65話 水理王の守刀
嫌な音が聞こえた。
体格のいい滾さんに遮られて良くは見えない。煬さんに襲われても滾さんは振り向かなかった。でも僕を掴んでいない方の腕で攻撃を防いだのは分かる。さっきの音は、煬さんの仕込み杖と滾さんの腕がぶつかった音だろう。
続けざまに煬さんが上段の構えを取った。それに気づいた滾さんは邪魔になった僕の身体を投げ飛ばした。
「雫!」
ひっくり返った声で僕の名を呼んだのは誰だろう。次に耳に入ってきたのは大きな水音だった。
あ、温かい。
温泉に落ちたのだと分かった瞬間、異常な苦しさに襲われた。水の中で苦しいと感じたのは初めてだ。水精が水の中で溺れることなどないのに、溺れたのかと思ってしまった。
先ほどから感じている目の痛み。焼けるような喉の熱さと痺れを通り越した指先の痛み。その他表現しがたい苦しさや痛みが身体中を駆け巡る。
これが鉱毒……。
温かいという感覚さえもなくなりつつある。然程深くない温泉に身体が沈んでいく。沸ちゃんの温泉といい、滾さんの温泉といい、今日はよく沈む日だ。
身体が左に傾くのは何故だろう。
あぁ、そうか。刀を差しているから重いのか。
もうなんの痛みも感じない。上がる力も残っていない。もう指の先まで身体が強ばってしまって動かなくなっていた。
足よりも先に鞘が温泉の底に触れた。その瞬間、下から身体いっぱいに暴風のような圧力を受け、あらゆる苦痛が消えてしまった。
何が起こったのか分からない。手を開いたり、閉じたりして感覚を確かめる。硬直していた身体も問題なく動くようだ。
お湯の中にいるのに清々しい風を感じる。爽やかな風……だけど、強力な竜巻に巻き込まれているかのようだ。
その不思議な感覚に浸る間もなく、竜巻の勢いで温泉の外に弾き出された。真っ先に岩壁が視界に入り、ぶつかることを覚悟した。
衝撃に備えて身構えると、予想外に柔らかいものに受け止められた。恐る恐る目を開ると視界がくすんだ緑色でいっぱいだった。颷さんの羽毛にダイブしていたらしい。とてつもなく嫌そうだ。
「ごごごごごごごめんなさい」
颷さんはスルスルと縮んで僕の頭に乗ると、髪を引っ張り出した。
「いたっいたた、颷さん、いたいっやめて!」
今、ブチッと聞こえた。何本か抜かれたに違いない。
「雫?」
「あ、焱さん!」
岩壁に寄りかかる焱さんが目に入った。近くには滾さんが倒れていて、煬さんがしゃがみこんでいる。
僕が沈んでいる間に何があったのか分からないけど、まずは焱さんに駆け寄った。
「良かった! 無事だったんだね!」
「いででででででっ!」
駆け寄って腕を掴むと、焱さんが大声をあげたので慌てて手を離した。顔には脂汗が光っている。
「悪ぃ。ちょっと触らないでくれ」
あっちこっち折れてるからという焱さんの足は変な方に曲がっていた。手の指も腫れ上がって色が変わっていた。
「ご、ごめん。早く手当て」
「今からやる」
焱さんはズルズルと座り込んで、火の鍼を取り出した。きっと僕の母上を治してくれたみたいに治療が出来るのだろう。
「叔父さま、ギル、しっかり」
沸ちゃんの声がする。沸ちゃんは煬さんと滾さんを介抱していた。煬さんは大丈夫そうだけど滾さんは起きる様子がない。
「坊主……何をした」
「え?」
煬さんが杖を支えに立ち上がった。もしかしてまた戦わなければいけないのかな。
「鉱毒を浄化……水精に出来るわけがない。何者だ、お前は」
「え、と僕何も」
煬さんが襲ってくる様子はなかった。杖の刃先はしまわれて普通の杖に戻っている。煬さんは心底不思議そうな顔をしていた。
「坊主も混合精か? 金精との混合精なら重金属を扱えてもおかしくはないが……いや、その純な水の理力でそれはないか」
煬さんがひとりでぶつぶつ言い出した。僕の分析をしているようだけど話に付いていけない。
「水理王の水晶刀だな」
焱さんが話に入ってきた。僕よりも詳しそうなので返答を任せた。
「何だと?」
「なんでも『持ち主が正しい理の元にある時、理過ちを浄化する』らしい」
ざっくりした説明だけど何となく分かった。水晶刀が温泉の底に溜まった鉱毒に触れたことで浄化出来たのだろう。
「ちなみに当代水理王の私物だ」
……それは聞かない方が良かった。またとんでもないものを借りてきてしまった。沸ちゃんの温泉に入った時にうっかり手放したのを思い出してゾッとした。ぶるりと震えた僕を煬さんはますます不審な目で見つめた。
「ギル! 気が付いた?」
「こ……お、れ、ね、さ……?」
滾さんの声は掠れてほとんど聞こえなかった。至近距離の沸ちゃんとは話ができているみたいだ。
「どこか痛いところある?」
「腕、が……」
さっき煬さんに斬られたところだろう。自分の治療を終えた焱さんがゆっくり滾さんに近づいて同じように癒していく。僕は出来ることがないのでただ様子を窺っているだけだ。
「悪い。感謝する」
煬さんが切れ目の入った帽子を手に取って焱さんに短く告げた。黒い髪が額に張り付いて不快そうだ。その隣では滾さんが意識を失ったらしく、沸ちゃんが繰り返し、名を呼んでいる。でも休息が必要なだけで問題ない、と焱さんが声を掛けた。
「残る問題はお前だな」
焱さんはそう言うと黙って弓に手をかけた。炎の矢が煬さんを狙っている。
「叔父さま!」
沸ちゃんが煬さんに駆け寄ろうとするのを、焱さんは目で制した。それが理なら、焱さんの王太子としての仕事を邪魔することは出来ない。
「罪状。水精への残虐行為。金精への略奪行為。火太子への反逆行為。言い残すことはあるか?」
「……罪は認識しております。強いて申し上げるならば、甥・滾、姪・沸に罪状が及ばぬことを望みます」
煬さんは跪いて杖を前に置き、その上に臙脂色の帽子を重ねた。友人ではなく、王太子に対する態度に空気が変わる。
「今後の調査次第では確約出来ない。が、検討する」
「焱さま! 叔父さまはっ」
「黙れっ!」
沸ちゃんは駆け寄ることは諦めたのか焱さんに弁明をしようとしている。先ほどの説明をするつもりなのだろうけど、煬さんに怒鳴られて黙ってしまった。
「失礼しました。あれで気が強いもので」
「熔に似たんだろ?」
焱さんが王太子として接するのを止めた。友人としての二人の時間を過ごしている。
「……違いない。滾は見た目が兄貴に似たが、沸は中身が似たな」
煬さんが穏やかな表情を浮かべた。達成感に満ちたというべきか、疲れきったというべきか。跪いた姿勢を崩し胡座をかき、頭を低くする。
「もう良いか」
隣の沸ちゃんが顔を背けてギュッと目をつぶったのが分かった。身内が目の前で罰せられたら辛いと思う。沸ちゃんの肩を力を込めて抱き締めた。
「熀、二人を頼む」
「断る」
ドンッともゴンッとも言い難い音がして近距離から矢が放たれた。煬さんの足に炎の矢が刺さり、あっという間に燃えあがった。
「ギィャアアァアァーーッ!!!!」
洞窟に悲痛な叫び声が響き渡った。




