78話 木太子『林』
林?
木の王太子は森さまという名だと……確か、火理王さまがそう言ってた。
ぼーっと考えている間に右手がスッと差し出された。慌てて両手で迎える。木の王太子がわざわざ僕に挨拶してくれるなど信じられない。本来なら僕から挨拶するべきだ。
触れた感じだと理力があまり強くない。いや、勿論僕よりもはるかに強い。でも、さっきすれ違ってきた高位精霊たちの方が強いようにも感じる。抑えているのだろうか。
「木理は執務室か?」
淼さまが話しかけたのをきっかけに手が離れていく。林さまはその手で再び眼鏡を持ち上げた。
「いや、寝室だが体調はそこまで悪くはない」
林さまはそう言いながら指先を揃えた手をスッと前に出して僕たちを促す。淼さまと目線を合わせるために猫背になりながら歩いている。ざっくりまとめた後ろ髪は癖が強いのか、毛束が五つに分かれていた。
王太子というとイメージするのはやっぱり焱さんだ。その焱さんと林さまとはずいぶん雰囲気が違う。鑫さまといい、林さまといい僕の中で王太子のイメージが変わりそうだ。
焱さんは荒っぽいけど根はとても優しい。一方 、林さまはまだお会いしたばかりだけど、感じる理力はほんのりあたたかくてずっと包まれていたい感じだ。ひんやりとした心地よさの淼さまとも少し違う。
「雫くんには感謝してるよ」
突然、林さまが振り向いた。足を止めないままだ。前を見ないで歩いて、ぶつからないか心配だ。
「御上は全快とはいかないが、君のお陰で起きられるようになった」
「いえ、そんな僕は何も」
そんなことを言われても困ってしまう。僕は淼さまに言われるまま水球を作っただけだ。
「御上が君に会いたいと言い出してな。数刻前に赴いたんだが……都合が悪かったな」
それは僕が気絶していたからに違いない。しかも僕が寝ていた安楽椅子に茶器が置いてあったから、それは林さまも知っているはず。
「す、すみません」
「雫が謝ることじゃない」
答えたのは淼さまだ。林さまは僕に少し微笑んでから、振り向くのを止めた。
「相変わらずの贔屓ぶりだ。あの冷酷太子が変われば変わるもんだな」
話の流れから察するに、冷酷太子とは淼さまのことを指しているらしい。淼さまは厳しいときもあるけど普段はとても優しい。冷酷などという言葉は似合わないし、とてもそんな風には思えない。
「さて……御上、失礼いたします。水理王が見えました」
木理王さまの寝室に通された。以前も来たことがある。貴燈山から戻ってすぐに訪れた部屋だ。林さまが控えめなノックをして、返事を待たずに扉を開けた。
見覚えのある部屋の奥に精霊の気配がする。林さまも淼さまも迷うことなくそちらに動き出した。
寝台で上半身を起こして寄りかかっているのは、おそらく木理王さまだ。僕たちが近づくと読みかけの紙束から顔を上げた。赤茶の髪が僅かに揺れる。
「よぐござったなす」
茄子? 茄子は好きだ。煮浸しも野菜炒めも良い。でも淼さまのお気に入りは、油で揚げてちょっと砂糖をかけたものだ。
「調子はどうだ?」
淼さまが木理王さまに話しかけると、林さまはその場を離れた。少し離れたところから、カチャカチャと茶器同士が触れる音が聞こえる。
僕もそっとその場を離れ、林さまが去った方へ向かう。書棚の反対側は低い食器棚になっていたらしく、林さまはすぐに見つかった。ちょうど茶器をいくつか持って立ち上がろうとしているところだった。
「林さま? お茶でしたら僕も手伝います」
「おや、大丈夫だ。でも折角だから頼もうか」
指示された茶葉の缶に手を伸ばして、林さまに付いていく。広い寝室の一角に簡易の厨が備え付けてあった。果物や野菜が山のように積んである。
「御上は長く床についているから、寝室にも水回りを備え付けたんだが、今日は担当の者が不在でな」
