04話 三者面談
翌日。
朝食後、淼さまが僕に会わせたい方がいると仰るので、片付けをしてから大急ぎで執務室に戻った。
淼さまはいつも通り執務席で書類を眺めていて、一方、安楽椅子には見慣れない老人が座っていた。淼さまに促され、老人の向かいに掛けると、すでに僕の分までお茶が用意されていた。高級な茶器だ。
「で、御上。わしを呼ぶだけ呼んで用はないのですかな?」
目の前のご老人は……きっとものすごく強い。身体に力が収まりきっていない。しかも理王に対してこの堂々とした態度。一体何者なのだろう。
そして僕は何故、この方の向かいに座っているのだろう。
「用ならお分かりでしょう?」
淼さまは書類から目を話さずに老人に返した。紙をめくる軽い音と、判を押す重々しい音とが交互に聞こえる。
「はて。最近めっきり老いぼれましてな。世の中に疎くなりましたわ」
ほっほっほっと笑っているけれど、こっちは笑えない。心臓が潰れそうな威圧感がある。茶器を持つ手が震えているのはこの老人が怖いからか、それとも高級茶器が怖いからか。
「その様子だと、まだまだ元気ですね。あまり虐めないでください」
目がギラッと光ったような気がした。その細い目はちゃんと開いているのか定かではないけど、確かに視線を感じる。正直恐い。
「はて何の事やら。あぁ、御上が年寄り虐めをしている話ですかな?」
「二度は言いませんよ。貴方からはいつも一度しか説明されなかったので」
説明され……? どういうこと? と口には出せないけれど、頭の中は疑問でいっぱいだ。
「やれやれ大変優秀で結構。まあ、理王がこれくらいで譲歩しては世の理は治まらん」
ふっと老人の気配が変わった。溢れていた力の量が大幅に減った。まだ、とてつもない力には違いないけれど、息をするのが少し楽になった。
強い力に先程までの威圧感ではなく、悠々として穏やかな、柔らかな……そうだ。
「母上みたい」
「ほう。わしの力を華龍河の流れと見たか」
しまった!
声に出ていた。慌てて口を抑えてももう遅い。高齢の男性に対し、母上を思うなど失礼だった。
「す、すみません」
「別に構わんぞ」
老人はすっかり冷めているお茶を一口啜った。けれどお気に召さなかったのか、眉間に皺が寄っている。茶器に蓋をするように片手を被せ、外したときには茶器から湯気が上がっていた。
どうやって冷めたお茶を温めたのか。
何故、母上のことを知っているのか。
聞きたいことは色々あるけど、迂闊に話し掛けられない。
「雫。この書類をそちらの禿爺に渡して」
「あ、かしこまりました」
淼さまの机から手が伸びている。急いで取りに向かうと、まだ禿げとらんという典型的な突っ込みが入った。
老人の髪は、淼さまより色の濃い銀髪だ。毛量はかなり豊かだと僕も思う。前髪を全て後ろに撫で付けた型は、ちょっとやそっとの風では揺らぎそうにない。
「雫。その方は私の先……」
淼さまの言葉が不思議なところで刻まれた。しかし聞き返す間もなく、淼さまは続ける。
「先生だった方だ。王太子時代に色々叩き込んでくれた強者だよ」
なるほど。先生ならば、淼さまが敬語を使っているのも納得だ。
「ほっほっほっ。生徒が優秀すぎて叩き甲斐がありましたな」
淼さまはすごく嫌そうな顔をしている。でも、言い返すことはしない。
「さて、どちらから自己紹介するかの」
淼さまの先生は、僕から書類を受け取りながら今度はうっすらと目を開けた。澄んだ青い瞳は細くとも飲み込まれそうだ。
「あ、えっと、僕は……僕から致します。季位で元・泉の雫と申します。ご挨拶が遅くなり申し訳ありません」
誰かに自己紹介など暫くしていなかった。する相手がいなかったから。
「元・泉のぅ。素直じゃな。わしは小波の漣。位は明かさぬが許してほしい。先ほど御上が仰ったように、太子時代の御上の教育をしておった者じゃ」
理王の先生というからには、僕が想像できないくらい凄い方なのだろう。けれど、淼さまが誰かに教えを受けている姿が想像できなかった。
身体が沈みそうな柔らかい安楽椅子に戻った。足に力を入れていないと後ろに倒れてしまいそうだ。
「礼儀を欠く詫びとして、少々詳しく応えようかの」
位を明かさないことは礼儀を欠く行為らしい。漣さまはやや前のめりになって僕に向き直った。
「母御とは古い知り合いじゃ。そう頻繁に会うわけではないが、思慮深い方じゃったな」
母上の知り合いに会うのは初めてだ。ちょっと嬉しい。しかも他人からの高評価だ。母上を誇らしく思う。
「最後に会ったのは十年ほど前じゃな。その前は確か御上の戴冠式だったかの」
戴冠式に出るのは高位精霊だけだと聞いたことがある。母上は上から二つ目の位・仲位だから出席できたのだろう。……ということは漣さまも高位精霊だ。
尤も、理王の先生なのだから高位で当然だ。
「教えるのはそんなところかの」
「そのまま雫の理術教育をお願いします」
淼さまが話に入ってきた。
今、僕の教育って言った?
