07話 理術の失敗と成功
「あの爺…」
いったい雫に何を教えた。
しっかり眠りについた雫を寝台に入れる。その手には本が抱え込まれたままだった。
第二代水理王の書き上げた水理術指南書の第一巻だ。割と重要な書物だったり、原則持ち出し禁止だったりするのだが、今取り上げて起こしたら可哀想だ。
よく見ずに手渡してしまった私が悪い。いや、そもそも持ち出し禁止のこの本を雫が持っているのは、あの爺が許可を出したからに違いない。
「全く……」
残った権力の無駄遣いだ。何が引退した身だ。
自分の太子時代を思い出す。あの爺は、渇きを読めと言って、私に長い廊下の雑巾がけをさせたり、潤いを聞けと言い、氷の張った池の掃除をさせたり、と散々だった。
しかし、それはそれとして、いったいどんな教え方をしたらこんなことになるのか。
「こちらは無事か……」
懐から一滴の雫を取り出した。簡単には溶けない氷の瓶で守られた一滴が目の前で揺れている。まさかこの最後の水を使わせることはないとは思うが、雫自身が無意識に使ったとしたら、私でも漣でもどうしようもない。
雫は覚えていないだろうが、泉があった頃は自由にその水を扱えていたはずだ。その感覚を思い出さないとも限らない。
今、この雫を失うわけにはいかないのだ。未だ続く水精の長い争い……流没闘争を終わらせるために。
雫の部屋を出て執務室に戻った。机の上には山積みの書類が残っている。半分は未処理の案件。こっちは一晩で終わるだろう。もう半分は処理済みの流没闘争に関する資料と書類だ。
雫には申し訳ないと思っている。
この争いを解決するために、あの子を巻き込んでしまっている。だが、涸れるべき泉を助けてはならないのが理ならば、涸れるはずのない泉を救うのもまた理だ。
理によって世を治める理王もまた理に縛られる。理違反か否か、そのギリギリの境界線を見極めなければならない。
本来は雫の成長をもっとゆっくり待つつもりだったが、そろそろ良い潮時だ。向こうが痺れを切らしつつある今が一気に叩く機会だ。
「さて、どう動くか」
大量の書類の一角に目を落とした。
◇◆◇◆
「気の理力 命じる者は 雫の名 理に基づいて 形をば為さん……『水球』」
部屋を水浸しに……淼さまが言うには、湯浸し事件の次の日、僕は水球を作れるようになっていた。あの事件をきっかけに周りの理力を読み取り、自分の意思で自由に扱えるようになった。
「はぁっ、はぁっ」
「少し休まないと、また調整が効かなくなるよ?」
大きい水球を作るのは少し疲れる。集中力を切らせたら、また前のようになってしまうかもしれない。でもだからと言ってその都度休んでいたら上達しない。もっと練習しないと。
「はぁ、はい、でももう少し」
「あぁ分かった、分かった。お茶入れてくれる? 二人分」
「あ、はい。かしこまりました」
ここは淼さまの執務室だ。
恐ろしいことに僕は執務室で特訓をしている。それというのも、淼さまが『周りに重要書類とか、無駄に高級な家具とか、なんかの王とかあれば、緊張感があってうまくいくんじゃないか?』と仰ったからだ。
何かの理王……いやいやいやいやいやいやいやいや。
失敗出来ないどころか緊張しすぎて集中できないと思う。そう思ったのだけど、案外すんなり出来た。
でもまだすぐに息切れしてしまう。淼さまはきっと、僕が休憩しないのを見かねてお茶を入れるように言ってくれたのだろう。
部屋の隅にある食器棚から淼さまの茶器と僕の茶器を取り出す。いつもここで食事をしていたせいで、あってはおかしい僕の茶器がおいてある。もちろん先生と初めて会ったときに使った高級な茶器とは全く別だ。
二人分の茶葉を入れて少し蒸らしていると、淼さまから声をかけられた。
「水球の次は何て?」
茶葉が浸ったお湯を眺めていて反応が遅れてしまった。こういうお湯も出せるようになるかなぁとぼーっと考えていたところだった。
「水球の他は練習しないの?」
質問の意図が伝わらなかったと思われたかもしれない。淼さまは僕が答える前にもうひとつ質問を重ねてきた。
「えっと、先生に言われたのは水球のことだけで、次何をしたらいいかちょっと分からなくて。指南書の頁通りではないみたいなので」
淼さまにお茶とお菓子を出しながら答えた。予習もしようと思ったのだけど、進めるところが分からないのだ。最初から始めようと思っても、不思議なことに内容が読めなかった。一文字一文字は読めても、何文字か進める毎に分からなくなってしまう。
僕の理解が足りないのかと思って書き写してみても、数文字書くと滲んで読めなくなってしまう。紙やインクを変えても駄目だったので、きっと僕にはまだ使えないと言うことなのだろう、と理解した。
「ふむ」
淼さまは少し考えながら焼き菓子を齧っている。お茶を片手に寛ぐ姿も威厳があって素敵だ。
「雫、私は事情があって直接教えてあげられないんだけど、十六頁を開いてごらん。とだけ言っておこうか」
「はい。十六頁ですね」
淼さまはあとは知らないという様子で、お茶を片手に持ったまま書類に署名している。流石淼さまは器用だ。僕は淼さまに言われたとおり十六頁を開いた。
『氷結。名前の通り凍らせるために用いる理術。空気中の水分を直接凍らせるのは、最上級理術『大気氷結』であるため、練習するには不向きである』
ふむふむ。なるほど凍らせる理術か。
あれそういえば……読める、読めるぞ! あんなに読めなかったのに! スラスラ内容が頭に入ってくる。不思議だ。
顔を上げて淼さまを見ると目があった。こっちを見ていたらしい。でも、すぐに逸らされた。事情があって教えられないと言っていたから、理王は教えてはいけないみたいな決まりがあるのかもしれない。気にはなったけど触れない方が良さそうだ。そのまま続きを読むことにした。
『――練習する場合は、あらかじめ水を入れた器を用意するか、『水球』を取得し発生させた後に行うのが好ましい』
水球。そういえばさっきの水球は……?
そう思って再び顔をあげ、キョロキョロと部屋の中を見渡す。あった! 水球がひとつ窓の近くにふよふよと浮かんでいる。取りに行こうとしてちょっと思いとどまった。
これ、もしかして周りの理力を使えばこっちにくるんじゃないかな。
空気中の水分が流れるイメージをする。すーっと音も立てずに水球がまっすぐ帰って来た。
「やった!」
思わず大きな声が出てしまった。両手で口を押さえて淼さまをみるとこっちを見ようともしていなかった。きっとわざとだ。帰って来た水球を手にして詠唱をする。
「えーと、在るものよ 命じる者は 雫の名 理に基づいて 形をば変えん……『氷結』」
ピシピシピシッ! と気持ちのいい音を立てて水球が一気に凍りついた。二つか三つ作れば雪だるまならぬ氷だるまが作れそうだ。
「お見事さま」
パチパチと言う音がする。泡が弾けるような音に似ているけど、振り向くと淼さまが拍手をくれていた。
読んでくれてありがとうございます。