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 リフェンナは静かに揺られていた。


 ゆるく、やわく、とてもなめらかな気持ちだった。喜びも悲しみもない、ただなめらかな心で、リフェンナは男を受け入れる。

 それなのに、満たされない。襲い来る波を何度もやり過ごしながら、自分の肺に冷たい空気が満ちているのを自嘲する。


 言葉も、声さえも、リフェンナと男の間には必要ない。

 ただこれは男のために女が身を捧げているだけのこと。すべてはリフェンナの自己満足で、一方的であり身勝手な献身だった。


 それでもかつては幸せだった。

 リフェンナは男のことを愛しているし、哀れんでもいた。長い長いリフェンナの生の一部くらい、この男に捧げてやろうと思った。そう思って、縺れた関係を持ちかけた。


 変わってしまったのはいつからだろう。

 男はひとつも変わらない。けれどリフェンナは、変わってしまった。悲しいほどに。


 強い波がリフェンナを襲う。

 肺の中の空気をすべて吐き出す。少しだけ苦しかった。


 いっそこのまま死んでしまえたらいいのに。


 揺られながら思う。

 もう、潮時だ。夢を手放し、愛を選び、待つのも悪くないと信じさせるほど強い感情だったけれど、リフェンナは盲目のままではいられなかった。

 いつまでも待つことは、できない。


 背中に水が一滴落ちる。

 熱くなった体には、ぬるいそれも氷を押し当てられたようだった。リフェンナは驚くのと同時に、うっかり波にさらわれてしまう。


 この男は誰を想って泣くのだろう。男の顔が見たかった。

 しかし、リフェンナは枕に顔を押し付けて、ぎゅっと目を瞑った。


 相手が誰かはわかりきっている。


 こんなにいい男を捨ててどこかへ消えてしまったあの女がうらやましくてたまらない。見つけたら殺してやろう。

 そっとあの美しい女を呪って、けれど彼女が帰ってくることを願う。


 彼女が帰ってきて、この男が幸せになれるなら、自分の想いは永遠に報われなくて構わない。


 リフェンナは本気で、そう思っていた。







 リフェンナの一週間の活動は、基本的に以下の通りだ。

 三日は何もせず、一日は国からの依頼をこなし、二日は弟子の指導をし、残りの一日はリビラに顔を出す。

 週の何日目に何をする、というのは決めていないのだが、だいたいそういう風に日々を過ごしている。


 その日は気が向いたのでリビラの頼みを聞いてやることにした。弟子に店番を任せて、手ぶらで外に出る。正午を少し過ぎた頃だった。


 リビラの溜まり場は、貧民街の迷路のような路地を奥へ進み、突き当たったところにある廃屋の玄関に入り、裏の扉から出てすぐ右に曲がり、頑丈そうなのに誰も住んでいない三階建ての建物の一階の左端の部屋に入り、玄関の向かいにある窓から外へ出たところにある。

 密集した建物の窓のない壁で四方を囲まれた、それなりの広さのある場所だ。


 普通の人間が迷い込むことはほとんどない。

 実際にこれまで、リビラの誰かに導かれた者以外には、たった一人しか辿り着けなかった。その奇跡的な侵入者も、溜まり場の仲間である女の後をつけてきた結果、辿り着いてしまっただけだから、条件を緩めればカウントしなくてもいいだろう。


 そんな風に、この溜まり場が誰にも見つからないのは、リフェンナの魔法のおかげだ。


 溜まり場にはまだ誰もいなかった。

 一人を除いては。


「早いな、リフェンナ」

「おまえに言われたくはないね。こんなゴミ溜まりみたいなところに寝泊まりするなんて」

「はは、言ってくれるな」


 マトラドは軽く笑い、リフェンナを歓迎した。二人の間で交わされる軽口は、もはや恒例であり、挨拶でもあった。


 マトラドはリビラの現リーダーである。そしてリビラとは、この溜まり場に集まる仲間、マトラドが率いる組織のことだ。

 まともな道では生きていけない者たちが集まった、主に悪事を働いて金を稼いでいる組織である。


 表向きには。


 二言三言交わして、リフェンナは溜まり場の端をゆっくり歩いて回った。

 ぐるりと一周し、かけた魔法が解けていないか、穴は空いていないか、丁寧に確認した。この溜まり場が見つかってしまうと、リビラの仲間たちのほとんどが危うくなる。仲間たちは多くの人間から恨みを買うようなことばかりしているし、生死に関わる重要な問題だ。


