05話 精霊の力と理術
翌朝。
指定された資料室へ行くと、早めに来たのに先生が先に来ていた。
「先生。今日から宜しくお願いします」
「擽ったいのぅ。御上からは丁寧な挨拶など一度もなかったぞ」
先生は軽く笑いながら複雑そうな顔をした。
「さて。そこへ座……いや待て」
てっきり資料を読むのかと思ったら、先生は僕の手を引いて廊下へ出た。
「ちょうど前掛をしているようじゃ。この廊下を一瞬で水拭きしてみよ」
習慣で前掛をしてきたらしい。言われるまで気づかなかった。急いでバケツと雑巾を持ってくると、先生は溜息を吐いた。僕はすでに何か失敗をしたらしい。
ひとまずいつも通り雑巾掛けをしてみる。長い廊下をひたすら四足歩行で走るのは大変だ。息が上がる。
「『一瞬』じゃぞ?」
「は、はい……!」
これも理術の特訓なのだろうか、と考えながら走っていたら足が縺れた。
「ゎ……痛っ!」
右側の壁に頭をぶつけ、床に転がってしまった。
「大事ないか? そのまま休憩」
息が苦しくて口が閉じられない。
「良いか、雫。そなたが若く、体力があったとしても、この長い廊下を『一瞬』で拭くことは、物理的に不可能じゃ。頑張ったのは認めるがの」
呼吸を整えながら身体を起こすと、いつの間にか先生は隣に立っていた。
「わしならこうする。『水拭清掃』」
「え……?」
今、波のような水塊が廊下の床を撫でていった……ように見えた。
「どうじゃ? 理術を用いるとこうじゃ。ピカピカじゃろ?」
「水で……拭いた?」
先生の言うとおり床がピカピカに光っている。まるで鏡のようだ。
「そうじゃ。水で拭く。これぞ究極の水拭き」
「これが理術。これなら掃除が速く正確に出来ますね!」
「……………………そうじゃな」
広い王館では掃除に時間がかかる。全て終えるのに何日もかかってしまうことだってある。それに手で擦ってもここまで綺麗にはならない。
理術すごい。是非学びたい。
「何か理解を間違えている気がするのぅ」
先生に袖を引かれて、床を撫でるのを止めた。
「さて……中に入ろうかの」
掃除道具を片付けてくると、今度は本を渡された。早速指定された頁を開く。
『世界は、木・金・土・火・水の五つの要素で構成される。それぞれの理によって世界を正しく導き精霊を管理する者、それが精霊の王・理王である。
精霊は理力を源として生まれ、持つ力に応じて、伯・仲・叔・季の四つの位に分かれる。
理王は理力が正しくあるか常に配慮し、変化し続ける精霊の数や質によってそれを改めなければならない。
理が破られれば、秩序が崩れ、その要素の理が壊れるだけでなく……』
「……先生。すでによく分かりません」
「ふむ。どこまで分かるのじゃ?」
一生懸命読んでいるのだけど、すぐに詰まってしまった。
先生が僕の指南書を覗きこんだ。『世界の成り立ちと管理者たる理王について』という内容がそのまま本の題名になっている本だ。
「五名の理王が存在するということは分かりました」
「む? それは知っておったのではないのか? わしに季位を名乗ったのじゃ。位の編成は分かっておろう?」
先生は腰を伸ばして僕を見下ろしてくる。その目は相変わらず、開いているのかどうか分からない。
「最高位が伯位、次位が仲位、その次が叔位で最下位が季位ですよね。その頂点に理王がいることは知っていましたが、雲の上の話なので人数まで気にしたことはなかったです」
そもそも伯仲叔季の四つの位の内、最下位の季位である僕がこの世界全体の理など知っているはずがない。今まで気にすることもなかったのだ。
ただ存在している。それだけで満足だった。
「なるほどのぅ。確かに高位精霊ならば理王と接触する機会はあるが、叔季は理王の顔すら知らぬだろうな。他の理王のことなど知ったことではないの」
先生が妙に納得した表情をした。高位の先生には馴染みのない話なのだろう。
「問題は後半じゃな。どれ、少し補足するかの。理王とはつまり喞筒じゃ」
喞筒は圧力を使って水を汲み出したり、流したりする機械だ。理王が喞筒……理王が喞筒?
