71話 束の間の平和
四章 金精韜晦編が始まりました。宜しくお願いします
平和な日々が戻ってきた。王館に帰って来て勉強の合間に掃除をしたり、淼さまとお茶をしたり、なんとも優雅な日々だ。
途中だった理術の勉強も再開された。久しぶりの授業では、ガチガチに緊張してしまった。先生が元理王だと知ってしまったからだ。不審がる先生に理由を説明すると、悪戯がバレたような顔をした。
「まだ明かすつもりはなかったがのう。あの火理王め」
火理王を小僧なんて言えるのも、淼さまのことをアヤツなんて呼べるのも、元理王だからだ。
「理王と茶を飲むことはできるのに、元理王から教わるのはそんなに緊張するかの?」
それもそうだ。どちらも僕にとっては雲の上の方であることに変わりはない。でも現役理王の淼さまでは緊張しなくて、元理王では緊張するというのも失礼な話だ。
淼さまにも先生にも尊敬している。先生が緊張されるとやりにくいというなら、今まで通りに接しよう。
ただ、バレてしまったなら……と勉強の内容が少し変わった。
「では、復習するかの? 円の面積を求める式は?」
「えと半径×半径×πです」
数学術というらしい。時代が変わっても絶対に変わらない理の塊だそうだ。
「よろしい。では座標軸において、円の中心を原点とし、半径が五である円の式を言ってみよ」
「えーと、xの二乗プラスyの二乗イコール二十五です……か?」
教わったばかりだと言うのにちょっと自信がない。だんだん声が小さくなってしまう。まだ詠唱の方が覚えやすい。
「もっと自信を持て。合っておるぞ。では次はこれを解いてもらおうかの」
指南書の指定された問題を解きにかかる。途中で詰まることもあるけど先生がヒントをくれるので、ひとつひとつ解決していく。
「そうじゃ。接点の座標を別の文字で置き、その文字を絡めて接線を求めるのじゃ」
ふむふむ。なるほど。
難しいけど、先生が噛み砕いて教えてくれるので僕でも何とか理解できる。もちろん初めは何を言ってるのか分からなかった。でも少しずつ出来るようになるのが楽しい。
「ふむ。上々じゃの。御上といい、そなたといい、優秀な生徒を持って実に教え甲斐がある」
御上に教えることはあまりなかったがのぅと先生がぼやいている。
「実戦訓練も必要なくなったしの。数学術に力を入れても良かろう」
前々から先生が検討していた実戦訓練は中止になった。ちょっとラッキーと思ってしまった僕は悪い生徒かもしれない。中止の理由は煬さんと戦ったからだ。
煬さんは火の力を基盤に、土の力を持っている。火は水に弱いけど、土は水に強い。また土は木に弱いけど、その木は火を生かす。さらに火は金にも強い。
向かうところ敵なしといった感じだ。
「実戦訓練よりも煬を相手にする方が危険じゃ。火精としては中程度でも混合精としては間違いなく最強クラス……精霊全体でも上位に入る強さじゃろうな」
先生が現役の理王だった頃、煬さんは王館にいたらしい。そんな精霊を相手にして、まともに戦ったら勝てるはずがなかった。自分でもよく無事だったと思う。
「先生、混合精はどうやって生まれるんですか?」
二つの理力が混ざっているのだろうというのは何となく分かる。でも同じ両親から生まれたのに熔さんは火精で、煬さんは混合精だという。この違いは何だろう。
「ふむ……」
先生は数学術の指南書をパタンと閉じてしまった。今日はここまでのようだ。
「魂繋は分かるな?」
魂繋……別の言い方をすると結婚だ。名前の通り、魂を繋ぐことに由来していたはず。
「精霊の婚姻は魂同士を結びつけ、自分と相手の理力を繋ぐことで成立する」
先生が詳しく説明してくれる。魂繋を出来るのは一生に一度。相手が同性なら深い友情で結ばれ、双方の寿命が相当伸びる。片方が無事なら、怪我や病で死ぬことはない。結果として理力の安定をもたらす。
一方、異性との魂繋は寿命が伸びるわけではない。それぞれ怪我もするし、死ぬことも消えることもあるけど、次代を残すことが出来る。
「火精は寿命が短い者が多いからの。意図的に友情を取って同性を選ぶことが多い。しかし、元々寿命の長いものは異性を選ぶ」
なるほど。僕の漠然としていた知識がすっきりしてきた。子供の頃の記憶が戻っているとはいえ、まともに教育を受けていないので新鮮だ。
「魂繋は属性の制限を受けんからの。両親が別の属性だと混合精が生まれる可能性は常よりも高くなるわけじゃ」
しかし、それでもなかなか混合精は生まれないそうだ。大抵は一種類の理力しか持って生まれないらしい。片方の親から受け継ぐこともあれば、全く異なる属性が生まれることもあるというから驚きだ。
「どちらの親とも属性が違うことがあるんですか?」
「そうじゃの。身近な例が近くにおるじゃろ?」
「え、淼さまですか?」
淼さまの両親……考えたこともなかったけど。
「御上ではない。御上は水精の選抜者中の選抜者と言っても良い。名門の家柄とそれに見合う理力、深い知識と豊富な技術……」
やっぱり淼さまはすごい方らしい。先生がここまで誉めるのは珍しい。
「じゃあ、焱さん?」
「そうじゃ。奴の親父どのは水精で、ご母堂は木精じゃが、その様子だと聞いとらんかったか」
火理王に文句が言えんのぅとぼやく先生はどこか楽しそうだ。悪戯を仕込んだようなワクワクが感じられるけど、まだ何か隠していそうな気がする。
「焱も混合精に生まれた可能性がある。煬と仲が良かったのはそういった事情もあるかもしれんの。さて、今日はここまでにするかの」
先生が指南書や資料を重ね始めた。僕は筆記具を片付けながら質問をぶつける。
「先生、魄失って何者なんですか?」
先生の手が止まった。僕の言葉にじっと耳を傾けている。
「前にも教わりましたよね。魄失は魄を失くした精霊で、未練があって魂が残ってるって……」
魄失になる条件はひとつではないと先生は前に言っていた。死と眠りの理を無視して生きようとする者……余程強い気持ちがなければ魄失にはならないと。
「未練だったら熔さんだってあったはずなのに」
混合精の息子、娘、そして弟。彼らを遺して行くことに未練がないわけない。
「もし熔さんが……」
「やめよ」
今までで一番冷たい声だった。短く突き刺さり、僕を黙らせるには充分すぎた。
「それ以上は精霊として全うした熔に対する侮辱じゃ」
先生の目がしっかり開いて僕を戒める。息が詰まりそうだ。
「守られた家族に対してもじゃ。それを忘れるでない」
「……はい」
『もし、熔さんが魄失だったら』……それは遺された沸ちゃん達も傷つける。二度と口にしないと心に決めた。
僕の様子を見た先生は少し息を吐いて疲れた様子を見せた。
「とは言え、知らないことを知ろうとするのは良い心がけじゃ。……御上に話をしておくかの」
先生は僕の片付けを待っていた。まとめた本や荷物を腕に抱える。先生と一緒に部屋から出てその場で別れた。




