74話 秘密の扉
「さて、私たちも行こうか」
淼さまが空になった茶器を置いて立ち上がった。伸びをしながら軽く首を回している。コキコキと小さな音が聞こえてきた。私たち『も』ということは僕も行くらしい。
「どちらへ?」
「付いておいで」
僕の質問には答えずに淼さまは歩き始めた。そこまで速いスピードではないけれど、反応が遅れてしまったので慌てて付いていった。
「漣どのからの報告だと魄失に興味を持ったんだって?」
淼さまが先生に呼び出されたと言ってたのは、僕についての報告だったようだ。興味というよりも何者なのか疑問に思っただけだ。実際に魄失に会ってみても、まだよく分からないままだった。
「知らないことを知らないと言える素直な気持ちは大切だ」
方向的にどうやら謁見の間に向かっているようだ。誰か来ているのだろうか。魄失の話とどう関係あるのだろう。
「それを知ろうとすることもね」
正面の重厚な扉ではなく、横にある簡易の入り口から謁見の間に入った。簡易とはいえ細かい装飾がいっぱい施されている。慣れた様子で入る淼さまに続いた。
謁見の間には誰もいなかった。いたとしても僕が同席することは不自然だけど。広い広い空間に豪華な電飾を見ると、美蛇と戦った時のことが鮮明に思い出された。
足を止めてしまった僕は淼さまから少しだけ離れてしまった。淼さまは軽い足取りで玉座に向かっている。そこなら追いかけなくても良いだろう。付いて行ったら、かえって失礼だ。
そう思って低い位置で、出来るだけ淼さまの近くに歩を進めた。それなのに淼さまは玉座の横に立って僕を手招きしていた。
この段差を上るのにはかなり抵抗がある。実際の高さはそこまで高くはないけれど、高さ以上に大きな隔たりを感じている。二階の窓拭きに使う脚立の方が余程低いと思う。
「おいで」
手招きだけでなく声もかかってしまった。自然と足が震える。大した距離ではないのに、淼さまの隣へ着いたときにはすっかり疲れてしまった。
淼さまは黒光りする玉座の後ろに僕を引っ張った。玉座をこの近距離で見たのは初めてだ。背もたれがかなり長い。僕と淼さまが立って目線と同じくらいの高さがあった。
その長い背もたれの後ろ側も当然ながら見るのは初めてだ。黒い椅子に藍玉と水晶で装飾がされている。この装飾は見たことがあった。
「執務室と一緒?」
「正解。よく見てるね」
藍玉と水晶だけではない。装飾の曲がる角度や大小の加減、珠の配置まで、ほとんどが執務室と同じだ。並べて見比べた訳ではないから違うところもあるかもしれないけど、記憶とほぼ一致している。
淼さまが玉座の裏側にそっと手を当てた。一瞬淡く光ると、豪華な装飾が消えて真っ暗な空間が現れた。
この椅子はどうなってるのだろう。表側を覗き込んでも普通の椅子だった。飾りが多くて直角な背もたれは、とても座りにくそうな玉座だ。
「さて、入ろうか」
淼さまは屈んで僕の手首を掴んだ。真っ暗な空間に入ろうとする。
「こ、ここここここここに入るんですか?」
ものすごい吃り方をしてしまった。こんな暗闇に入って大丈夫なのだろうか。淼さまが一緒なら大丈夫な気もするけど、ちょっと怖い。
「そうだよ。私も行くのは久しぶりだけどね」
即位してからは初めてだと言う淼さまは、僕の知っている淼さまより少しだけ子供っぽく見えた。ほんの少しだけだ。
淼さまに腕を引かれるまま、暗闇に足を踏み入れる。椅子の中に入った感じはない。中はかなり広いようだ。淼さまが一歩進む毎に灯りが点き、少しずつ中が見えてくる。
少し進むと降りる階段があった。どこまで続いているか分からない。貴燈山で沸ちゃんと下りた階段を思い出させる長さだ。
「淼さま。どこへ行くんですか?」
淼さまはもう僕の腕を掴んでいなかったけど、なるべく離れないように付いていった。
「魄失のところへ」
離れないようにと思っていたのに、無意識に足を止めてしまった。その間に淼さまは進んでしまい、慌てて早足で追い付いた。
「は、魄失って大丈夫なんですか?」
「何が?」
「え……」
魄失は身体を奪おうとするから危険だと教わった。実際、煬さんも魄失に足を制御されて、本体も狙われていた。火精が有利なはずの金精だったにも関わらず、だ。
「まぁ、一般的に危険と言えば危険だけど、ここには奪える他者もいないしね」
そもそもどうして王館に魄失がいるのだろう。焱さんも先生も魄失を退治していたのに、ここの魄失は退治しないのか。
「雫はどうして魄失が身体を奪おうとすると思う?」
階段を下りながら、淼さまが尋ねてきた。
「え? あの、自分の本体がなくなってしまって、それで未練があって……」
「亡くなるときに未練がない精霊がどれだけいるかな?」
考えたこともない質問に答えは出なかった。
「長命な精霊で、もう寿命を全うした、充分生きた、と普段は思っていても、いざ死を前にするともっと生きていたいと、思うみたいだよ」
「皆、未練があるってことですか?」
話が難しくなってきた。皆が未練を残して亡くなったら、皆が魄失になってしまう。
「皆とは言わないけどね」
階段の終わりが見えた。その先は上りの階段があるように見える。突然明るさが二倍になって少し眩しい。細めてしまった目で辺りをよく確認すると、上りの階段に見えたのは壁一面の鏡だった。
淼さまが鏡に手を伸ばすと、腕は鏡に吸い込まれていく。水鏡のようだ。淼さまは腕を引っ込めると、その手を僕の肩に置いた。
「ここからは雫だけだ」
え。
「中に入って、古の魄失に会っておいで」
ぼ、僕ひとりで? 魄失に会う!?
そう言ったはずだったのに声は出ず、口をパクパクさせてしまった。金魚のようだと現実逃避した頭のどこかで考えていた。
「大丈夫だよ。そこまでの危険はない。王太子は皆通った道だから」
そんな……王太子みたいな強者たちと僕では雲泥の差がある。いや、比較するのもおこがましい。雲と泥に失礼だ。
「行っておいで。私はここで待っている」
「は、魄失に会って、どうし、どうすればいいんですか?」
貴燈山で会った黄金虫が脳裏に過る。僕は軽くパニックに陥っているようだ。言葉がうまく出てこない。
「何もしなくていいよ。道なりに進んでいればその内戻って来られるから」
本当にちゃんと戻って来られるのか心配だ。襲われたらどうしようという不安で頭がいっぱいだ。淼さまが僕の背中に手を当てて先へと促す。淼さまは特に緊張した様子もなく、少し微笑んですらいた。
淼さまを見ていると大丈夫な気がしてきた。促されるまま鏡の中へ一歩を踏み出す。水鏡というよりも、まるで霧のカーテンをくぐったように感触が薄かった。肌にまとわりつく湿度は感じるけど水圧はない。
中は予想よりも明るかった。少し安心して歩を進めると、前の明るさとは対照的に後ろが暗いことに気づいた。階段を下りたときと逆だ。階段では進むほどに先が明るくなっていたのに対し、今は進めば進むほど後ろが暗くなっていく。
引き返せないぞと言われているようだ。暗い空間から何か出てきそうで怖い。どこから魄失に襲われるか分からないのだ。早く帰りたい。暗い後ろを時々振り返りながら、無意識に歩く速度が上がっていた。
『なンか来た』
来た!




