決めて、魔女になった。
絶対に後悔しない、この選択を誰のせいにもしないと決意して、誓って、そして不死になった。今でも後悔は欠片もしていない。
それでも、自分とジナとの間には、大きな違いがあるように感じた。
ジナの方が立派だ、と思ってしまった。劣等感なのか、他の何かなのかはわからないが、とにかく隔たりがあると感じた。
けれど、嫌ではなかった。
この女には一生勝てないだろうな、と負けを認めることが、どうしてか心地よかった。
彼女はきっと、リフェンナがこんな風に感じていることを素直に口にしても、謝りもしなければ謙遜もしないだろう。ありがとう、と、当たり前のように返すのだろう。
短い関わりの中でも、リフェンナは、ジナはそういう女だと解釈していた。
気がつけばリフェンナはジナの魅力に取りつかれていたし、ジナのことを好ましく思うようになっていた。
ジナはとても素直だ。笑みを絶やさず、こちらが望む言葉を差し出し、それでいて決して八方美人ではない。
付き合っていて、気を遣わずにいても許してくれる、そんな女だった。人気があるのも頷ける。
だからこそ、リフェンナはあのとき、こう思ったのだ。
あんなに愛されていたのに、どうして消える必要があるのだろう、と。




