8話
生まれて初めて、ゼンが怖いと思った。
パトリックの言っていた話はどういうことなんだろう。まさか父様の指令で私には内密に動いていたんだろうか。聞いてみたいけれど、ゼンは一言も口を開かない。
部屋に戻るまでお互いに無言だった。私たちにとって無言なのは日常的で何も問題ないはずなのに、今に限っては不自然な気がしてならない。パトリックの話の一部はゼンも聞いていたはずだし、あの時にゼンが彼を睨んだのを考えても私が縁談のことを知ってしまったのはゼンだってわかっているはず。
聞いてみたいな。でも答えてくれるだろうか。
私の知らないゼン。パトリックの話が本当なら、ゼンは私の婚約者に縁談を持ち掛けて破談に追い込んでいながら私には何一つ教えてはくれなかった。それは私に知られたくないから内密にしていたわけで、彼はこの期に及んでも黙って何も言ってくれない。
とても話しかけられるような雰囲気ではなかった。部屋に戻って侍女たちが私のドレスを脱がせ髪を解いてもゼンは無言で遠くを見つめるばかり。こっちをちっとも見ようとしない。
「姫様、何かお飲み物を召し上がられますか?」
「・・・結構よ」
「浴室にお湯を張っておりますので。何かあればお呼びください」
それでは失礼します、と侍女たちは頭を下げて部屋から出て行く。最後の一人が扉から出たところで、廊下側からフィズが扉を閉めて部屋にはゼンとの二人きりになってしまった。
想像もしたことなかった、ゼンの沈黙がこんなに恐ろしいと感じるなんて。
「あ、あのね、ゼン」
やっと振り絞って出てきた声。さっきのパトリックの話はどういうことなの、とただそれだけを言えばいいのに、ただ口は意味もなく開いては閉じを繰り返す。
言ってしまったらゼンはどうなるんだろう。私もパトリックのように睨まれたらどうしよう。もしも嫌われたりしたら立ち直れる気がしない。
自惚れていた。ゼンはいつも私の味方で何より私を大切にしてくれているんだと思ってた。隠し事なんてされたこともないし、何があっても離れることはないって思ってた。
てっきり私は、ゼンの全てを知っているんだと・・・。
「び、びっくりしたわね。まさかパトリックが化粧室の中まで入ってくるなんて」
正確には待ち伏せしていたのか。入り口はゼンとフィズが見張っていたんだから。
訊きたかったこととは違うけど、今の私はパトリックの話題だけで精いっぱいだった。
もしかしたらゼンから話し始めてくれるかもしれないなんて淡い期待を抱く。私の知っているゼンならば、「ごめん、実は陛下の命令で・・・」って苦笑しながら答えてくれるでしょう?
「・・・もう、休んだ方がいい」
「えっ・・・」
それは明らかに拒絶の言葉。これ以上は踏み込むな、とゼンの態度が物語っている。
どうしよう。また頭が真っ白になってしまった。
「そう。じゃあ、休むわね」
そう言うしかないじゃない。もう、どうしたらいいのかわからない。
立ち尽くして俯いていると、ずっと動かなかったゼンの足がこちらまで近づき、私の目の前で片膝を着く。顔を上げると確かにゼンの瞳はしっかりと私の顔を見つめていた。視線が熱くて身体が燃え上がってしまいそう。
「レイラ、俺は陛下にご報告があるから夜明けと共に一足早くドローシアに帰る」
「・・・用って?」
「護衛はフィズに任せる。気を付けて帰ってくれな。後、酒は飲み過ぎないように」
「う、うん、わかった」
なぜ急に業務連絡?と不思議に思っていると、右手をそっと握られて身体がビクリと震える。ゼンの大きな手の感触に心臓がバクバク鳴り響き、混乱のあまり動くこともできずされるがまま。一体これはどういう状況なの。
ゼンはただ私の手を握って大きく息を吐き出した。
「・・・先に、帰るからな」
「それは、さっき聞いたけど・・・」
「どうか気を付けて」
それもさっき同じことを言ったじゃない。何よ、刺客にでも狙われているとでもいうの。
ゼンはスッと私の手を開放して立ち上がると後は何も言わずにあっさりと部屋から出て行った。わけがわからずポケーッと突っ立って居ること数十秒、ゼンに握られていた手の温もりがまだ残っていることに気付いて顔がかっと熱くなる。
変なの。ずっと一緒に居るはずなのに、ゼンがすごく遠い存在になってしまったように感じる。それが寂しくて不安で堪らない。
やっぱり私は、怖いけど知りたいのよ。ゼンは何を考えているの。教えてほしい、私の知らないゼンも。
