06話 理術試用
読んでくれてありがとうございます。
「それで?」
「他に聞き方はないのかの? 仮にも師に向かって」
海に帰るはずの師は、何故か私の執務室で寛いでいる。しかも慣れた様子で棚から茶葉を取り出し、勝手に菓子を食べ出した。
「仮にも理王に向かってそんな言い方をされるとは思いませんでしたよ」
「ふん。口ばかり達者になりおって……まぁ、良い。帰る前に聞いておきたいことがある」
そういう割に聞尋ねる様子がない。海の波が本体であるこの老人は掴み所がなく、何年どころか何百年たっても真意が図りにくい。
「その書類を終えたらの」
私の手元を指差しながら、ちらりと顔を向けてきた。離れている安楽椅子からだったが、視線は強かった。
「雫にも関係することです。待たなくていいですよ」
筆記具を置いて話を促す。さっさと話せと言う意味を込めた。のらりくらりとしていた師も流石に態度を一変させた。
「あの子は何じゃ?」
「何じゃ、とはどこから説明したものか。十年前からですか?」
「十年前にわしが斡旋した……華龍河の救援要請に関係しておるのか?」
「そうですね」
この老人は今日一日を一緒に過ごして雫の状態に気づいたはずだ。
「生まれたばかりの精霊でも使えるような初歩的な術が使えない。かと思えば読み取ることに長け過ぎておる」
師の目は相変わらず開いているのかどうか怪しい。
「雫は記憶の大半を失っています」
「それは昨日聞いた。すべて覚えてないという訳ではないようじゃが……」
そこまで言うと、誤嚥が心配な勢いで一気に茶器を空にした。そして私に聞こえるように音を立てて茶器を置いた。
私に対する警告か脅しだ。
「そなた。何をした?」
直球だ。この老人に隠しても無駄だ。中途半端な誤魔化しは通用しない。
「記憶が曖昧なのは精霊が名を得るまでじゃ。名を得てから記憶が薄れることはない。にも関わらず……」
「真名を預かっております」
師の声を遮った。
今、話さなくてもいずれ分かってしまう。どのみち協力してもらうのだ。明かしておいた方が雫のためだ。
「なんじゃと」
「真名と本体を預り、雫という名を新たに与えました。雫は今、雨伯の保護下に置いてあります」
私の席から師の顔は見えないが恐らく左の眉が跳ねたはずだ。イライラしている時の癖だ。
「雨伯まで絡んでおるのか。それほどまでに緊迫しておるとは。一応は収束したはずじゃが」
「風呂場で襲われたそうです。私の不在中に結界が弱まって隙間から入ったのでしょう」
置いた筆記具をもう一度手にとって、新たな書類の束を山から下ろした。
「未だ流没闘争は終わっておりません」
言い終えるか終えないかの内に、大量の水が発生する気配がした。当然、師も気づき、眉をしかめたかと思えば、歯を見せて笑い出した。
これは……離れの方からだ。
何事だ?
「おぅおぅ。勉強熱心で何よりじゃな」
侵入者……ではない。私が王館にいる以上、結界は万全だ。
だが、少し遅れて雫の叫び声が聞こえてくる。
「雫!?」
慌てて立ち上がったので、執務席の椅子が倒れたが、今それはどうでもいい。
水流に身を包む。離れに狙いを定めて、瞬時に移動する体勢を整えた。
「随分、気に入りのようじゃな。良い傾向じゃ」
水流に紛れて、爺に冷やかされた気がしたが、聞いている余裕はなかった。
◇◆◇◆
夕飯の食器を片付けて、少し今日の復習をすることにした。資料室から借りることが出来た指南書は『初級理術一覧・壱』だ。
指南書には先生も言った通り、二種類の方法が書いてあった。ひとつは本体の水を召喚して使うこと。もうひとつは世界の理力を使うこと。
僕が使えるのは後者だ。どちらも難易度は変わらないと書いてある。少し安心した。
続けて頁をめくる。
『周囲に満ちた世界の理力を用いる場合は、理力がどのように流れているか読み取ることが重要である。
流れを読み取ったら、自分のイメージを作る。イメージ通りの形を作るように理力が流れるのを感じれば自然と出来る』
今日の授業でも、先生が何度か見本を見せてくれた。周りから理力が集まってきて、先生の手の平に渦を巻く。それが水球を作り上げるところまで、はっきり理力の流れを感じ取ることが出来た。
後は練習あるのみ、と言われて時間が与えられたのだ。何としても習得したい。
一呼吸おく。
周りの理力を感じる。見えないくらい小さな水の粒が無数にあるようだ。
手の平を上にする。
水の粒が……水の理力が集まってくるのを感じた。少しずつ少しずつ大きくなっていくけれど、目には見えない。
見るのをやめて目を閉じた。
手の平の上で理力が渦を巻いている。ぐるぐると勢いのいい渦だ。湯船の栓を抜いたときのような……あ、湯船といえば、お風呂を沸かさないと。
思考が脱線した途端、渦が強く大きくなった。ビックリして目を開けると、地鳴りのような音を建てて、お湯が……湧いた。
「うわぁあああぁっ!!」
どっどどどどぅどどどぅどどっどうしようどうしようどうしよう!!
