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水精演義  作者: 亞今井と模糊
終章 一水盈盈編
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402話 ベルの真名

 胃がせり上がってくるような吐き気がする。唾を飲み込んで無理矢理それを抑え込んだ。

 

 壁に背を付けたまま立ち上がる。膝が震えているのは恐怖ではない……はず。

 

 大丈夫だ。カオスを相手にしたことを思い出せばいい。あのときに比べればマシだ。

 

 玄武伯の巨大な瞳と視線が交錯する。瞳だけで沼が出来そうだ。底なし沼のような瞳だ。小さな沼に例えるなど、大精霊に対して失礼すぎる表現だったかもしれない。

 

 瞳が底なし沼なら、玄武伯は底のない大海だ。底なし海などいうものはないけど、あったとしたら、まさに玄武伯のことだろう。波も渦もないのにズブズブと飲み込まれていくような……そんな錯覚に陥る。

 

 玄武伯の顔が近づいてきて僕に息がかかった。強力な冷気が来るかと思ったのに、覚悟していたせいか、思ったよりも寒くはならなかった。

 

氷之大陸オーケアノスは我が領域にして本体。その氷之大陸オーケアノスに、己の本体たる泉を持ち込むとは、筆舌に尽くしがたい侮辱である』

 

 水球ひとつでこんな事態になるとは思わなかった。氷之大陸に関して、外の理力は持ち込み禁止らしい。

 

 致命的なミスをした。第一印象が大切とはよく言ったものだけど、最悪の第二印象を献上してしまった。


氷之大陸オーケアノスを己の理力で支配しようというのか!』 

 

 沌よりマシだと言い切る自信がなくなった。武器はないし、理術も思うように使えない。その上、味方はいない。応援だって絶対に来ない。

 

 それになにより、僕が玄武伯と戦いたくない。僕の方が弱いとか、戦うすべがないとか、そういうことを抜きにしても戦いたくない。

 

 ベルさまの父上だ。僕の大事な方の家族と争いたくもない。罪もないのに傷つけたくない。

 

「僕の泉を持ち込んだのは、単に……思慮が欠けた僕の過ちです。謝罪します」

『ふん。謝罪で済むと思うか、水太子。氷之大陸において異物の理力持ち込みは大罪。魂魄こんぱく抹消による罰が相当だ』

 

 魂魄抹消、つまり存在を消されるということ。僕らの感覚でいうところの、本体と名の没収に当たる罰だ。

 

「本当に氷之大陸オーケアノスに力を伸ばそうなんて考えていません。僕はただ……」

『かような言葉をいかにして信じろというのか。氷之大陸オーケアノスを背後におけば、これまでに例のないほど強力な後ろ楯を持った理王となる。それが望みであろう!』

 

 だめだ。聞いちゃいない。

 

「僕はそんな強力な理王になれるとは思っていません。ならなくていいんです」


 ベルさまさえ隣にいてくれたら何だっていい。

 

 玄武伯の鼻息がかかった。鼻で笑われたようだ。玄武伯の息は寒いどころか、深く掘った土のような冷たさで、こんな状況なのに心地よい。


『理王の座に就き、権力を手にしたとき、同じことが言えるものか』

 

 玄武伯の言葉は空気を重くした。雰囲気だけではない。広間の空気が水分を孕んで、ずしりと重たくなった。

 

『権力というものは塩水に似ている。飲んでも渇きは癒されず、また次が欲しくなる。欲して飲んだところで余計に喉が渇く。そしてまた次が欲しくなる』

 

 玄武伯の言い方を聞いていると……もしかしたら、かつてそのような理王がいたのかもしれない。


『間もなく即位する太子ならば尚更だ。釈明が通じると思うか』

「僕はまた即位しません。ベルさまの世はまだまだ続きます。続くんです!」

 

 終わらせてたまるか。絶対にベルさまを助けるんだ。

 

