40話 雨の降る日
静かすぎて目が覚めた。部屋の暗さからまだ明け方だろう。良く寝たはずなのにまだ薄ら暗い。
なぜこんなに暗いのだろう。そう思って庭に出ると静かに雨が降っていた。遠くで雷もなっている。
庭の水場で顔を洗うのはあきらめて、両手の上に水球を作った。
そこに顔を突っ込むと冷たい。とても冷たい。鳥肌が立ってしまった。温度調整はまだ苦手だ。
使い終わった水球を庭にポイッと投げ、顔を雑に拭った。少しだけ寝坊してしまったことを除けば、いつも通りの朝だ。
前髪から拭き取れなかった雫が滴ってくる。どこか色が違うように見えるのは、天気のせいだろう。
それにしても何だか頭がスッキリしない。身体も重く感じる。のそのそとした動きでようやく着替えを終えた。
兄の事件から七日。僕の生活に特に変わったことはない。先生の授業を受けて、空いた時間で掃除をして、ご飯を食べて、眠って……。
ただあれから淼さまに一度も会っていない。騒動が落ち着いてもまだ忙しいのだろう。
ひとりで簡単に朝食を済ませてしまう。食欲もあまりない。洗い物は後回しにした。先生が来る前に資料室で待機しなくては失礼だ。そう思ったのに。
「おぉ、雫。早いのぅ」
「お早うございます、先生」
先生の方が先だった。先生は来るのも帰るのも一瞬だと最近になって知った。何でも伯位になると、本体と王館を自由に水流移動できるらしい。伯位に昇格したばかりの母上も使っていた。
それを教えてくれた先生もやっぱり伯位なのかと尋ねたら、少し悩んだあと、孟位だと教えてくれた。聞いたことのない位だ。結局、詳しくは教えてもらえず、はぐらかされてしまった。
先生がじーっと僕を見ている。僕を、というよりも僕の頭を見ている。鏡を見ないで来てしまったから、寝癖でもついてたかもしれない。
「ふむ。わしにとっては見慣れぬが……」
「寝癖ついてますか?」
手で髪をグッと押さえる。
「なんじゃ、確認しておらんのか? さては、鏡を見ておらんな」
ず、図星です。
先生は黙って水鏡を出してくれた。宙を漂って近寄ってくる。その動きに合わせて覗きこんだ。
茶色の瞳に碧の髪。
誰、これ。
「華龍どのより少し淡いかのぅ。深さの違いか。はたまた河と泉の違いか」
わしゃわしゃと自分の髪を両側から掴む。鏡に映っているのは間違いなく僕だ。見慣れない碧色の髪。茶色はどこへいったのだろう。
「早く御上の驚く顔が見たいのぉ」
先生はいたずらっ子の顔をしている。悪いことを企んでいそうなのに憎めない表情だ。
「淼さまはやっぱりお忙しいんですか?」
「理王会議が終わったとは聞いておらんからな」
七日前に開いた会議がまだ終わっていない?
僕の疑問を読み取ったように先生が続けた。
「理王会議は一定の結果が出るまで閉会しないからのぉ。あれはなかなかキツいぞ」
七日丸々会議し続ける……信じられない。ご飯とか睡眠とかなくても平気だというのは最近聞いた。けれど、それでも疲れは溜まるはず。淼さまは大丈夫だろうか。先生は何故か遠い目をしている。
「なんじゃ。嬉しくないのかの? 本来の姿を取り戻したのに」
これが僕の本来の色らしい。美蛇から理力を取り戻した結果だ。
「もちろん嬉しいです。けど」
「けど?」
喜ぶべきことだ。でも全身で嬉しいと感じることが出来ない。睡眠不足のように頭が朦朧としている。
「なんか頭がぼーっとしていて……」
「あぁ、確かに顔色が良くないの」
先生が近寄ってきた。僕より背が大きいはずなのに、なんだかいつもよりちょっとだけ小さい気がする。
「先生。背縮みました?」
「誰が年寄りじゃ」
面積の小さい先生の目がギラッと光った。気がした。
「ち……違いますっ」
「ふん」
先生が僕の額に手を当てる。ひんやりと冷たくて気持ちいい。思わず目を閉じた。
「ふむ。雨酔いじゃな。復活したての泉に雨水が混じっているんじゃろう。普通は生まれて間もない精霊がなるんじゃが……」
