417話 演の帰還
演の姿が見えなくなってしまった。段を降りようとすると、何かに足首を掴まれた……気がした。
勿論、誰もいない。屈んで確認してみても何もない。
……父上。
この下には父上がいる。僕に、待てと言っているようだ。父上は今回、姿を見せなかった。以前は地下から簡単に現れたこともあったけれど、今回は違った。
見守るという言葉の通り、口も手も出しては来なかった。今もきっと地下から僕の……僕たちの様子を見ているのだろう。
僕がそうしている内に、闇の中から懐かしい唄が聞こえてきた。
圧せや圧せ
果てなき闇よ
この世の行の全てを呑みて
この世の悪を懲らしめよ
抱けよ抱け抱け
偉大な闇よ
この世の行の監視を務め
この世の善を護り切れ
唄が終わると、謁見の間に広がっていた闇が正面から僕に迫ってきた。視界は闇のままで避けることも構えることもできず、ただそれを受け止める。壁にぶつかったような衝撃で闇が僕の魄を通り抜けていった。
圧縮された闇とでもいえばいいのだろうか。全身に闇を投げつけられたような……とにかく痛い。特に顔が痛い。
咄嗟に玉座の背を掴んで、倒れることは避けられた。
しかし、今度は眩しさに目をヤられた。平常でも眩しいであろう光量に、闇に慣れつつあった目はかなりの痛手を受けた。
両目を片手で覆うと、懐かしい唄が流れた。
照らせや照らせ
一の光よ
この世の行の導師となりて
この世の悪を戒めよ
為れよ為れ為れ
光の筋よ
この世の行の輝望となりて
この世の善を繋ぎゆけ
また衝撃が来ると思って身構えていた。今度は正面からではなく、上からだった。光の重さに耐えられず、目を瞑ったまま後ろに倒れてしまった。
歴代の理王に受け継がれる創造の唄。この唄を僕は何度か聞いている。
火理王が火太子を助けたとき。
土理王が土精たちを助けたとき。
五人の理王が世界を救ったとき。
そして、この唄を懐かしいと思う理由は……。
この唄を初めて聞いたのは、演が僕を助けたときだ。
正しい理に生きる者は理によって守られる。だから僕は涸れるべきではないと、演は後々言っていた。
目を開いても、眩しさに傷つけられた目は謁見の間の様子を見ることが出来ない。
でも、今まで感じなかった演の理力を、感じ取ることが出来た。隣にある玉座から、とても強い理力が肌を刺してくる。
相変わらず強い理力だけど、そこまで凶悪な理力だとは思わない。
手探りで座面を撫で、背を掴んだ。
演が……演の魂がここにいる。
「演」
返事があるわけではない。背を掴んだ手に力を込めて立ち上がった。玉座の側面に額を付けて、祈りを込める。
「演。僕と……」
演の苦しみも、悲しみも、怒りも……辛いことは僕が半分引き受ける。
その分、僕の喜びも、楽しさも、嬉しさも、半分あげるから。だからーー。
「僕と魂繋してください」
「いいよ」
演の返事が聞こえた。幻聴がするほど僕は演を愛している。玉座の背に額を擦りつけた。
「椅子と魂繋するのか?」
「え」
反射的に顔を上げた。まだ目は見えていない。うっすらと、人影らしきものが動いている。
「私と魂繋するんじゃないのか?」
「演……?」
幻聴……ではない?
「ベルさま?」
「演でいいよ。ベルでもいいけど」
影が玉座に着いた。
戻らない視界がもどかしい。椅子の縁を辿って膝を着き、肘掛けに両手を乗せた。横から玉座をじっと見つめていると、人型の輪郭が動いた。
「目が見えないのか?」
聞き慣れた声が耳を撫でると同時に、両目に冷たい手が当てられた。
ひんやりと心地よい……演の手だ。その手がすぐに外されたのを惜しむ自分がいた。
「そんなに見られると照れるよ」
そう言われて、演の顔を凝視していることに気づいた。
演の顔だ。冷たい手も、女性にしては低い声も、白くて骨が透けそうな指先も全部、演だ。
瞳は僕の知る濃い色ではなく、更に、背中に流れる髪も……いずれも漆黒だった。夜空を流れる天ノ川のようだった銀髪は、夜空そのものを思わせる黒髪に変わっていた。
「演……」
「うん」
「演」
名を呼ぶ他に、言葉が出てこない。何かを言う代わりに横から抱きしめた。演は首に絡まった僕の腕を宥めるように撫でている。
「演……おかえりなさい」
「ただいま、雫」
鼻を掠める黒髪は、時折向きの変わる光を反射していて、まるで星を取り込んだような美しさを孕んでいる。
「雫、苦しい」
「あぁ、すみません」
抱きしめる力を込めすぎた。でも離したくない。腕の力を緩めるだけにした。演は僕の腕をポンポンと叩き、苦笑しているみたいだった。顔は見えないけど、表情は想像できた。
「雫」
「……何ですか? 離しませんよ」
僕も理王相手に言うようになったものだ。
でも、折角くっついたのに離されるは嫌だ。演の肩に顔を埋めて離れることを拒んだ。
「分かったから、そのままこっち向いて」
にやけている自覚のある顔を向けたくない。でも後頭部に冷たい手を当てられて、顔を上げるように促される。
演に巻き付けた腕をそのままに、仕方なく顔を上げた。演の顔が近すぎてボヤケている。どうせなら、ちゃんと顔を見ようともう少しだけ顔を引こうとした。
けれど後頭部を抑えられていて動かせない。演が笑った気配があって、冷たい手に力が込められた。
口の端に冷たくて柔らかい感触があって、それが演の唇だと気づくのに時間が掛かってしまった。ビックリして思わず顎を引こうとして、頭を抑えられていることを思い出した。
演の鼻から零れる静かな息遣いとは対称的に、僕の心臓は喧しく脈打っている。心臓が口から飛び出しそうだ。たけど、このまま心臓が飛び出したら演の口に僕の心臓が入ってしまう……などと、おかしなことを考え始めるくらいに、僕の頭は混乱していた。
演は顔の向きを変え、僕の唇を端から端まで撫でて離れていった。
今度は演の顔がハッキリ見える。きっと僕は間抜けな顔をしているに違いない。でも演から目を逸らしたくない。
「熱い、熱い」
「野暮なこと言わないで黙ってなさい」
時と暮さんの声がした。二人の存在を忘れていた。いることを認識しても、今の僕の頭は演でいっぱいだ。
「私、演は、水精・雫と魂を繋ぎ、生涯の伴侶とすることを誓う」
演に見つめられて、僕から理力がごっそり抜けていき、代わりに新しい理力がドォッと雪崩れこんできた。




