39話 新たな戦いへ向けて
「魄失!? それは確かですか」
「間違いない。わしが確認したのは十三体じゃがの。寄ってたかって渦を奪おうとしていたの」
母上は口元を手で押さえている。更に安楽椅子の上で後ろに倒れそうになっていた。淼さまは何も言わずに額に手を置いてしまった。僕はまた通り置いてきぼりだ。
「すみません、魄失ってなんですか?」
「……雫、その説明は時間がかかるから後で先生に教わるように」
「丸投げかの!?」
先生の冗談めかした突っ込みを無視して淼さまは深刻な顔をしている。茶器を手に取って中を覗きこんだ。
「漕、理王会議を開く。至急戻れ。各王館に知らせに廻れ。あぁ、火理は除いて良い」
漕さんのお呼び出しだ。漕さんはいつもどこから来るんだろう。
「漣どのは申し訳ないが理王会議に同席していただきたい。魄失の件、詳しくお話しください」
「引退した身……と言って逃れられる話ではないの。仕方あるまい」
珍しく先生が素直に頷いた。一体何がそんなに皆を緊張させているのだろう。魄失とは何だろう。
「焱、火の王館に戻って良い。貴方が王館を離れるにしても、会議と火理の意見を待ってからだ」
「分かった。失礼する」
焱さんが安楽椅子の上に立った。背が高いから余計大きい。またなと口の動きだけで僕に告げて大きな炎に包み込まれた。火が収まった後に焱さんの姿はなく、部屋がちょっと煙たくなった。
「私は会議の前に任命書を作ってしまおう。執務室に戻る。皆はここで待て」
一瞬でいなくなった焱さんとは対照的に、淼さまは静かに歩いて応接間から出ていった。部屋には先生と母上と僕が残った。
「雫よ。親子水入らずで過ごさせてやりたいところではあるが、今の内に教えておこうかの」
「魄失ですか?」
先生は黙って頷くと僕から視線を外した。今度は母上のことをじっと見ている。威圧するほどの視線ではないけど母上は少し気まずそうにしている。
「申し訳ありません。魄失のことはほとんど教えておりません」
「謝る必要はない。初めから教えれば済むこと。どこまで知っておるか確認したかっただけじゃ」
先生は少しだけ姿勢を正して、軽く衣服を整えた。話を改めるときの先生の仕草だ。
「雫。精霊とは一体なんじゃ?」
「え?」
僕たちのことだ。当たり前過ぎて逆に答えが分からない。今までで一番長くて短い授業になりそうだ。静かに、厳かに、先生の話が始まった。
精霊とは万物の象徴。川・山・海など自然そのものを母体として生まれる者もいれば、雷などの自然界で起こる現象を母体として生まれる者もいる。
先天的でも後天的でも、名のある者は人の姿をとることが出来るが、これは魂に刻まれた名を核に理力を集め、人の形に出来るからである。
「ここまでは本体の話じゃ。分かるか?」
「分かります」
僕にとっての泉。母上にとっての河。先生にとっての小波だ。焱さんや淼さまの本体は何だろう?
「精霊は本体がないと生きられない」
しかし、と先生の話は続く。
本体がなくなってもまた復活することがある。枯れた木からまた芽が出るように、干上がった川がまた流れ出すように。
「そのため、身体の死は我ら精霊の死とはならない。身体の死はただの眠りじゃ。我らの言う死とは精神、つまりは……魂の死じゃ」
魂の死……そういえば兄が言っていた。『母上はもうすぐ死に至る』と。あれは魂が死ぬという意味だったのか。例え、河が無事でも魂が死んでしまえば生きられないし、復活も出来ないということだ。
「水から上がった寄生性原虫は、精霊の身体に取りついて魂だけを喰う生き物じゃ。いくら身体が無事でも魂が死ねば精霊としては終わる」
「それが魄失ですか?」
「まぁ、待つのじゃ。その理解は逆じゃ」
先生にお茶をすすめられた。凍っていたはずのそのお茶は温かい湯気が上っている。それを一口飲んで少し落ち着いた。どうやら僕はかなり前のめりになっていたらしい。
「精霊の身体のことを魄と言う。魄失とは身体を失っても眠りにつかず、未練がましくこの世に留まる者達のことじゃ」
身体が魄で、精神が魂ということか。精霊は魄がなくても魂がなくても生きられないらしい。