木理王さまは数十年前に体調を崩したそうだ。ずっと寝たきりって言うわけではなかったのだけど、ここ数年で床についていることが増えたらしい。
「そんなわけで御上は引退したがっている」
「引退……」
引退と聞いて思い浮かぶのは漣先生だ。理王を引退した孟位だと知ったのは最近だ。小波で余生を送る予定だったと言っていたことがある。
「しかし、引退した理王には次代の育成という大きな仕事が残っているからな。今の御上にはそれも難しい」
王太子だった淼さまを教育したのが先々代理王の漣先生だから……なるほど、引退してもすぐにはゆっくり出来ないのか。病気の木理王さまには辛い仕事だろう。
「最近は特に起き上がれない時間が増えて……先日は本当に危険だった」
君も見た通りと言いながら、林さまは手頃な果物を手に取り、スルスルと剥いていく。拍手をしたくなるほど見事な剥き方だ。
「今は髪色も戻ってしまったが、雫くんの水を一口飲んだだけで若返ってしまったからな」
「あの、林さま、僕のこと呼び捨てにしてもらえませんか」
薄く切った果物を数種類、茶葉と一緒に給茶機に入れた。果物茶にするようだ。今度真似してみよう。
「そうもいかないだろ。御上と麿の恩人だ」
「でも何か変な感じがして、くすぐったいです」
敬称を付けて呼ばれることなどないし、いつも呼び捨てだから、むずむずしてしまう。
「そうか。敬意を込めたつもりだったんだけどな。本人がそう言うならそうするか」
茶器を手渡しながら、改めてよろしくと言われる。ちょっとだけ距離が縮まった気がした。
「あの、林さま。ひとつお聞きしてもいいですか?」
「ん、何だ?」
後で淼さまに聞けば済むことだけど、林さまの話しやすそうな雰囲気につい口が滑ってしまう。
「あの、失礼ですけど、前にここに伺ったときに、火理王さまが木の太子は『森』さまって仰ってたと思うんですけど……」
本当は触れない方が良いかもしれない。林さまは、あぁと一息漏らしながら再び果物を剥き出した。
「確かに麿は『森』だった。あの時はな。でも……そこの皿をとってくれ」
林さまは片手でお皿を受け取りつつ、片手で果物を剥き続けている。見事な技にじっと見入ってしまった。僕も出来るようになりたい。
「御上に麿の理力を三分の一ほど献上した」
「え?」
手元から目を外してしまった。大事なところを見逃したけど、もっと大事なことを聞いた気がする。
「理王と王太子のみに一度だけ許されている方法だ。そのせいで、王太子としての名すら削ることになったけどな」
冠名とは言え、魂に刻まれるからな、と林さまはどこか他人事のように言った。
「雫の水で回復したろ? でも一瞬だけだったんだ。御上の理力を安定させるために先々代水理王の助言に従って、麿の理力を分けた」
先生の助言だったんだ。でも、木理王さまを助けるために木の王太子の理力を削ぐって、どこか少し矛盾している気がする。
「もちろん、御上が滅ぶべき存在なら助けてはならない。これは絶対だ。でもな、御上はまだ寿命ではないんだ」
耳に染み付いている言葉だ。『滅ぶべきものは助けてはいけない』という絶対的な理。
「火理皇上が仰ったように、麿が即位するということも考えたんだ。でもな、他にも色々と問題があってな」
「……それで木理王さまは」
林さまの理力を分けてもらって回復したのだろうか。
「理力は安定しているから大丈夫だ。けど根本的な解決はしていないな」
刃物を片付けながら、林さまが急に黙ってしまった。
「それより、雫。麿もひとつだけ質問をしていいか?」
「はい、もちろんです」
ひそひそ話でもするように林さまの顔が急に近くなった。眼鏡の奥の瞳はとても薄い灰色をしている。
「君は一体、何者だ?」




