89話 退却
鐐さんに疑惑の目を向けられたまま地下室へ急いだ。長くて豪華な廊下を鑫さまと鐐さんは並んで早歩きだ。
僕と鋺さんはその後ろを付いていく。鑫さまの金髪と鐐さんの銀髪が、右へ左へと同じように靡いている。
「姉さまは凄いのよ! 強くて美しくて優しくて賢くて、今の金理王なんか目じゃないわ」
鐐さんはずっとこんな調子だ。時々振り返りながら、鑫さまがいかに素晴らしいかを語ってくれる。
その都度、否定せず相づちを打つ。それに気を良くしたのか、意外にも真名である鐐と呼んで良いと言われた。
顔はあまり似ているとは思わなかったけど、こうやって歩いている姿はそっくりだ。姉妹なんだなぁと感心する。
もしかして美蛇江と隣に並んだら僕もそう思われるのだろうか。……何か嫌だ。
「ねぇ、なんで叔位なのに王館にいるのよ?」
「鐐、止めなさい。水精には水精の事情があるのよ」
悪気はないのだろうけど鐐さんは痛いところをついてくる。話せば長いことになりそうだ。
「ア、鐐さんはお姉さんと仲が良いんですね。羨ましいです」
ちょっと話題をそらしてみた。
「羨ましい? 姉さまは渡さないわよ?」
違う、そういう意味じゃない。
「姉さまは素晴らしい……そう、姉さまは誰よりも理王に相応しいのヨ」
「鐐さん?」
鐐さんの瞳が一瞬ぐらついた。僕を見ているようで見ていない。
「鐐、どっちの地下室?」
鑫さまが途中で足を止めて鐐さんを軽く引っ張る。鐐さんはハッとして鑫さまに向き直る。僕はその隙に鋺さんにこっそり話しかけた。
「鐐さんって元々あんな感じなんですか?」
「そうですね。とにかく姉である釛さまを敬愛してらっしゃいます」
ちょっと暴走気味な感じもする。
「ただ……少々気になることが」
「二人とも来ないの? 姉さまの足手まといになるなら置いてくわよ」
鐐さんに呼ばれて鋺さんは話を切った。何を言いかけたか気になったけど聞けなかった。鑫さまと鐐さんの妹さんを助けるのが先か。
気になるといえば、僕も気になっていることがある。さっきあれほどたくさんいた金精がどこにもいないということだ。
この広い建物のどこかにはいるのだろうけど、ひとりくらいはすれ違ってもいいと思う。
「二人とも下りるわよ」
長い廊下を抜けて少し広い空間に出た。その先のくすんだ黄色の扉の前で鑫さまたちが待っていてくれる。
ドアノブだけが不似合いな程に輝いている。鑫さまはすでにノブに手をかけていた。そこから地下に下りるんだろう。
「姉さま、早く。早く鍇を助けて」
「分かってるわ」
鑫さまは鐐さんに急かされて少し扉を引っ張る。駆け寄ろうと一歩踏み込んだところで鋺さんに止められた。
「息を止めてください」
「え」
「下がって!」
鋺さんが甲高い声で叫びながら強引に僕の腕を引っ張った。鋺さんは僕を掴んだまま後ろに飛び退いたらしい。
荒々しい金属音がして鋺さんが床に転がったのだと分かった。少し遅れて僕にも身体を打ち付けた痛みが襲ってきた。
頭は鋺さんが押さえてくれたみたいで、床にぶつけることはしなかった。ただ何でこんなことになっているのか理解できない。
「鋺さ」
「喋らないで」
大人しく口を閉じる。鋺さんはもう立ち上がって斧を斜めに構えていた。鋺さんの口調が強くなったことでようやく只事ではないと判断できた。遅れて僕も立ち上がる。
「あら、やっぱり金亡者がくるのは計算外だったわ」
立ち上がってようやく分かった。目の前の空間に煙が充満している。
か、火事?
「鐐さま。すでに堕ちましたか」
「精霊聞き悪いこと言わないでちょうだい。銅とは違うわ。精霊としての誇りを失ってはいない」
火事ではない。火の気配は感じない。それなら、この靄は何だ?
「そうよ。一族としての誇りを忘れたのは姉さまよ。あんな混合精なんかと……。 だから思い出させて差し上げるの。私たちの一族がいかに偉大かを!」
「守護鎧壁!」
最近よく聞いた混合精という言葉に反応してしまった。その僕の前に立って鋺さんが斧の刃を支点に、柄を勢い良く回転させる。
目の前が急に暗くなった。うっかり声を出しそうになってぐっと堪える。磨かれた銀色の壁が目前にあって僕の顔を写し出している。天井や両壁まで届き、鐐さんとの間に隔たりが出来た。
「雫さま。逃げます!」
「え?」
また鋺さんに引っ張られる。来た方向へ逆戻りだ。鋺さんは重い鎧を着ているとは思えないほど速い。しかも中身は骨だけなのに。
「逃がさないわ。来なさい、合金達!」
後ろから鐐さんの声が廊下を突き抜けてきた。何故、逃げなくてはいけないのか、まだ良く分かってない。
でも鐐さんに歓迎されてないってことと、捕まったら駄目だということは分かる。
「っ!」
「わ!」
床がドロドロと盛り上がって人型になった。いくつか見覚えのある顔がある。確かさっき閉じ込められていた金精たちだ。
前方を塞がれ、後ろもズルズルと金精が現れる。壁からも天井からも半身を出した状態で僕たちに手を伸ばしてくる。
「ひっ」
後ろの襟を掴まれた。只でさえ喉が苦しい服なのに、締まって声が出ない。手を喉に持っていこうとしても手が動かない。複数の腕に両手を絡めとられている。足もだ。
「雫さま!」
鋺さんが斧をひと振りして助けてくれた。体を反転させると、僕の襟から外れた手はすでに床に落ちていた。見ている内に液状になって床に吸収されていく。
壁から伸びている手は全て再生されていた。この分だと攻撃しても無駄だ。気味が悪い。前からも後ろからも、上からも下からも、じわじわと追い詰められていく。
「えーい」
「ドロドロ嫌ーい」
僕の袖から二匹の金蚊が飛び出してきた。すっかり存在を忘れていた。転んだときに潰していなくて良かった。
金蚊は銀粉を撒きながら飛び回る。周りの金精が若干怯んでいるようにも見える。金蚊の撒く銀粉がキラキラと光っていて、緊急時なのにうっかり見とれてしまいそうだ。
何かを引き裂く音で現実に引き戻される。隣では鋺さんが床を切っていた。王館で入ったような赤い空間が生まれている。
「雫さまこちらへ!」
今度は躊躇なく飛び込んだ。赤いドロドロよりも金精のドロドロの方が断然恐い。追ってくる金精を一気に切り捨てて、鋺さんも飛び込んで来た。
どういう仕組みなのか分からないけど、斧の柄でなぞると裂け目が塞がってきた。完全に閉じる寸前、金蚊が壁に叩きつけられるのが微かに見えた。