「いい加減諦めろよ。一緒に城に帰ろう」
片膝をついて下から私の顔色を覗き込んでくるゼンは困ったように眉尻を下げて言う。
「・・・やだ」
「レイラ、これ以上は身体に触る」
「勝手に入ってこないでよ。ここは私とオリヴァーの家なのよ」
「もう違うだろ。出てったんだから」
「・・・帰ってくるかもしれないじゃない」
たった一枚の紙切れを残して去って行った恋人。“僕は君には相応しくない”そんな文言のみを残して彼はどこかへ行ってしまった。あれからもう2週間が経ち、一緒に住んでいた家からオリヴァーの気配がだんだん消えていくのを肌で感じる。
未練がましくこの家に居着くのは、彼が申し訳なさそうな顔をしてフラっと帰ってきそうな気がしてならないから。結婚の約束までしたのに私が王女だからという理由だけで別れるなんて納得できない。しかも、家出だなんて最悪の形で。
「アルコール苦手なのにこんなに飲んで・・・」
ゼンはテーブルの周辺に転がった空き瓶をひとつひとつ拾い集める。
「オリヴァー、帰ってくるかもしれないもん」
「・・・帰って来ないよ。長年住んでいた家を捨てて知り合いにも音沙汰なく消えるというのは、もう二度と帰らないという覚悟を決めたってことだ。もう帰ろう」
「嫌よ。結婚するって約束したんだから」
「レイラ」
出て行くならなんで私も連れて行ってくれなかったの。私が一緒に行っては駄目だった?
「王女なんかに生まれなかったら良かったのかな」
そうしたら彼と一緒に居られたかもしれない。王女であることは婚約するまで秘密にしてたけど、身分が違うからって理由で彼に捨てられるなんて考えたこともなかった。
絶対に泣くもんかと思っていたのにアルコールの所為か目頭がじわりと熱くなる。
「レイラはレイラだろ」
テーブルに突っ伏して顔を隠した私の頭をゼンの大きな手が撫でた。
「レイラはレイラでいいんだよ。王女で我儘でお転婆でじゃじゃ馬で、それがレイラだろ」
「そうよ。美人で才能があってお上品で・・・」
「ははっ、調子出て来たな」
よしよし、と髪がぼさぼさになるくらい激しく手が上下した。耳に心地良いゼンの笑い声はいつの間にか私の頭の真上から聞こえてくる。
「心配すんなって。レイラは、ちゃんとレイラの全部を受け入れてくれる人と結婚できるよ」
「そんなの信じられない」
「んじゃあ俺を信じときな。幼馴染の俺が断言してやるんだから間違いないって」
何を根拠に、と思いつつも自信満々な口調に小さな笑みが漏れる。
「ちゃんとレイラが結婚して幸せになるまで見届けるから、碌に説明もせず家出した男なんて忘れろよ」
「・・・結婚、できるかなあ」
父様たちみたいに、私もなれる?
「当たり前だろ。そうじゃなくちゃ俺が困る」
ぎゅうっと痛いくらいに抱きしめられて目を閉じる。
「この世でレイラが一番―――」
ジャッ!とカーテンが勢いよく開く音で飛び起きた。陽はもうしっかり高く昇っており、眩しさに顔をしかめる。
ずいぶんと懐かしい夢を見た。オリヴァー、元気かな。彼のことだからどこかでのんびりと平和に暮らしてるんだろうけど。
「おはよございます。もうお昼ですよ」
「フィズなの?ゼンはどこ・・・?」
見慣れた自分の部屋を見て思い出した。そうだ、もうドローシアに帰って来てたんだっけ。私が帰ったのも昨日の深夜だったからゼンとは披露宴の夜から会えないままだ。
ゼンに会うのが怖い。けど傍にいないのは違和感が大きくて、自然に視線が彼の姿を探して彷徨う。
「昼食の用意がもうすぐできますので」
「ねえ、ゼンは?」
フィズは一度目は無視し、二度目の質問でようやく手を止めてこちらを振り向いた。フィズは何も言わず部屋中が静けさに包まれる。
「私からは大変申し上げにくいのですが・・・」
フィズの言い辛そうなその前置きに嫌な予感が走った。
「隠してもいずれ分かると思いますので率直に申し上げます。ゼンは騎士を罷免になりました」
「ひっ・・・」
罷免って・・・。
頭が真っ白になりフィズに詰め寄る。
「なんで!?なんでゼンが・・・。何かあったの!?」
「本人より陛下へ今までの罪の申告がありました。地位乱用、公文書偽造、忠義違反に当たります」
「ちょっと意味が」
わからない。私は頭を抱えた。忠義違反?いつから?何を?パトリックに縁談を持ち掛けたのはもしかして父様からの命令じゃないかと思っていたけどそれも違うの?
