88話 銀の疑念
僕は今、壊した扉の前で金精に囲まれている。状況はとても良くない。
「おい! 誰だお前は。誰の許可で入ってきた?」
「低位の水精がどこから紛れ込んだのやら、卑しいわ」
「おい、金亡者! どういうことだ」
何だか懐かしいと思ってしまうこの感じ。僕の話を聞こうともせず、一方的に悪者扱いされている。こうなると反論しても無駄だ。外に出て待っていた方が良いだろう。
大人しく下がろうとしたところを鋺さんに腕を掴まれた。
「止めなさい! その子は水理王の特使よ。礼を尽くしなさい」
鑫さまが鐐さんの腕をそっと外しながら、やや大きな声で嗜める。まっすぐの廊下は鑫さまの声を響かせるのに一役かっている。
前も思ったけど、僕はいつから特使なのだろう。淼さまからは何も言われていない。
鋺さんが僕の腕を解放する。わざとらしく頭をキシキシ鳴らして、金精の注意を惹き付けた。
「理王の一族たる皆様。この紋章がどなたの物であるか、ご存じでいらっしゃるかと」
そう言って鋺さんは僕の左胸付近に施された模様を手で示した。母上の紋章は背中に刺繍してあるらしいけど、左胸にも紋章があるなんて聞いてない。実際に見ても良く分からなかった。
これは一体誰の紋章だろう。
僕の左胸を見た金精の内、何人かが息を飲んだ。そこから金精同士で囁きあって、次第にざわめきは大きくなっていく。
「うそだろ、あれが? 雑魚の水精だろ?」
「お、おい、やめろ。失礼だぞ」
「だが、叔位だぞ?」
「いや、あの水理王が特使に立てたのだ。あり得るぞ」
何が何やら。決して好意的とは言えない視線が集まっている。
「背中には華龍河、左右には、それぞれ水理王と雨伯の紋章が入ってるわよ。それがどういうことか分かるわよね? ……分かったら丁重にもてなしなさい」
ナニソレ、恐い!
淼さまは、背中に母上の紋章が入っているとしか言わなかった。淼さまのお下がりに更に箔が付いて着ているのが恐くなってきた。
鑫さまの有無を言わさない様子に、皆固まってしまった。何人かは微かに震えているようにも見える。
「こなたの言うことが聞けないの?」
「皆、下がりなさい。私は姉さまと話があるわ」
鐐さんが場を収めてくれた。集まっていた金精は皆、一様に表情をなくして散っていった。
鑫さまよりも鐐さんに従っている気がするのは、普段から管理しているからだろうか。
「とは言ったものの、姉さま。まずは鉄を……鍇を助けたいの。手を貸してください」
「えぇ勿論よ、アル。でもまずは何があったか説明してちょうだい。どうしてこんなところにいたの?」
鑫さまは改めて僕を鐐さんに紹介してくれたので、お互い簡単に挨拶を交わした。鐐さんには罵られることも、出ていけと言われることもなかった。
その代わり、興味を失くしたようにふいっと顔を背けられた。僕だけではなくて、鋺さんのこともそうだ。チラッと見ただけで話しかけることさえしなかった。
でも確かに今はじっくりゆっくり話している場合ではない。
「水銀の汞が乗り込んで来たの」
鑫さまが懸念していた水銀だ。賢者の石と呼ばれる薬……別名、辰砂の元になるらしい。
「鉄は水銀に強いでしょう? だから鍇が奮闘したんだけど、銅が飲み込まれてしまって」
「まさか合金に?」
余るって何が?
