カウンターにて
就職先を間違えた――カウンターから身を乗り出して喚き散らす中年男を眺めながら、俺は何度目かの後悔を意識した。
きちんとした身なりの、中間管理職以上のサラリーマンと思われる男は、唾を飛ばしながら抗議している。
定期券外ルートの乗り換えに乗り越し料金が掛かり、自動改札に止められたことがよっぽど頭にきたらしい。ICカードにあと二百円ほどチャージ金額が残っていれば、清算に気づかずに出札していたかもしれないのに。
乗る駅と降りる駅が同じなのに何で金が掛かるんだ、JRの窓口ではそんな案内はされなかった、と同じ主張を繰り返す相手に、俺もまた、乗り換え改札を通ったでしょう、JRさんがどう案内したかまではうちでは分かりかねますと同じ答えを返すしかなかった。もう十分もこのやり取りを続けている。
春にこの私鉄に入社して、新人研修の後、駅員として配属されたのが六月あたま。それからわずか二ヶ月ちょっとの間に、俺の意欲や希望は萎れてしまっていた。
俺はいわゆる鉄オタではない。人と接するのは好きだったのでサービス業系の専門学校に進み、鉄道業界に興味を持った。業種として安定しているという理由もあるが、老若男女様々な客がやってくるところが面白そうだと思ったのだ。これだけ客層が幅広いサービス業は、他にない。
しかし、その間口の広さは厳しい現実に直結していた。
駅員の仕事が幅広いことは承知していた。ホームでの安全確認はもちろん、窓口での旅客対応、券売機の集金、集計、定期券や特殊きっぷの発行、構内の清掃や見回りまで、外から見えている以上に多岐に渡る。一昼夜交代制の勤務シフトにも、ようやく体が慣れてきたばかりだ。
業務が多忙なのはいい。が、旅客からのクレーム対応でこんなに神経を削られるとは思わなかった。
もちろんこちらに非があれば誠心誠意謝罪するしかないのだが、どう考えても理不尽な言いがかりが多いのだ。
二百円の乗り越し精算を払いたくないと食い下がるこの男の前は、定期券の払い戻しの日割計算に異議を申し立ててきた若い女だった。その前は、女性専用車両の運用に抗議する胡散臭い団体の代表、そのまた前は、その女性専用車両を増設すべきと物凄い剣幕で訴える女――新人の俺ではとても対応できず、先輩に頼るしかなかった。
世の中にはこんなに大勢おかしな人間がいるのかと、俺はうんざりした。
「分かったよ! 払えばいいんだろ払えば! こんな小銭のために客を引き留めて、おまえらほんとに馬鹿ばっかだな!」
その客はそう捨てゼリフを吐いて、百円硬貨を二枚、カウンターに投げ捨てた。勢いよく撥ねてカウンターの内側に落ちた硬貨を拾おうとしたら、
「ちっ……ザコが」
その小声の罵倒が、強張っていた俺の神経をパリンと砕いた気がした。
ザコはどっちだこのクソ野郎――足先から頭に熱いものが逆流してきて、俺はそう叫びかけた。
「……大隅」
名前を呼ばれなければ、カウンターを飛び越えてその客に掴みかかっていたかもしれない。
噴き出しかけた怒りをぎりぎりで飲み込んで、振り向く。
制帽の下で苦笑している顔をよく見知っているはずなのに、頭に血が上ったせいか一瞬思い出せなかった。
笹川さんだ。新人の俺の指導員を務めてくれている、四年上の先輩。
客はさっさとカウンターを離れ、改札の外に出て行く。その後ろ姿に、笹川さんは愛想よく、ご利用ありがとうございましたと頭を下げた。
「お疲れー。何とかうまくこなせたじゃないか、大隅」
からかうように労られ、俺は大きく息を吐いた。
「ひどいじゃないスか。早く助けに来て下さいよ」
「あのお客さんがあと三分ゴネたら、出て行こうと思ってた」
笹川さんは事もなげに言った。
ほんとかよ、と疑ったが、彼が声をかけてくれなければ俺は客にキレていただろう。改めて空恐ろしくなり、同時に情けなくなった。
そんな俺の心情に気づいているのかいないのか、笹川さんはいつものように飄々とした風情だ。紺色のベストと青いストライプのシャツ、赤いネクタイという制服は同じでも、やはり俺なんかにはない余裕がある。きっとイチャモンをつけてくる相手に対しても、トーンを変えずに接することができるのだろう。
俺はますますいたたまれない気分になった。
「あー、俺もうやだ! 客に話しかけられるのが怖くなりそうです。何でこんな悪意の客しか来ないんだろう」
「そりゃあな、今はたいていのことが自動でできるだろ。ICにチャージするのも、きっぷや定期買うのも。普通のお客さんは駅員に話しかける機会なんてないんだ。話しかけてくるのは、怒ってる人か、困ってる人」
身も蓋もないこと言われて、俺はがっくり項垂れた。笹川さんが少し乱暴に肩を叩く。
「あんな程度で凹んでたら身が持たないぞ。この業界にはもっとヤバイ話が山ほどあるからな」
「ヤバイって……酔っ払いとかですか?」
「煙草がてら話してやるよ――笹川と大隅、休憩入りまーす」
彼は制帽を取って、奥の事務所に声をかけた。