閑話 火太子~ 雫との出会い③
焦げ臭いな。
木や紙が燃えている臭いではない。塗料が焼けるような鼻につく臭いだ。
執務室から一階に下りて、気配を辿って角を二回ほど曲がったところで橙色の頭が二つ見えた。自身の理力を抑えて身を潜める。視界に入った壁には焦げた跡があった。
何だ? 水の王館に火でも付ける気か?
いくら水精に恨みがあってもそれは無謀だ。確かに侍従も側近も、それこそ警備すらいないが、あの水理王が管理している以上気づかないはずがない。
第一、火精の品格を貶める行為だ。精霊として最低……と、まだ放火と決まった訳じゃない。判断を急ぎすぎた。気持ちを落ち着かせて少し様子を見る。息を詰めて耳を澄ました。
「そっちがぶつかってきたんだろうが! あぁ!?」
耳を澄ます必要はなかった。廊下に声が反響する。
「す、すみません」
今度は小さすぎるが、聞いたことある声だ。少しだけ顔を出して様子を窺う。
あいつ……。
濡雑巾散乱野郎が壁に背を付けて、二人の火精に追い詰められていた。近くにバケツが転がっている。
「すみませんじゃねぇよ! わざと俺に水ぶちまけやがったろ!」
ははぁ。また掃除中か。さっき正しい掃除の仕方を教えたから、雑巾は敷き詰められてはいなかった。
「謝って済むと思うなよ。この服、仲位の母上が登城に合わせて作ってくださったんだ。価値が分かるか?」
あー……あれか、火理王が言ってた『身内が高位』っていう輩。本人たちは力の強さから判断しておそらく叔位。火理王の声がかかるのを待って王館内をうろついているらしいが、水の王館にまで来ているとは……。
「無駄よ、兄上。こいつ季位だわ。物の価値なんて理解できないわよ」
声の高さからすると、もうひとりは女だ。嘲笑うように空気の漏れる音がする。それにしても俺の義叔父だって言うなら抵抗くらいしろよ。
「対価なんて持ってないわよね」
「どうする? 身体で払ってもらうか?」
あっと思った瞬間にはそいつは俺の方に吹っ飛んできた。その位置だと俺は見えないだろうが一歩下がる。横面を殴られたらしく、僅かに呻く声が聞こえた。
「母上の言った通りだったわね。まさか王館に季位が紛れ込んでるなんて」
「あぁ、父上が水精に消されてから復活の兆しもない。その水精が季位の分際で理王の側近気取りとはな」
あぁ、流没闘争の被害者か。水精に恨みがあると見た。同情はするがこの行為には賛同しない。
起き上がろうとした水精を強引に振り向かせて再び殴る。もう一人が押さえ込んでいたため、吹き飛ぶことはなかった。
「ねぇ、兄上。こいつどうする? 連れ帰っちゃう?」
「そうだな、所詮、季位ひとり。居なくなったところで気づかれないだろ」
いや、気づくだろ。聞いてないのか? 水理王が自ら拾ってきたんだぞ? 変なところだけ情報が伝わってないのか。
おい、だから反撃しろよ、せめて抵抗しろ! ってあいつ気絶してんじゃねぇ?
「その前にちょっとくらい焦がしたっていいよな?」
「あ、やだぁ丸坊主にしちゃう?」
髪を燃やすつもりらしい。水精でも火傷はするし、それで化膿もする。
男の手に理力が集まるのを感じた。水の王館内で火の理術を使おうとしたって大したことは出来ないが……一応、止めに入るか。水精なら火の耐性はあるだろう。しかし、自分の親類になったという奴がこれ以上痛め付けられるのを見ていたくない。
爪先の向きを変えた瞬間、風船の割れるような音がした。漂ってきた僅かな衝撃にも一瞬目を瞑ってしまった。
「え……」
目を開けると想像していなかった光景が飛び込んできた。水精は元の場所からあまり動いていないが、火精二人はそれぞれ少しずつ離れて横たわっていた。弾き飛ばされたようだ。打ち付けられた壁が少し凹んでいた。
「何が……」
「これ結界」
後ろから声がしたので反射的に飛び退いた。なんだ水理王か。俺は理王にも気づかないほど集中して見てたのか?
