水太子選考会⑩最終話
水太子選考会から数日後。
消は初代水理王の元へ行き、無事に王太子の試練を果たした。
立太子の儀を数日後に控え、招待状を送ったり、任命書を作ったりと少し忙しい。
「御上ー。手が止まってるわよ」
添さんが新しいお茶を出してくれた。
「添さん、演はいつ戻るのかな」
「雫さま。つい先程もお聞きになりましたよ。夕刻にはお戻りかと思います」
添さんの代わりに潟が答えた。やや呆れ顔だ。
「先代さまと水太子が一緒にいるのは当然でしょ。不満なの?」
「いや、全然」
演は朝から水太子の教育に付きっきりだ。今日は儀礼の作法を一日で仕込むと張り切っていた。
「それは意外ですね。消にヤキモチを焼くかと思っておりましたが」
「それは全くないね。むしろ好感が持てるよ」
それに関しては自分でも不思議なくらいだ。演と並んでいる消を見てもヤキモチを焼くどころか、微笑ましいとさえ感じる。
「夫婦を通り越して一心同体とでも言いましょうか」
「じゃあ、なんで書類が進まないのよ」
潟の言葉に被せるように添さんが捲し立てた。明日までに片付けておきたい書類が山積みだ。
「ん? 演が視界にいないとやる気が出ないからね」
時間と質とやる気はそれぞれ掛け算だと言うが、僕の場合はやる気が零だ。
「雫さま、自信満々に発する言葉ではありません」
「だめだ、これは。仕事にならないわ」
添さんは手にしたお盆を振り回しながら、奥の方へ入ってしまった。
「ちょっと沰ー、先代さまのこと連れてきて。太子教育この部屋でやるように言って」
「はっ! かしこまりました」
新人側近が走って出ていった。
「沰には水流移動の許可は出さないのですか?」
「今後のことを考えると、矢鱈と自由に移動できるのも良くないかなと思って」
王館内での水流移動は本来なら理王と太子に許される。伯位は自分の領域や本体と王館の行き来が出来るが、王館内は許可されていない。
演の理王時代、王館に誰もいなかったから、潟や添さんも暗黙の内に許可されていた……というより禁止されていなかっただけだ。
僕が理王になったからといって、二人に禁止することは考えていない。
ただし、この先、消が理王になって新たに誰かを王館に上げたときのために、あやふやな理は締め直さなければならない。
そう思って、沰には悪いけど水流移動の許可は出していない。
「慣れてきたら執務室に飲器を常置するから、そこへの移動は許可するよ」
すでにある水場へ移動することは許可するつもりだ。でないと今みたいに走っていくことになって効率が悪い。
そんな話をしていたら大きな水柱が立った。
「雫が呼んでるって?」
水柱がパッと散って演と消が現れた。消は荷物のように抱えられている。
「おかえり、演」
「ただいま、雫」
演は荷物……元へ水太子を潟に預け、僕の机に腰掛けた。
「太子は何かあったのですか?」
潟が太子を長椅子に寝かせながら尋ねた。
「立太子の儀の練習は終わったんだけどね。席次を確認していたら急に倒れたよ」
「席次?」
「あぁ、雨伯とか大精霊の名代とかの説明をしていたら、スーッと」
それは納得だ。雨伯はまだ分かるにしても、伝説級の大精霊の名前まで出てきたら正気を保てなくても仕方がない。
「た、ただいま……戻りました」
肩で息をしながら沰が戻ってきた。
「ご苦労」
ヒラヒラと手を振りながら演が沰を労った。
「それで大精霊の名代は誰が来るの?」
「さぁ? 今頃大騒ぎだろうね」
選考会のあと、なかなか帰らず、案の定、選考会まで滞在しようとしていた。
招待状も出していないのに理違反だ、という演の言葉で逃げるように去っていったけど、今度は誰が来るかで揉めていそうだ。
「滴を可愛がろうとしてくれるのは嬉しいんだけどね」
「ちょっと鬱陶しいね」
そう言いながらも演の背中はちょっと嬉しそうだった。
「そういえば、何とか滴さまと接触しようと必死だったわね」
「滴さまの可愛さと聡明さを見れば、ご親族でなくても知り合いたいものです」
潟と添さんが二人で頷いている。沰は話についていけず、首を傾げていた。
「滴といえば今どうしてる?」
「ちゃんと敬泣湖にいるよ」
滴は王館から出ていった。
ちょうど消や沰と入れ替わるように自分の意思で出ていった。
太子が決まった今、自分がいることであらぬ疑念を抱かれるかもしれない、と雨伯から在館大使の任を解いてもらい、自分の領域に落ち着いた。
しかも、解任の建前として選考会での敗北を据えていた。子供らしからぬ考えだけど、それもまた滴らしい。
敬泣湖の近くには華龍河がある。何かあれば、いや何もなくても母上が毎日会いに行っているに違いない。
「寂しいな」
「そうだね」
立太子の儀には来るだろう。子供でも彼は伯位だ。招待状は出すつもりだ。
「こんなに早く子離れするとは思っていなかったよ」
「本当にね」
夫婦でしみじみしてしまっては、他の面子に申し訳ない。
「そういえば御上。早く沰の役職も考えてね。このままじゃ雑用係になっちゃうわよ」
