401話 異物の泉
澗さんはプイと横を向いてしまった。完全に拗ねた子どもだ。
「黙れ、小賢しい。大事にしおって。大方、淼どのを解放するための策だろう」
小芝居をした澗さんは、肌けた胸元をそのままに腕組みをして、だるそうに答えた。
「ふざけてなどいません。私はいたって真面目です。解放というなら、本気で水門を放っても良いと思っております」
「そんなことは許さん!」
絶対的な力……この際、権力も理力もどっちもだ。それをもった父に対してこの態度。なかなか度胸がある。伊達に逆向きに流れているわけではないということか。
「いくら父上でも私の本体のことです。父上が口出しなさる必要はまったく……えぇ、まったくこれっぽっちも、一滴さえもありません」
そこまで言わなくても。
「ふざけるな! 本気で父子の情を断つつもりか!」
「ま、まぁまぁ」
つい見かねて、何故か止めに入ってしまった。
玄武伯は椅子から少しだけ背を浮かせていたらしく、僕の制止を聞いて深く座り直した。
「淼どの。身内の恥を晒してお恥ずかしい限りだ。また側近の非礼はこの通り謝罪をする。私の指導力の欠如が招いたことだが、どうか氷之大陸の輩がこのような者ばかりではないと、ご理解いただきたい」
高い位置からではあったけど、玄武伯が頭を垂れた。自分より下の者に頭を下げる度量のある方だということは分かった。
「氷之大陸には氷之大陸の事情がおありでしょうから、僕が口出しすることはありません」
玄武伯が半分くらい頭を上げた。向こうが下手に出ているとはいえ、返答を間違えれば地雷を踏む。
「……だから、理解は出来ません。理解する努力も必要ないと思われます。先ほど言われたことが無礼かどうか、興味もありません。どうぞ頭をあげてください」
どうだ。氷之大陸に興味などないアピールだ。玄武伯の好きそうな答えを言ってみたけど、正解かどうかは分からなかった。
玄武伯は顔をあげてから僕を見ようともしなかった。もう話は終わったと言わんばかりだ。
「改めてお部屋へご案内しよう。息子とは離す故、ご安心召されよ」
澗さんが僕を見た。このまま引きさがるのか、と目で訴えてくる。
「お断りします。僕はベルさまと魂繋するためにここに来たんです」
「氷之大陸では私が理だ。淼どの、従ってもらおう」
玄武伯が指を鳴らした。その姿がベルさまにそっくりだ、と思っている内に、澗さんの姿が見えなくなった。
細かい氷の粒が僕の回りを取り巻いている。雪と言って良いのかどうか。結晶の形が規則的な雪と違って、見える範囲で形がバラバラだ。
周りが白くて、僕だけ別の世界に取り残されてしまったようだ。
「淼さま!」
澗さんの心配そうな声が聞こえた。良かった、ひとりではない。気づかない内に別の空間に移されたわけでもない。まだ広間にいる。
また一部分だけ白さが遠ざかり、一本道が形成された。どこの部屋に連れていかれるのやら。今度は澗さんもいないところに通されるのだろう。再び、閉じ込められたらきっと出られない。
「……どけ」
試しに小声で命令してみた。周りの理力は、玄武伯に従うばかりで僕の命令など無視だ。
「頼むから避けて」
下手に出ても無駄だった。いつもなら即、道を開けたり、譲ったりしてくれるのに、やはり一般的な世界の理力とは違う。
「『水球』」
泉から水を呼び出した。ここでは僕の水しかいうことを聞かない。
目の前は真っ白で、どこに何があるか分からない。前方に向かって軽く水球を投げた。白い壁に不自然な穴が開いた。
そこから玄武伯の椅子が少しだけ見えた。でも椅子だけだ。座っていたはずの玄武伯の姿が見えない。
水球が床に落ちるタイミングを見計らって弾けさせた。破裂音を立てて飛び散った衝撃で白い壁が薄れていく。
真っ白だった周りは向こうが透けて見えるほどになった。手で払える程度の氷の粒だ。難なく振り払えた。
ふと隣を見ると、澗さんの姿があった。出会ったばかりだというのに姿が見えただけで安心感がある。
一方、前からは威圧感だ。天井が……もしくは空が落ちてきたのかと、疑うような圧迫感。一瞬だけとはいえ、息が詰まった。
顔をあげると玄武伯は……人型ではなくなっていた。
広間の半分を埋める巨大な亀だ。禍々しいほどの暗さを孕んだ黒い甲羅。甲羅だけでなく、そこから伸びる手足や首も黒い。艶があり、烏珠のような光沢を放っている。
玄武伯は龍ではなかったのか。四人の息子が龍だというから、てっきり玄武伯も龍だと思っていたけど。
玄武伯は首を動かして、椅子の隣へ頭を持っていった。胴体だけになってしまった側近の魄を頭から……元へ、首の付け根からバリバリと食べてしまった。
「まずい。本気で怒ってますね」
澗さんが青ざめている。玄武伯から怒りが感じ取れないのは、ある意味とてもまずい状況かもしれない。
「僕が水球を放ったからですか?」
「うーん、まぁ、そうですね。それもありますけど。思い通りにならないことが許せないのでは?」
何だそれは。まるで駄々っ子のようだ。
「まぁ、それは冗談ですけど」
「また冗談ですか!」
「場を和ませようかなと思って」
残念ながら澗さんの気遣いは役に立っていなかった。まったく和んでいないし、和んでいる場合ではない。
巨大な亀が段を下りてくる。口から腕が一本はみ出していた。
この広い空間が無駄だと思ったのは間違いだった。玄武伯が本来の姿をとるために、ここまで広くしてあるのかもしれない。
背中にヒヤリとした寒気を感じているのに、額からは汗が流れてくる。
玄武伯は咀嚼を終えると、首をさげた。僕が水球を放った場所に顔を持っていき、息を長めに長めに吸い込んだ。
飛び散ったはずの水球が集まって、元の形に戻っていく。息をするのも忘れてその様子に見入ってしまった。
玄武伯が鼻息で水球を吹き飛ばしたところまでは、しっかり見えていた。
また息が詰まったと思ったら、後から腹に衝撃があって、次いで背中を打ち付けた。
「淼さま!」
僕を壁に押し付けただけでは水球の勢いは止まらず、ギリギリと腹にめり込んで、僕を痛め付ける。
自分の水球で攻撃されるとは思わなかった。
「……っ、は」
水球を鷲掴みにして泉に戻した。手が摩擦でヒリヒリしている。
『我が氷之大陸に異物を寄越すとは……何様のつもりか』
玄武伯の声は頭の中に直接響いているようで、強烈な頭痛を引き起こした。その上まで吐き気までしてくる。
どうやら玄武伯の逆鱗に触れたらしい。
遠くから澗さんが僕に駆け寄ろうとしていた。でも僕に到達する前に足止めされていた。全身氷付けにされて、腕が半分ほど上がった状態で固まっている。
「……け……」
澗さんの名を呼ぼうとして咳き込んでしまった。背中を打ち付けたからか、それとも水球に腹を刺激されたからか。
『調子に乗るなよ、小僧』
亀が近づいてくるほど、頭の中で玄武伯の声が暴れまわる。頭痛がひどい。