「あれ、でも身体は復活することもあるって、さっき仰っていましたよね? 身体が復活するまで、眠りにつかずに待っていることは出来ないんですか?」
「出来ぬことじゃ。一旦眠りにつかねばならん。生きているのか死んでいるのか分からないような……目が覚めるかも分からない深い深ーい眠りにの」
僕も泉が涸れたとき、そうなる運命だったのだろうか。上下の瞼がくっつきそうな感覚だったのは微かに覚えている。でも今更あの時のことをわざわざ思い出したくはない。
「魄失になる条件のひとつは強い未練があることじゃ。死と眠りの理を無視して生きようとする者じゃからの。余程強い気持ちがなければなれまい」
強い気持ちか。いったいどれくらい強い気持ちがあれば魄失になるのだろう。
もし、僕があのとき、死や眠りを拒んでいたら、僕も魄失になっていたのだろうか。
「御上に処罰を頂かなければ、美蛇も魄失になっていたでしょう」
それまで黙っていた母上が突然口を開いた。悲しそうな声だったけど、隣を見たら思いの外、表情は明るかった。
「一族から魄失を出さずに済んだこと、御上に感謝しなければなりません」
母上は目を伏せ、ぎゅっと僕の手を握ってきた。冷たくて冷えすぎず心地よい。
美蛇が魄失にならずに安堵している。もしかしたら僕が思っている以上に魄失という存在は禁忌なのかもしれない。
僕が魄失になっていたかも……など間違っても考えてはいけない。
「魄失は何か悪影響があるのですか?」
安心させたくて母上の手をそっと握り返しながら先生に尋ねる。
「大ありじゃ。魄失は『魄』を求める。つまり、他者の持つ身体を奪うのじゃ」
「身体を奪う?」
ガチャと言う音がして応接間の扉が開いた。そんなに大きな音ではなかったけど、ビクッと反応して、肩が勝手に跳ねてしまった。
「お待たせした。二人とも任命書だ。速やかに応じるように」
淼さまから小さな黒い巻物を渡される。母上も同じようなものを受け取っていた。
「華龍どのには申し訳ないが、これで帰還されよ」
淼さまが唐突に母上に告げた。母上は僕の手を放し、髪を引きずりながら黙って片膝をついた。
「まだ身体が回復しきっていない。焱の話では内部がかなり悪くなっていたそうだ。木理に薬を分けてもらうよう頼んでおく。後で漕に届けさせよう」
「御上には感謝しても限りがございません。誠にありがとうございます」
下がれという淼さまの言葉に母上は立ち上がった。僕を振り返って静かに美しく微笑むと、足元から波に飲まれて消えていった。
「あ、えーっと、これはどうすれば……」
この巻物どうしたら良いのだろう。受け取ってしまったけど、読んで良いのだろうか。
「雫よ。御上の任命書は読まずともよい。読んでも良いがの。お受けいたしますとか、拝命しますとか思えば良いのじゃ」
先生にそう促されたので、お受けしますと念じた。その瞬間、巻物が露になって僕に吸収されるのを感じた。
僕の中の奥深くにある魂に、何か刻まれた。これは……まさか。
「叔位?」
不思議な感覚だ。両手をじっと見つめる。特に変わった感じはない。でも、確かに僕の中の何かが変わった。
「それと、これを返そう」
淼さまはそういうと氷の瓶を取り出した。それは僕の身体が一滴だけ入っている瓶だ。長い亀裂が入っている。
「雫が自分の意思で名を取り戻した。本体は残ったままだけど、名と記憶の一部は亀裂から漏れ出て、すでに自ら主の元へ帰っている」
パンッと目の前で瓶が砕け散った。真ん丸の一滴の雫が僕の鼻の頭にピタッとくっついて、先ほどの露と同様に僕の中に入ってきた。とても落ち着く。
「ひとまずは良かったの。これで流没闘争の幕引きじゃな」
「えぇ。ですが新たな戦いが始まるでしょう」
鼻の頭がムズムズするような気がするけど触っても何もない。濡れてすらいなかった。
「なかなか休めんのぅ」
「よく言う。さて、雫は部屋に戻って休むと良いよ。疲れただろう。漣どのは会議にご同行を」
淼さまと先生は戸惑う僕の様子を眺めながらも、その目はどこか遠く未来を見ているようだった。
ここで二章が終了となります。
流没闘争が決着し、新たな戦いが雫を待ち受けます。雫を待ち受ける運命は……
三章の開始は一週間後を予定しています。今後ともお付き合いいただけると嬉しいです。