「いえ、自分は雑用でも十分ですが」
「侍従長は譲りません」
「その内、滴の空いた枠に雨伯一族から側近が入るだろうから、それも考えないと」
改めてやることが山積みだ。
これを一人でこなしていたのだから演はすごい。
ため息をつきかけたとき、また水柱が立った。かなり小さい。
「ちちうえー、かあさまー。お邪魔いたします」
「「滴!」」
突然現れた息子の姿に大きな声が出てしまった。その声で消が起きたようだ。
「滴、どうしたんだ?」
「事前に連絡を出さずに申し訳ありません」
「いや、執務室なら問題ない」
正式な謁見なら手続きが必要だけど、ほとんど身内だけの執務室なら大丈夫だろう。雨伯のように雨雲を連れてくると大事だけど。
「何かあったのか?」
「実は儀礼用の衣装を王館に置いてきてしまったようなのです。それを取りに伺いました」
滴は敬泣湖に行くときに必要な荷物は持って出たはずだ。忘れ物とは我が子ながら珍しい。
「あ、確かに! 滅多に使わないので、滴さまのお部屋ではなく、倉庫にしまいました」
倉庫は添さんに管理を任せている。一緒にしまってくれたのだろう。
「添ちゃん、出してくれる?」
「勿論です。滴さま」
添さんは足の向きを変えたところで、ふと僕に向き直った。
「御上、この際、沰に倉庫の鍵を預けても良いかしら」
「良いよ。添さんに任せる」
本来なら添さんは書記官だ。他の仕事が多すぎる。
「ですって、行くわよ。沰」
「は? はっ!」
沰は添さんに振り回されているように見えるけれど、逆に言えば添さんの信頼の証だ。この数日で、添さんの信頼を得るとは、沰はなかなかいい働きをしているようだ。
「かあさま、新しい太子はどこですか?」
僕ではなく、演に尋ねるあたり、滴は分かっている。
「そこに転がっているよ」
演が長椅子を指し示すと消がちょうど起き上がったところだった。
滴はタタタッと駆け寄ると、長椅子の背に手を掛けて、爪先立ちで消を覗き込んだ。
「理王と先代を前にして寝るとは、無礼だがなかなかの度胸の持ち主と見える」
どこから声を出してるのか聞きたくなるような低い声だった。幼児とは思えない。
「しかし、選考会を勝ち抜いた上、玉座の下の試練も突破したと聞いた。ならば器に相応しかろう」
見かねた潟が滴の両脇に手を入れて、自身の腕に抱えた。滴は消から離されても目はずっと消を捕らえている。
「先代と当代理王をよろしく頼みます」
圧力をそのままに滴は潟の上から頭を下げた。
「は、はいぃぃ、こちらこそおおぉお」
消は慌てて立ち上がって滴に挨拶をした。放っておいたら跪きそうな勢いだ。滴にはそう思わせる気迫があった。
「滴、折角来たんだから、添が戻るまで一緒にお菓子でも食べよう」
「はい、かあさま!」
潟に抱かれたまま滴は満面の笑みを見せた。
「僕も休憩するよ。消も起きたなら一緒にどうだ?」
「は、はいぃぃぃ、いただきますぅぅぅぅ」
皆で長椅子に座った。潟は滴を下ろすとお茶を用意しに立った。消は自分の存在を消そうとしているけど、無意味だ。
消の隣に演が座り、僕の隣に滴がやってきた。
「消、もっと堂々としたほうがいい。このままでは儀に臨めないぞ」
「は、はあぁぁ。気をつけますぅぅぅ」
消はよく分からない返事をした。でもやるときはやる精霊だ。大丈夫だろう。
「ちちうえ」
「ん?」
「ちちうえの立太子の儀のこと教えてください」
「僕の?」
滴が僕の膝に乗ってきた。ずしりとした重さを感じると数日離れていただけなのに、成長を感じる。
「ちちうえの儀には参列できなかったので、お話を聞きたいです」
参列できないと言うなら演の立太子の儀だってそうだ。だけど、僕の方が現在に近い。消の立太子の儀に参列するに当たって予備知識が欲しいのだろう。
「僕の立太子の儀はね。爽快だったよ」
歩く度に氷柱を踏ませようとされたこと。
演説中に咳払いで邪魔されたこと。
それを、雨伯が思い切りやり返してくれたこと。
「だけどね。ずっと僕の立太子の儀を心待ちにしてくれた方がいてね。なのに、その方は当日、来られなかったんだ」
膝の上で滴が息を飲んだのが分かった。顔は見えないけど、眉が寄っていそうだ。
「……その方は何故来られなかったのですか?」
「僕たちを守るために、自分を犠牲にして……ひとりで大きな仕事を抱えてしまったんだよ」
漣先生のことも話さなければならない。
「消の儀には大事な精霊は皆来てもらおうね」
「は、はいぃぃ、母が来ると思いますぅぅ」
消だけではない。僕が教育するであろう次代の儀も大事な精霊は必ず来て欲しい。
「でもその方は、ちちうえが立派な理王になられて安心なさっていると思いますよ」
「そうかな、ありがとう」
滴に慰められてしまった。この子のためにも、そして消のためにも、更にその次代のためにも、僕が平和な世にしなければならない。
滴の頭に自分の額をくっつけた。
「必ず平和な世にします、先生」
滴が頭が少し動いた。何故か先生が頷いた気がした。