先生の声が頭に入ってこない。先生の手が心地よくてそのまま眠ってしまいたい。
「……聞いとらんな」
ハッとして目を開けた。先生の手が離れていった。
「今日の授業は中止じゃ。炊事も掃除もせんで良い」
「え? じゃあ、何をすれば」
僕から勉強も仕事もなくなったら何が残るのだろう。やることがなくなってしまう。
「何もせんで良い。体調が悪いときに学んでも吸収できることは少ない。少しゆっくり過ごすと良かろう」
開いてあった指南書を先生は閉じてしまった。
「わしも今日はここで調べ物をすることにしよう」
「はぁ」
完全に授業の雰囲気ではなくなってしまった。何となく居心地が悪い。
「ここにいても良いが、部屋に戻って休んで良いぞ」
「じゃあ、部屋で休みます」
居ても邪魔になりそうだ。先生にそう告げて資料室を出た。さっきよりも頭が重い。気分も悪くなってきた。
歩みも重く自分の部屋に戻り、寝床に突っ伏して意識を手放した。
『ははうえー』
小さな両手に小さな水球を乗せて、数人の輪の中へ入っていく小さな影。
『あらあら。涙も水球を作れるようになったのですね』
『涙すごいじゃない! じゃあ、今度はお姉ちゃんが氷結を教えてあげるね』
『ず、ずるいぞ! なら俺は波乗板を教えてやるよ!』
小さな子供たちが、更に小さなひとりの子供を取り合っている。全員同じような碧の髪色だ。
『何言ってんの! 涙に波乗板はまだ早いでしょ!』
『……乗る。一緒に』
『あ、いいね! 涙を乗せて遊びに行こうよ』
『賛成! ねぇ母上良いでしょう?』
『そうですね。良いですが、母の河から出ては行けませんよ』
『はーい!』
両手に水球を乗せたまま戸惑う幼子。それを余所に話はどんどん進んでいく。
『涙、おいでー。僕の波乗板はすっごく速いんだよー』
『お、俺のはすっごくでかいんだぞ!』
『あたしのだって!』
取り巻かれるその光景に懐かしさを感じながら、小さくなっていく影を見送る。
あれは僕だ。
幼い日の僕。こんな……こんなに穏やかな日を忘れていたなんて。
サラ……サラ……と静かに音がする。一定のリズムで葉が擦れるような音だ。葉が川に落ちてきたのだろうか。ゆっくり目を開けると、淡い色で視界がいっぱいだった。擦れる布が邪魔で少し首を動かすと、輝く銀髪が視界に入った。
「び」
「起きなくて良い」
持ち上げようとした頭を軽い力で戻された。またサラ……サラと同じ音が聞こえてきた。淼さまが僕の髪を撫でているらしい。
「雨酔いだって?」
淼さまが手を止めずに尋ねてきた。尋ねるというよりも確認だ。
「はい。そうみたいです」
「キツいと思うけど、今、雨水に慣れないと後々辛くなるから少し我慢だね」
久しぶりに会ってこんな状態とは情けない。淼さまは僕の寝床に腰かけて、身を捻っているようだ。
「淼さま。会議は終わったんですか?」
「一応はね」
淼さまはそれ以上語ろうとしない。手は相変わらず僕の髪を撫で続けている。
「……弟か妹がいたらこんな感じだったかな」
「淼さまにですか?」
ため息の準備みたいに、大きく息を吸うのが聞こえた。
「私も末子だからね。雫と同じように」
知らなかった。淼さまから自分のことを話してくれたのは初めてだ。今まで知らなかったことはちょっと寂しいけど、淼さまのことを少しだけ知って嬉しさもある。
「ご兄弟は多いんですか?」
僕はとてもいっぱいいる。兄のせいで少し減ってしまった。しかも今まで関わりがなかったから正確には分からない。でも百くらいいると思う。
「兄が四人だ」
もっと詳しく聞きたかったけど、淼さまの手が止まった。身体の捻りを戻したようだ。
「雫。雨が止んだら……」
不自然な間が空いて淼さまを見る。けれど、淼さまの背中しか見えない。
「出て行って良いよ」
三章が始まりました。引き続きお付き合いいただければ嬉しいです。