「私が知る範囲で具体的に申し上げますと、婚姻の妨害ですね」
「じゃあグレスデンとの縁談はやっぱり・・・」
私がパトリックと婚約破棄をする原因を作ったのはゼンだったのか。にしてもいきなり解雇することなんてないのに、いくらなんでも父様はやり過ぎじゃないのか。
「・・・だけでなく、フランシスの件もオリヴァーの件もです」
「は?フランシスは浮気でオリヴァーは家出よ?ゼンは関係ないわ」
「浮気の件はゼンがその手の女性を用意してフランシスを唆したと、オリヴァーには庶民に王女の相手は務まらないから身を引くように本人を説得したそうで・・・」
フィズの語尾は徐々に力なく、消えるように小さくなっていった。
「うそ・・・」
頼りなくなった私のふらつく足元に、フィズが慌てて私の身体を支えてソファへと促す。
つまり、今まで結婚できなかったのは全部ゼンが原因ってこと?私そんなに彼に恨まれていた?結婚を妨害したいほどに?
私の知っているゼンは一体誰だったの。強くて優しくて頼りになる、私の一番の―――。
グレスデンでパトリックを睨み付けていたときの、ゼンの恐ろしい顔を思い出した。あれこそ私の結婚を妨害してきた私の知らないゼンだったんだ。
「わ、私、知らないうちにゼンに何かしたのかしら・・・何か・・・憎まれるほど酷いことを・・・」
「レイラ王女の知るゼンは貴女を憎んでいるように見えましたか?」
「まさかっ。あんなに素晴らしい騎士は世界中どこを探してもいないわ」
忠実で献身的で、幸せな時も辛い時も全てで私に尽くしていた。そんな彼からは憎しみなんて一ミリも感じたことはない。
「だってあのゼンよ?私が何やらかしても文句も言わないで働いて、私、すごく酷い態度取ったこともあったのに全然嫌な顔しないで・・・。よく笑って・・・」
とてもよく笑う人だったと思う。その笑顔に助けられて、慰められてきた。
フィズは小さく頷いた。
「でしたら、きっとそれが答えでしょう」
「答えって?」
「わかりませんか?私はわかりますよ。納得もしました。だって彼にとって貴女以上に大切なものなどなかったじゃないですか」
大切?だから結婚の邪魔をしたというのは可笑しな話だ。ゼンは私がずっと結婚したがっていたのを知っていたのに。
私はわからない、と首を横に振った。
「きっとゼンは貴女を、愛していたんでしょう」
ぽかん、と口が半開きのまま固まる。
「え、ええ、まあ、幼馴染だから・・・それなりに、愛は・・・あるでしょうけど・・・。だからって妨害なんて・・・」
「普通に考えたらわかるでしょう。フランシスにオリヴァーにパトリック、どれもレイラ王女の相手に相応しいと思いますか。私は全く思いませんね。あんなのに嫁ぐくらいなら独身の方がいくらかマシです」
「ええ・・・」
きっついわ。フィズは私の婚約者たちにそんなこと思ってたのね。
「ゼンの場合はただ貴女をあの者たちにとられたくなかったんじゃないですか?例えそのために騎士としての禁忌を犯し、自分の立場の全てを失ったとしても」
「じゃあ、嫌われてたわけじゃない・・・?」
「むしろ逆ですよ。好きすぎるが故の可愛い嫉妬です。しかも相手があれではね、妨害のひとつでもしたくなるというものです。取り返しがつかない上に罪も重すぎて笑い話にもなりませんがね」
嫉妬か。愛、ね。ああ、だから寝ている時にキスしたの?あれは・・・そういう意味だったのか。フィズが噛み砕いて噛み砕いて説明してようやく理解が追い付いた。ゼンが私のこと・・・好き、なのだと。
身体が一気に炎に包まれたかのように熱を帯びる。
「ねえ!フィズ!どうしよう!顔から火が出そう!」
「!?水っ、水を・・・!」
「ちょ、ちょっと待って・・・眩暈が・・・」
耳鳴りと共に世界がぐわんぐわんと音を立てて回る。全身の血が沸騰しそうなくらい熱くて堪らない。
考えなければならないこともやらなければならないことも山ほどあるというのに、情報が許容量を超えて混乱あまりしばらくその場から動くことができなかった。