鐐さんは涙を溢しながら語り出した。鑫さまが背中を擦りながら先を促している。その様子を見ると何が余っているのか、などとはとても聞けない。
「水銀は多くの金属を飲み込みます。水銀に取り込まれた金属のことを総称して『合金』と呼ぶのです」
鋺さんありがとう。
鋺さんが解説してくれるお陰で何とか話に付いていける。
けれど鐐さんは面白くなかったみたいだ。ハンカチで目元を拭う動きに合わせてこちらを睨んでいる。その視線がとても恐い! 鑫さまは気づいていないみたいだ。
他の金精同様、僕の印象はあまり良くないらしい。外見も重視されるからと、淼さまが衣装を調えてくれたのに……僕自身に何か問題があるのだろうか。
「何とか水銀から銅を取り返そうとしたんだけど、そうしている内にまた変な奴が来て」
「変な奴?」
漠然としていて鑫さまでも分かっていない。それでも鐐さんは話を止めず、次第に早口になっていく。
「『銅が水銀に弱いという理がなければこんなことにはならない』なんて銅を唆して、あの子は魄失になってしまった」
魄失という単語に心臓が跳ねた。もしかして、その魄失は……。
「復活するためには理力が必要だから、普段から金精を苦しめている火精に集めさせよう、なんて言ってどこかの火山へ向かったわ」
貴燈山に違いない! そこで出会った魄失だ。鑫さまが言っていた通りだ。銅で黄金虫なら間違いなく妹だと。鑫さまは眉間に皺を寄せている。きれいな形の眉が歪んで見えた。
「銅を取り戻そうとしたんだけど、私も水銀は苦手だし、鍇も季位の力では敵わなくて、結局地下に埋められてしまったの」
「待って。鍇は地下にいるの?」
鑫さまが鐐さんの肩を掴んで軽く揺すった。
「ええ、恐らく。私たちもすぐに閉じ込められてしまったから、ハッキリとは言えないけど」
それはそうだ。今の今まで閉じ込められていたのだから。
でもそれなら早く助けないと。いったいどれくらいの期間、閉じ込められているのだろう。
「どうしてそれを早く言わないの! 地下に行きましょう」
鑫さまはそう言って僕たちを置いて走り出してしまった。慌てて後を追おうとすると肩に圧力が加わった。それが何かを確認する前にぐるんっと体が反転する。少し遅れて背中に僅かに衝撃が走った。
「ねぇ、貴方。姉さまの何なの?」
鐐さんの顔が目の前にあった。どうやら壁に押し付けられているらしい。これは俗に言う壁ドンという現象だろうか。
「貴方。姉さまの新しい恋人?」
……………………………………は?
「ちょっと! 黙ってないで何か言いなさい!」
「鐐さま。この方は水理王特使の雫さまです。位は叔位ですが、生まれは」
「鋺には聞いてないわ!」
こ、恐いっ!
あと掴まれた肩が痛い。整えられた爪がめり込んでいる。凄い力だ。展開が急すぎて咄嗟に返答できない。
「姉さまったら、全然お帰りにならないと思ったらまた王館で恋人を作ってたのね。なんでこんなちんちくりんを」
ちんちくりん……確かに背は低いけど、初めて言われた。ショックだ。これでも背が伸びたのに。
思いの外ダメージが大きい。落ち込む僕を見て鐐さんが鼻を鳴らした。それに合わせて巻き髪の先が揺れる。
「姉さまは美しさでも理力でも完璧よ! 貴方みたいな雑魚の水精を本気で相手にすると思ったら大間違いだわ」
「ち、違います」
「姉さまにはそう例えば、水理王とか水理王とか水理王が相応し……え?」
一息で捲し立てた割に、例えがひとつしかない。途中で僕の声に気づいてくれた。
「違うの? 姉さまの恋人じゃないの? だって叔位なのに王館勤めなんでしょ? 姉さまが目当てなんじゃないの?」
どうしてそうなるのか。確かに叔位で王館にいるのはおかしいけど、そういう発想になるのは何故だろう。
「僕が鑫さまにお会いしたのは七日か、十日くらい前です。それが初めてです」
気絶していた期間があるのではっきりとは分からない。色々言いたいことはあるけど、誤解をとくにはこれが一番いい方法だろう。肩は掴まれたままだったけど指の力は抜けていた。鋺さんがそっと鐐さんの腕を外してくれた。
「そんな……じゃあなんで」
「ちょっと! なんで皆来ないのっ? 置いてくわよ」
鑫さまが戻ってきた。鋺さんに促されて鐐さんと僕も付いていく。僕と鐐さんの間に鋺さんが入ってくれた。
「あ、じゃあ、もしかして水理王の恋人なの?」
「違います!」
僕の声が廊下を駆け抜けて行った。




