396話 決裂
背筋に寒気を感じた。氷の円卓に亀裂が入ったタイミングと同時だったと思う。クモの巣のように広がった見事な模様が円卓に広がっている。
その瞬間を見ていない者は、高度な職人が技を駆使して刻んだのかと思うかもしれない。目を奪われている内に寒気は収まった。鳥肌が立ったのは一瞬で、長々と引きずることはなかった。
玄武伯からは怒りを感じる。会って間もないのに、これだけあからさまに感情が読み取れてしまう。それほど強い感情だ。
怒りだけではない。色々な感情が混ざりあっていて複雑だ。一番強いのは勿論怒りだけど、他に戸惑いと、悲しみと、迷いと、寂しさと…………希望?
「魂繋すればベルさまの余剰理力を僕が引き受けられます。ベルさまの苦しみも痛みも僕が半分引き受けます」
半分などと言わず、全部引き受けられるなら引き受けたいくらいだ。
「ベルさまを助けたいんです」
「滅ぶべき者を救ってはならない」
間髪入れない返答を予期しておらず、こちらが詰まってしまった。その気を逃さず、玄武伯が更に詰めてくる。
「この精霊界において基本中の基本というべき理を淼どのがご存知ないわけがない」
低音が氷の壁に跳ね返って、一部を壊した。ガラガラと透明な壁が崩れていった。声に理力が乗っている。こんなことがあるのか。玄武伯が込めたのか、それとも無意識なものか。
「それは分かっております」
「いいや、分かっておられない」
玄武伯に即否定されようとも、根本的な理は身を持って知っている。全部、美蛇のせいだったと分かってからは滅びるべきだったとは思っていない。けど、当時は救ってもらった後ろめたさもあった。
しかもあのときは最低位だ。季位の自分などが、どうして助けてもらえたのか。ベルさまに何をしたら恩を返せるのか。そんなことばかり考えていた。
「淼どの。我らがこの世界を創造してから、理は少しずつ改訂されている。削除され、追加され……時代に合わせた柔軟な変化が必要だ」
玄武伯が一声あげることに氷の壁から細かい粒が舞って、雪のようにチラチラと落ちてくる。相槌をうつ間も与えず玄武伯は続けた。
「しかし、その根底にあるものは何も変わらない。それが揺るげば理だけでなく、やがて世界が崩壊する。淼どのは我らが創造した世界を蔑ろにされようというのか」
意を決し、反論しようとして息を吸い込んだ。けれど吸った空気が冷たすぎて、喉から声が出なかった。その間にも玄武伯の話は進んでいく。
「例え理王といえど、いや、理王だからこそ理に忠実であるべきだ。理王が危篤ならば王館が崩れる前に淼さまが即位なさるべき。それを魂繋したいという個人的な事情で助けるなどと、もってのほか。太子にあるまじき行為ではないか」
玄武伯が怒っている理由はそれか。僕が私的な感情を優先して、理を蔑ろにしていると思われているようだ。
てっきり『どこの馬の骨か分からない奴にうちの子はやらん』みたいなことでも言われるのかと思っていた。
もし、どこの馬の骨と言われたら、僭越ながら父上の名を強調するつもりでいた。七光りと言われようが、威を借る狐と言われようが構いはしない。
初代理王の子である僕と、大精霊の子であるベルさま。共に始祖の精霊の子だ。自分で言うのも烏滸がましいけど、不釣り合いとは言わせない。
でも僕の予想は全く違っていた。理を蔑ろにするつもりなど毛頭なかったので、考えもしなかった。
「違います。決してそんなことはありません。魂繋したいから助けるのではありません。助けたいから……そしてずっと一緒にいたいから魂繋したいのです。お願いです。ベルさまの真名を教えたください!」
席を立って、頭を下げた。太子よりも上の存在とはいえ、膝を着くことは出来ない。
「……これ以上の問答は無用と見える。おい! 淼どのをお部屋へ案内せよ」
何で部屋に……と尋ねる間もなく、無数の頭に囲まれてしまった。床から僕の腰くらいまである大きな頭がどんどん積み重なっていく。
どちらを向いても頭だらけ。高く積み上がった頭に玄武伯の姿が見えなくなった。
「玄武伯、どういうことですか。何ですか、これは!」
「この氷之大陸で頭を冷やしていただこう」
玄武伯が立ち上がる気配がした。ベルさまの真名を教えてもらうどころではない。王館に帰れなくなってしまう。
「待ってください、玄武伯! 御上が危篤なんです!」
大きな頭を掻き分けようとしたら、すごく迷惑そうな視線がたくさん飛んできた。たくさんの目に見つめられて居心地がすこぶる悪い。
「王館が……玉座が揺らいだら、すぐにでもお送りしよう。即位の儀には必ず出席する故、ご心配めさるな」
「玄武伯!」
呼び止めようとしたけれど、何の意味もなかった。玄武伯の気配は、氷を高温の湯の中へ入れるように、気付いたら消えてしまっていた。
「くそっ……」
悪態をついてもどうにもならない。でも冷静ではいられなかった。振り上げた拳を頭に叩きつけそうになって、思い止まるのがやっとだった。
ここで玄武伯の配下に手を出したら、ますます状況が悪い。試しに水流を使って脱け出そうと思ったけど、やっぱり無駄だった。
頭が動いて、誘導するように一部分が空いた。その先はやはり頭が両側に頭が積み上がっていて、道を作っていた。
どうやら部屋に案内されるらしい。玄武伯がいない以上、ここに留まっていても仕方ない。一旦、大人しく従うことにした。
右へ左へ曲がる頭の壁を道なりに進んで、部屋らしいところへ案内された。やっと頭から解放されたことに正直ほっとした。
危害を加えられたわけではないけど、視線が痛い。今だって、玄武伯に監視されていることは間違いないだろうけど、あまりにたくさんの目に囲まれているのは、気持ちの良いものではない。
部屋を見渡す。
それなりに豪華な部屋だ。さっぱりと片付けられてはいるけど、調度品は質の良いものばかりだ。
手頃な椅子に座り、テーブルに肘をついた。手を組んでその上に額を乗せる。こうしている間にもベルさまは……。
体調が悪化していたらどうしよう。
土理王さまたちが何とか手を貸してくれるだろうか。
漕さんも心配だ。僕の滞在が長くなればなるほど漕さんに負担がかかる。
自然と漏れた溜め息は予想以上に長かった。
「誰か来たのか?」
ひとりだと思っていたら誰かいた。氷之大陸の独特な雰囲気のせいで、離れた気配が分からなかった。
「もしかして、淼さま?」
「貴方は……澗さん?」
奥の間から顔を出したのは、玄武伯の三男・澗さんだった。