部屋が水浸し……いや、お湯浸しに!
いやこの際言い方なんてどうでもいい!!
これどうやって止めるの⁉
左手を目一杯伸ばして少しでも体から離そうとする。噴水ならぬ噴湯は勢いよく天井を濡らし、僕に跳ね返ってくる。
熱くはない。熱くはないけど前がよく見えない。
「――――! ――く!」
何か呼ばれている気がする。水音でよく聞こえない。滝が逆流しているようだ。
水流の中で突然左手を掴まれた。ハッとした横を向くと、淼さまの白い手が僕の手を掴んでいた。
「淼さまっ……あのっ」
「大丈夫。落ち着いて」
淼さまもお湯を被っている。でもそれを気にせず、僕の左手の下から自分の左手を重ねるとそのままゆっくり握った。その瞬間、ピタリとお湯が止まった。
……と、止まった?
天井からポタポタと雫が落ちてくる。
やれやれといった感じで淼さまが僕から離れた。それとほぼ同時に後ろから笑い声が聞こえた。
「ほっほっ。派手にやりおったな」
振り向くと部屋の入り口に先生が立っていた。パチパチと手を叩きながら近づいてくる。
「ふむ。この様子だと詠唱もなしかの? 最初でこれなら後は掴めるじゃろう」
「あ、先生……お帰りだったのでは?」
僕がそういうと先生はニヤリと笑った。細い目が更に細くなっている。
「そうじゃの。次回の楽しみが出来たし、帰るとするかの。御上、続きはまた今度に」
ほっほっほっという声と波の音を残して先生は消えてしまった。僕の髪からポタポタと数えきれないほどの雫が落ちていく。
「先生……?」
「もうお帰りだよ。それよりもこっちをなんとかしよう」
部屋を改めて見渡すと濡れていないところを探すのが大変なくらい濡れていた。机も箪笥ももちろん寝床も。
今日どこで寝ようか。床も濡れるどころか、水溜まりが出来ている。
「『蒸発』」
淼さまが一瞬で全て乾かしてくれる。今まで水なんてなかったかのようにカラカラだ。
「申し訳ありませんでした!」
僕が土下座しようとすると、腕を掴まれて止められた。土下座で許してもらえるとは思っていないけど、こうでもしないと気が持たない。
「別に怪我がないなら……ないよね?」
黙って頷く。淼さまの顔をまともに見られず、上質な裾辺りを眺める。淼さまの服は濡れていないように見えた。
「寝床も乾いただろうから今日はもう休むと良いよ。疲れただろう?」
淼さまは優しい。優しさが辛くて申し訳なくて涙が出てきた。どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。
「私が教えてあげられれば良いんだけど、理があってそうもいかなくてね」
淼さまは僕が借りてきた指南書を手に取った。それだけはまだ滴るほどに濡れていた。
「こういうのは乾かすとシワになるから……『氷結』」
パンッという音を立てて、本が一気に凍りついた。淼さまが頁を下に向けて小刻みに振ると細かい氷の粒が落ちていく。
その指南書を僕に渡してくれる。ぎゅと握りしめる手に力が入ってしまう。淼さまは僕の頭にそっと手を乗せた。
「本当にっ申し訳……」
「これ以上の謝罪は不要だ。もうお休み」
体温に近いぬるま湯に似た感覚に包まれる。心地よさに抵抗できなくて、そのまま目を閉じてしまった。