「び、淼さまって毎日水汲みしてるんですか⁉ そんな……僕がやるのに」
淼さまが水汲みしている姿を想像しようとして失敗した。全く想像できなかった上に、先生に即、否定された。
「落ち着くのじゃ。理力とは何か分かるか?」
「え、あ、僕たち精霊が持っている力のことですよね?」
精霊は生まれつき理力を持っている。その理力の大きさで階級が決まると言われている。
「左様。ただし、その答えは半分正解で半分不正解じゃ。理力とは概ね二種類に分かれておる。ひとつは己の本体が有する理力。もうひとつは世界に満ちておる理力、つまり誰でも自由に使える理力じゃ」
「自由に?」
よく分からなかった。とりあえず、復唱してみたけれど分からないものは分からない。
「ピンと来ていないようじゃな」
「すみません」
多分情けない顔をしている。折角いい先生がいるのに、僕が理解できないのは申し訳ない。
「やる気のある生徒が理解できないのは、概ね教える側に原因がある。わしの説明が足りぬようじゃな。では説明の仕方を変える。『氷飲器』『水球』」
先生が僕の前に両手を出した。左手に飲器が、右手には水の塊が浮かんでいる。水球を飲器に入れると、それを僕に差し出した。
「飲んでみよ」
渡された飲器を受け取って一口飲んだ。喉の乾きは感じていなかったけれど、飲み出したら止まらない。一気に全部飲んでしまった。
「旨いか? 塩辛くはないじゃろう? 今飲んだ水はわしの本体を使ったわけではない。わしは小波じゃからの。海水は飲み水には敵さぬ」
なるほど。少し分かった。先生の本体は海の波だから、塩分が濃くてとても飲めない。飲めたということは先生の本体とは別の水だ。
「少し分かったようじゃな。御上の仕事は、世界の理力が滞らないように、清く正しく流すことにある。だから喞筒なのじゃ」
淼さまのお仕事は少しだけ理解出来た気がする。少なくとも水汲みはしていない。
「そなたは自分の理力を使うことは不可能じゃ。残った水が少なすぎる故、使った時点でそなた自身が消えてしまうじゃろう。世界の……周囲の理力を使う他ない」
「なるほど」
指南書に目を落とした。どこかに周囲の理力の使い方が書いてあるのかと、数頁めくってみる。
「本来なら本で学ぶものではない。生まれつき使えるか、或いは周りの者から教えられたり、見て覚えたりするものじゃ」
それはちょっとがっかりだ。僕は誰からも学ぶ機会がなかった。
「落ち込むでない。そのためにわしが指南役としてついたのであろう」
机にふと影が落ちた。顔を上げて先生を見る。先生は厳しい声とは真逆の優しい表情をしていた。
「水は他属性よりも目に見えない部分が多い。凍らせたり、器に入れたりすれば見えるがの。見えずともそこにあるはずの水を読み取るのじゃ」
先生は右手で僕の左手をそっと掴んで上を向かせた。そこに自分の左手を被せる。
「世界の理力を使うなら、手っ取り早いのは大気中の水分を使うことじゃ。『水球』」
先生の左手から生まれた水球が僕の左手に乗っている。身体が後退りそうになって先生に手を掴まれた。
「水精が最初に覚える理術じゃ。本来、最初は自分の理力を使うがの」
先生の手がゆっくりと離れていった。水球が先生の手に付いていこうとする。それを遮るように先生が手を閉じると、水球は僕の手の上で跳ねた。
「まず、周りの理力を読み取って扱えるようにならなければならない」
落としそうで怖い。それに壊れそうだ。思わずもう一方の手を添える。水球は僕の心に反して手で跳ねている。
「とは言え、これをそのまま飲むと旨くはない故、飲料用は少し手を加えるがの」
「飲料……あ! 汁物作るとき、汲みに行かずに済みますね!」
意外と水汲みは時間がかかる上に、体力も使うので一苦労だ。
「……………………そうじゃな」
先生の目が半分くらい開いていた。何か残念なものを見るような目をしている。
「練習すれば僕も使えるようになりますか?」
「無論じゃ。そうなってもらわねば困る。世を当代で終わらせるわけにはいかんからの」
ピシッと氷の飲器にヒビが入り、後半の先生の言葉を聞き取ることが出来なかった。
「さて、そなたが一滴の雫でも、御上がちゃんと理力を巡らせている限り、理術を使えると思ってよい。しっかり励むのじゃよ」
「はいっ! 頑張ります!」
誰かから何かを教わるのは、淡さんから掃除の仕方を教えてもらったとき以来かもしれない。
先生の講義を終えたときにはもう夕方だった。有意義な時間だったけど、あまり身体を動かしていないのにお腹が空いてしまった。
空腹で部屋へ戻ると、都合よく夕飯が用意してあった。
一瞬、淼さまが用意してくれたのかと思ったけど、淼さまからは、外出が増えるので食事はいらないと言われている。
誰が用意してくれたのか分からないけど、空腹には耐えられない。ありがたくいただくことにした。
今日は朝から先生の講義だったけれど、明日からはしばらく自習になるらしい。先生は一旦自分の領域に帰るそうだ。
その間、初級理術の『水球』を練習するように言われた。
練習することに意義があるから、出来なくても落ち込まないように……と、僕の不出来さを見越した言葉を残して、先生は去っていった。実際、僕はまだ何も掴めていない。本当に使えるようになるのか不安だ。
早く理術を使えるようになりたい。そうすればもっと淼さまの役に立てる。
温かい食事を摂りながら、早く練習をしたくてうずうずし始めていた。
読んでいただきありがとうございます。
ほのぼのしてるように見えますでしょうか?
次回はほのぼのの裏側もご覧いただければ……