「確かに華龍どのの子なら素質もあるじゃろう。しかし御上よ。わしはもう後進の育成は終えたのじゃ。静かに余生を送りたいのじゃよ」
漣さまは身体をゆったりと安楽椅子に預けている。僕が同じような体勢をしたら態度が悪くなりそうだ。
漣さまの閉じかけた目は僕をじっと捕らえている。確実に視線を感じるのだけど、実際見えているのか謎だ。
「第一わしに教育させるということが、どういう意味か分かるじゃろう?」
漣さまの視線は僕に向いたままだけど、声は淼さまに向けられている。教え子を諭すような言い方だ。
「理術ならば、それ相応の教え方が出来る者がいるじゃろう。それに泉と小波では力の使い方が異なる」
漣さまに僕の教育をさせたい淼さま。それに対し、必要以上に関わりたくないといった感じの漣さま。二人の間で話が平行線を辿っているようだ。
「雫はただ『一滴の雫』です」
「今はそうでも元は泉。泉だった頃の記憶があるじゃろう」
今度は淼さまからもじっと見られている。二人とも僕の答えを待っているみたいだ。
「実は……泉があった頃のことはよく覚えていなくて」
「何じゃと?」
不適切な発言があっただろうか。凄まれて思わず口ごもってしまう。漣さまに怒られているような気分だ。
「覚えておらんとはどういうことじゃ。母御のことはしっかり覚えておるじゃろう?」
そう、僕は泉としての過去があった。
それは確かだ。
大河である母がいて僕を疎んじる兄弟がたくさんいた。その中に優しい兄が一人いた。
それは覚えている。でも自分がどうやって泉の精として存在していたのか。どうやって泉を管理していたのか。漠然としか覚えていない。
「十年も前のことなので、忘れていることも多いです」
僕がそう言うと漣さまは黙ってしまった。
「ふむ。それは後で御上に聞くとしよう」
「それを読んでください。貴方への暫定指示書です」
漣さまは手にした紙に視線を落とした。今まで意図的に見るのを避けてきた気がする。
「任命書は後で出します。報酬は書いてある通りです。雫にある程度の理術を学ばせて下さい」
「ふむ。今、何が出来るのじゃ? そなたはこの十年で何を学んだ?」
何か淼さまにも同じことを聞かれた気がする。ここで淼さまの好みを答えては駄目だ。
「理術に関しては何も出来ないようです」
僕への質問に淼さまが答えると、漣さまの動きが止まった。
「どういうことじゃ。何も学ばせなかったのか? ということはこの子の意思を確認しておらんな?」
漣さまが淼さまを責めるように口調を少し強めた。
淼さまは悪くないです。悪いのは僕なんです、淼さまを責めないで下さい。……そう言える勇気が欲しい。
「本人の意思も確認せずに……」
「では、雫がやるといったら、貴方も引き受けるということですね」
「それはまた……」
「雫、こちらへ」
「はい」
淼さまの前に立つと、淼さまは書類を下ろして僕をじっと見上げてきた。
「雫にはもっと生活の中でゆっくり学んでもらおうと思っていた。だが事情が変わってしまった。雫には前もって相談すべきだったとは思うけど、明日からはここで漣どのから理術を学んでほしい」
僕は何の問題もない。ここに住まわせてもらっている対価が、家事労働から理術の勉強に変わるだけだ。
淼さまに恩返しが出来るなら何でも良い。
「僕はここに住まわせて頂いているだけで幸せです。淼さまがそうしろと仰るなら喜んで致します」
背筋を正して淼さまに返答する。すると、淼さまは手を組んだ姿勢を崩さないまま口角を上げた。
「……御上。罪悪感はないのですか」
一方、漣さまの声は悲愴的だ。淼さまの側を離れて漣さまの目の前に向かった。漣さまは顔を覆っていた手を外して、細い細い目で僕を見上げた。
「漣さま。よろしくお願いします」
「本当に素直な子じゃな。仕方あるまい。老体に鞭打つとするか」
漣さまがスッと立ち上がった。自分のことを年寄りだと言っていた割に動作が俊敏だ。背筋もまっすぐ伸びていて僕より背が高い。
漣さまは僕の肩にポンと手を乗せ、淼さまの前まで数歩進んだ。一瞬、淼さまと視線を交わし片膝を付く。
「御下命を」
「改めて、理王の名において季位・雫の教育を命じる」
「拝命致します。御上」
明日からは理術の勉強だ。
ところで理術って……何だろう。
高位精霊の伯位と仲位がいますが、雫の母親は仲位で、漣は実はもっと上です。なかなか話が進みませんが、次回は雫の様子に少し触れたいと思います。