表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄道奇譚  作者: 橘 塔子
3/5

運転士Mさんの話

 今年の六月に念願の動力車操縦者運転免許を取って、念願の運転士になりました。

 見習い期間が終わって、先月からようやく単独運転ができるようになりました。なので、所属の乗務区ではいちばんのしんまいです。


 お客様の命を預かるわけですから、そりゃ緊張しますが、やりがいのある仕事ですよ。僕は小さい頃から大の電車好きだったもので、夢が叶いました。毎日楽しく運転をしています。

 ちょっとお腹が弱いので、業務中にトイレに行きたくなったらどうしようかと、それだけが悩みですね……。


 駅員の頃と違ってお客様と直接触れ合う機会はあまりないのですが、発車の際にホームからお子さんが手を振ってくれたりすると本当に嬉しいです。マスコンから手を離せないので、視線でありがとうと伝えるようにしています。


 お子さんといえば、先頭車両に乗った小さなお子さんが、窓越しに運転席を覗き込んでくるのは何だかくすぐったいものですね。

 ええ、運転していても気配を感じるんですよ。地下区間に入ったらフロントガラスに映りますし。あれ、気が散って嫌だという先輩もいますが、僕は誇らしい気持ちです。

 ああいう子たちが電車好きになって、運転士という職業に興味を持ってくれたら嬉しいじゃないですか。


 あ、大人でも時々いますけどね、操縦をガン見してくる人。

 一回だけ、酔っ払いらしきオジサンに窓をバンバン叩かれたのは、あれは参りました。すぐに指令センターに通報して、次の停車駅で待ち構えていた駅員が強制降車させましたよ。その対応で三分も遅延させてしまいました。


 あと迷惑だったのはあれかな……迷惑というか、腹立たしいというか。


 今の乗務区にはY駅という地下駅があります。ベッドタウンのど真ん中で乗降客数は多いものの、朝と夜のラッシュ時間帯以外は閑散としています。ですから昼間はほとんど乗り降りがありません。

 そのY駅ね、ご存じかもしれませんが、とても人身事故が多いんです。

 故意の……自殺ですね。


 いや、正確には()()()()んだそうです。通過する快速に飛び込む人が、毎年必ず二、三人はいたのだとか。

 ええ、Y駅に快速が止まるようになって状況が変わりました。昨年のダイヤ改正以来、人身事故は一件も起きていません。

 まあ、そのぶん他社線の駅で増えているのかもしれませんが……運転士としてはほっとしています。


 ですので、この駅で人を撥ねてしまったという先輩が何人もいます。メンタルを病んで異動したり退職した人もいるのですが、ほとんどの先輩は運転士の仕事を続けています。

 悔しい、と思うのだそうです。亡くなった方は本当に気の毒だし、他人に分からない事情もあったのでしょうけれど、自分が真面目に勤務している『職場』をそんな目的に使われて、とにかく悔しいと。だから逃げたくないと――僕にもその気持ちは分かります。大好きな電車を自殺の道具には使ってほしくありません。


 ああ、話が逸れました。

 うちの乗務区には、そのY駅を発着する時の注意事項があるんですよ。上下線とも、最終列車に乗務する時に限るんですが。


 それは、運転席の背後の窓のロールカーテンを下ろしておく、というものです。

 そう、さっき話した客席との仕切りの窓です。

 ひとつ手前の駅に停車した際に、あらかじめロールカーテンを下ろして目隠しをしておくんです。次の駅に着くまで絶対に開けちゃいけないと、厳しく指導されました。


 社内規則には書かれていないルールでしたが、僕は何となくその理由が想像できました。だから先輩の言いつけを守って、終電に乗るときはいちいちカーテンを下ろしていました。