 僕がそう言いきると、玄武伯の甲羅から長い軟体物が何本も飛び出してきた。鰻のように真っ黒で滑りを帯びた蛇だ。

 

 壁際にいる僕に向かって口を開け、噛みつこうとしてくる。最初の何匹かは避けられたけど、腕に巻き付かれた。それに気を取られている内に、足や腰を押さえられ、身動きが取れなくなった。

 

 元々後ろが壁、前は玄武伯だ。避け続けるのは限界があった。蛇の一匹一匹は僕の腕よりも太く、それぞれが別の種類の理力を持っている。玄武伯の理力ではない。

 

 でも蛇のからだは不安定だ。まるで魂しかないみたいな……そう、父上の状態に似ている。直に触れられれば試せるのだけど、腕を押さえられていて、そうもいかない。

 

『御上の世が続くだと? 愚か者が。水太子、遅かれ早かれ、いずれ理王の座に就くのだろう』

「そうだけど、そうだとしても……ベルさまと……一緒に……」

 

 ギリギリと首を締め付けられた。ここに来て初めて身の危険を感じた。頭のどこかで、ベルさまの父上が僕を本気で倒そうとするはずがないという、甘えた考えがあったのかもしれない。

 

「かっ……」

 

 咳き込みさえも乾いた音にしかならなかった。

 

『そうか。氷之大陸に手を伸ばすだけでは足りぬか。先代理王を侍らせ、次代を操る……それが狙いか』

「ちがっ……」 

『何が違うものか。太子が理王を配偶者に選ぶのは、そういうことであろうが』

 

 それは違う。金理王さまと鑫さんだって、権力欲しさに付き合っているわけではない。僕だってそうだ。

 

「僕は……理王と……理王のベルさまと魂繋、し、たいんじゃ、ない」

 

 グッと締め付けがキツくなった。まるで僕の言い分を聞きたくないようだ。

 

「理、王で……ない、た、だ……のベル、さま……と魂繋、し、たい」

 

 パンッと破裂音がして、喉に巻き付いた蛇が飛び散った。やっとのことで言葉を紡ぎ終えた喉に、突然空気が入ってきた。


『……今、何と申した?』

「はっ……が……ハッ、ゴホッ」

 

 玄武伯に尋ねられても答える余裕がない。

 

 腕、足、腰……と次々と蛇が弾けていった。何が起こっているのか分からない。でも玄武伯が縛りを解いてくれたわけではないことは確かだ。ズルズルとからだが床に落ちた。

 

 息が調うのを待ちながら、 玄武伯の様子を窺う。玄武伯は目を天井近くにある窓へ向けていた。

 

 その視線は何かを追うように忙しなく動いている。澗さんのところまで視線が下りてきたときには、澗さんも凍り付けから解放されていた。

 

「澗……さ」


 今度は硝子ガラスが割れるような音が頭上から降ってきた。顔を上げたら、砕けた氷が降ってきた。

 

 玄武伯が気にしていた広間の窓が、全て割れていた。キラキラと光を反射しながら落ちてくる様はとてもきれいで、見とれてしまいそうだ。でも頭を守るために腕を交差してやり過ごす。

 

 その直後、今度は波が立った。今まで水があるところなどなかったのに、室内で何故と思うほど大波だ。広間の隅から渦を巻いて、天井へ上り、窓から外へ出ていってしまった。

 

 シーンと静まりかえった広間の床に破片が散乱している。伏せていた澗さんのからだは波のせいで横向きになっていた。

 

「ベルさま……」


 波にからだを包まれた一瞬、とても懐かしい気配を感じた。

 

「今の……ベルさま、ですよね」

 

 目の前の玄武伯に尋ねた。玄武伯は微動だにしなかったけど、甲羅から雫が滴っていた。

 

「ベルさまの本体ですよね」


 玄武伯は目を伏せ、ゆっくりため息をつくと人型に戻った。

 

「そうだ。淼どのが真名を呼んだゆえ、残ったからだが名に従ったのだ」

 

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