 昔は特に溜まり場を隠すための魔法なんて掛けなかった。

 五年ほど前にちょっとした事件があり、それをきっかけに、マトラドがリフェンナに魔法を使ってくれないかと頼んできたことから、こうして定期的に点検に来ている。


 一般人から見ればどうということもない。何もないところをリフェンナがじっと見つめているだけにしか見えないだろう。リフェンナの目には、しっかりと魔法が見えているのに。


 異常がないことを確認し、マトラドに報告する。いつものように彼はコインを一枚投げてよこした。


「いらないって言ってるのに」

「だから減らしてるだろう」

「はいはい。おまえの気持ちが軽くなるなら、今回もありがたく受け取るわ」


 コインをポケットに入れ、他に何かやることがないか尋ねる。

 特にはない、と言われてしまい、この日の予定がすべてなくなってしまった。手持ち無沙汰になったリフェンナは、マトラドが座る隣に腰かける。


 ただ何もしない時間が流れた。貴重であるはずの時間を無駄にすることは、リフェンナにとっては慣れたものだが、マトラドにとっては大損であるはずだ。

 彼はリビラのリーダーとしてやるべきことがたくさんあるし、それ以外にも仕事がある。常にこの溜まり場にいる印象の強いマトラドではあるが、そうではなく、仲間が訪れるタイミングでここに来ることを、長い付き合いの中でリフェンナはよく知っていた。


 それでも、二人で静かに、何をするでもなく座っているだけの穏やかな時間は、リフェンナの心をなんとなく満たすのには充分だった。こうして隣にいられることがまるで奇跡のようにすら思えた。

 ひとでなしのリフェンナが、この男の隣で、この男の呼吸を感じることが許されている。それが、とても尊いことに思えたのだ。


 煙草をふかすマトラドの横顔を、ずいぶんと大きくなってしまったのだな、と少し寂しくなりながらちらりと盗み見る。

 出会ったばかりの頃は、マトラドはまだほんの子どもだったのに。変わっていく人々と、変わらない自分を見比べて、らしくなく落ち込んでしまうことが増えた。以前は何も感じなかったのに、マトラドとの関わりは、リフェンナを確実に弱くしている。


 ふと、耳鳴りがした。太い針を耳に刺されているような気さえしてくるその痛みに、思わず、ぐ、と声を漏らしてしまう。


 いけない。隣にマトラドがいるのに。


 こっそり深い呼吸を繰り返し、痛みを逃がそうと試みる。額に嫌な汗が。寒くてたまらなくなる。

 まだ、冬は遠いのに。


「どうかしたのか」


 リフェンナの異変に気づいたマトラドが顔を覗きこんでくる。見ないで、気づかないで、そんなリフェンナの願いは届かない。声を出すこともできないほどの痛みだった。


 これはただの耳鳴りではない、とはとっくに気づいている。

 そもそも、リフェンナは、体だけは丈夫なのだ。ひとでなしは病とは無縁のところに存在する。怪我をすることはあれど、風邪ひとつひかなくなる。それが文字通りの「ひとでなし」になるということ。

 四百年も前にその道を選んだリフェンナも、あれからずっと病というものに侵されたことはない。


 ならばこの痛みはどこから来きたのか。それは言うまでもなく、リフェンナがただの人間に戻ろうとしている、その証明でしかない。このところそんなことが増え、リフェンナは悩んでいた。

 発作的に何かしらの痛みに襲われ、しばらくすると治まるため、それを待つ。治るまでの時間はその都度ばらつきがある。

 早く治れ。繰り返し心の中で自分に言い聞かせても、なかなか治まってはくれなかった。


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