「本体を預かってるから」
そう言いながら手を捻って小瓶を取り出した。それは帯電しているようにパチパチ音をさせていたが、やがておさまっていった。
「弱い火の攻撃はこれで防げる」
そう言いながら小瓶をどこかにしまった。なるほど結界か。そこまで厳重に守る必要があるのか?
「『冥界之魔鯱』……雫を執務室へ」
突然現れた鯱の背に倒れた水精を乗せた。鯱は水理王の命令に従って宙を泳いでいく。
「あの子は鍵だ。流没闘争終結が掛かっている」
「は? そんなスゲー奴なのか?」
そうは見えない。季位を見下すつもりはないが弱すぎる。水の理力もほとんど感じない。
「いや、火精にも勝てないだろう。本体が少なすぎるからね」
あぁ、さっきの小瓶。チラッと見たが、本当に一滴しかなかった。名は身を体すとはよく言うが、まさに『雫』だ。
「彼は泉だった。恐らく……理力を奪われている」
思ったよりも深刻だ。なるほど、だから保護したのか。水理王の推測が正しければ、理力を奪った奴がいる。本体消滅の寸前まで理力を奪っておいて最後の一滴を奪えなかった。
諦めるはずがない。
「今度こそ終わらせる」
先代水理王の退位と当代の即位によって、中途半端に終わった流没闘争。目の届かない所では未だに燻っているはずだ。
それに水精もそうだが、火精も被害が多い。水理王も火理王も真実と虚偽を見極めるのに無駄な時間を費やし、本格的な解決には乗り出せていない。
水理王の冷たい眼差しには火が灯っているように見えた。
「そういうことなら、俺も協力する」
「そう言ってくれると思って、名前を用意してあるよ」
「は?」
おい待て、コラ。
「理に乗っ取り私は直接教育しない。代わりに色々教えて……ついでに私の目の届かないところでは守って欲しい」
ちょっと、待て! と言う間もなく、下から手が伸びてきてポンッと肩を叩かれた。水理王の命令が実行されて、俺の魂に何かがくっついた。
「……『淡』?」
「あの子は火に弱いから水の仮名が必要だ。取り敢えず、日常生活で必要なことを教えて……その内、理は分かってくるだろうから」
俺、名前が多すぎるだろ。
真名の熀。王太子の冠名である焱。その他に仮名だと? 自分でも混乱するわ!
「頼む。水精と繋がりのある貴方だから出来ることだ」
協力すると言ってしまった手前、断りにくい。それに水理王から何かを頼まれるのも初めてだ。この理王はほとんど何でも一人でこなしてしまうから。
「あ、それとさっきお父上と火理には許可を貰ったから」
おい、待てコラ。外堀を埋めるんじゃねぇ!
喉まで出かかった怒声を強引に飲み込んだ。気絶した火精が僅かに身動いだからだ。こいつらを火理王の元へ……出来れば気づく前に連れていきたい。
俺が動き出す前に水理王が少し顎を上げて、少しだけ考える素振りを見せた。
「ん? あぁ、鯱が執務室に入れないらしい」
まぁ、鯱だからな。
「ドアを開けようとしてドアノブを食いちぎったみたいだ」
まぁ……鯱だからな。
「貴方もそれを処理するんだろう? 私は戻る」
一方的にそう言うと足元から涌き出た水に飲み込まれるように姿を消した。俺の意見なんか聞きやしない。
やれやれ。
火精二人を雑に担ぎ上げる。勿論その前にしっかり火縄で括ってある。火の王館がいつもより遠く感じた。
◇◆◇◆
二日後、溢れかえった火精は追い出され、この事件を口実に火の王館でも門が閉じられた。勿論、二人は真名没収となり、母親は高位精霊から降格された。
少し厳しい気もするが、見せしめる意味もあったのだろう。流没闘争は終わっていないが火の王館では少し余裕が出来た。
事後処理が終わってひと息吐きたいところだが……。再び水の王館にやってきた俺は、すぐに目的の精霊を見つけた。
「よ! やってんな!」
「あ、この前の! この間はありがとうございました!」
あぁ、今日は窓掃除か。でかくて多いから大変だな。
「あのっ、 僕、雫って言います! 貴方は?」
「あぁ、俺はーー」
火の王太子なのに水精のフリ。この日から俺の奇妙な生活が始まった。
このお話で 雫との出会い 火太子編は終わりです。引き続き本編をお楽しみいただけると嬉しいです。