 でも一度だけ、それを忘れてしまったことがあるんですよ。

 その夜はちょっとお腹の調子が悪くて、気が焦っていたせいかもしれません。


 カーテンを閉め忘れたことに気づいたのは、次のカーブの先にY駅のホームが見え始めるくらいのタイミングでした。

 振り返ってカーテンを引っ張るわけにもいきません。僕は気になりつつもそのまま操縦を続けました。


 そろそろとマスコンを押し出してブレーキを掛け始めた時です。

 ふと、背後に気配を感じました。誰かに見られているような、居心地の悪い感じです。

 いつものようにお子さんが眺めているのではないと、すぐに分かりました。こんな夜更けに小さな子供が乗っているわけがないし、その気配は何とも言えず不快なものだったからです。背中をうすーくカンナで削られるような。


 それは紛れもない悪意でした。

 背後にいる誰かが、窓越しに負の感情を込めた視線をぶつけてきているのです。


 僕は手元と前方に意識を集中させました。今は安全に停車させることだけを考えろと――。

 しかし、前方を見詰めていたのが災いしました。地下の闇に塗り込められたフロントガラスに、背後に立つそれの顔が映ったのです。


 それ、ではなく、()()()の。


 人間の顔には間違いありませんでした。しかしおおよそ個性というもののないマネキンみたいな面貌が、背後の窓に貼り付いてこちらを覗いていたのです――いくつもいくつも。

 首や肩はなく、ただ同じような顔が長方形の窓を埋め尽くしている様子が、フロントガラスに映っていました。


 その顔たちは、揃って目を剥き、鼻の穴を膨らませ、盛んに口をパクパクさせていました。

 見ちゃいけないと分かってはいても、目を逸らすことはできません。何せ、彼らを映したフロントガラスの向こうには線路と駅があるのですから。


 撥ねろ、と喚いているようでした。

 止まるな! 撥ねろ! やっちまえ!


 運転台からブレーキ操作を促すアラームが鳴りました。その音を聞いているはずなのに、僕の耳は無音の声だけを意識していました。


 ()()()()をこっちによこせ――と。


 我に返った時、体が前のめりになっていました。

 列車が急激に減速したのです。背後から声にならない悲鳴が聞こえたのは、奴らもまた慣性の法則に従って窓に押しつけられていたのかもしれません。


 何のことはない、速度超過を察知した自動列車停止装置(ATS)が非常ブレーキをかけたのです。

 結局、所定の停止位置を五メートルほどオーバーランして停車しました。


「どうした、M! 大丈夫か!?」


 最後尾の車掌室から連絡が入った時、帽子の中から冷たい汗がどっと溢れました。


 恐る恐る背後を振り返ると、そこにはあの顔たちはなく、まばらなお客さんたちがきょろきょろしているのが見えました。今の急ブレーキで居眠りから覚めたのでしょう。

 運転席の窓から顔を出して目視しましたが、ホーム上にも異常はなくて、僕は胸を撫で下ろしました。


 乗務後、僕は上司にこっぴどく叱られ、始末書を出す羽目になりました。

 ただ、過走を起こした理由としては「運転室ロールカーテン閉め忘れのため」の一文で許されたので、社内的には認知された事象なのかもしれません。


 あの顔の群れの正体については、あえて考えないようにしています。新人は一回はやらかすんだ、と僕をからかった先輩たちも、憶測や予想は口にしません。

 あれが何であろうと、僕たちは毎日そこを走らなければならないのですから。


 でもね、彼らが何であれ、今は大した悪さはできないと思うんです。現に、僕はブレーキをかけ遅れましたが電車は止まったでしょ。

 たとえ運転士がマスコンを握ったまま急死したって、ちゃんと非常停止する仕組みがあるんですよ、現代の車両は。だから、彼らにできるのはせいぜい運転士をビビらせることくらい。

 日々進歩する輸送システムが、あんなものに負けるわけがありません。


 とはいえ、また始末書を書かされるのはごめんです。

 あれ以来僕はちょっとだけ用心深くなり、最終列車に乗務する際は、最初からカーテンを下ろすようになりました。今度、これをマニュアル化することを上司に提案するつもりです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