372話 世界の修復
沌は雄叫びをあげながら、両手で水晶刀を直に掴んだ。するとジュッと音がして今度は手が焼かれていた。両方の掌が典型的な低温火傷の色をしていた。
ベルさまは僕に向かって場違いな微笑みを見せてくれた。そして沌の顔も見ずに水晶刀を抜き取った。
沌は天を仰いで顔を両手で覆った。そのせいで傷口は見えない。
「い……つ」
沌が逸を呼んでいる。時を戻して修復しろと言いたいのだろう。
でも逸は反応しなかった。それもそのはずだ。沌の右腕は今、潟が抱えている。そこには確かに逸の気配があった。
今、沌についている右腕は後から生やしたものだ。そこに逸はいない。
逸は元々、沌の一部ではない。自分の右腕に固定していただけの精霊だ。まだ完全ではないけど、逸は自由になったはず。
沌から切り離した以上、従う謂れはない。
剥き出しになった喉に、ベルさまが追加のひと斬りを浴びせ、沌は後ろへ倒れた。
バラバラと奥都城の破片が降ってくる。破片といっても巨大な岩が落ちてくるのと大差ない。中には泰山へぶつかって、更に割れて転がり落ちるものもあった。
「『氷柱牢獄』」
沌が倒れた場所にはベルさまがちゃんと捕縛の用意をしていた。沌が空の彼方へ放り出されようが知ったことではないけど、そのあと、また探すことになったら一苦労だ。
ベルさまが水晶刀を顔の前で立てた。刃は不純物の多い濁った水で汚れていた。でもベルさまがフッと息をかけると、一瞬で元の美しい水晶刀に戻った。
「ベルさ……」
ベルさまが大きく息を吸い込んだので、話しかけるのを止めた。
ベルさまは昇り始めた太陽を背に立っていて、逆光で顔が見えない。
「水」
世界がざわついた。僕の知らない言葉だ。何と言ったのか、意味は分からないけど、命令を下す前の呼び掛けであることは理解できた。
世界中の水が、待っていたとばかりにベルさまの声に反応していた。あらゆる場所のあらゆる水が歓喜している。
ベルさまが世界に向かって命令を下す。
「散らせ、水蒸気。踊れ、潮。参れ、霧雨。湛えよ、海。行け、川。溜めよ……」
次々と下される命令は永遠に続くのではないかと思った。皆、水理王から下された命令に我先にと食いついている。
川も、滝も、池も、海も……皆、正しいあり方へ戻っていく。
もはや理術ですらない。
水理王の命令。ただそれだけ。
「……恐ろしい」
潟がガタガタとらしくなく震えていた。塩湖にも異変があったのかもしれない。
「潟、寒いのか?」
「寒くはありません」
潟の返事は素っ気ないものだった。いつもと様子が違う。本格的に調子が悪いのかもしれない。
「気分が悪いなら帰った方が良い。塩湖の様子を見てくると……」
「違います。お気遣い感謝しますが、御上の理力にあてられて気分がすぐれないだけです」
話すのも辛そうだ。
高位の潟がベルさまの理力にあてられるとは余程だ。
「流石、理王だ」
自分がこの跡を継ぐというのに他人事のように思ってしまう。こんな風に水の理力を従えることが出来るだろうか?
「高位精霊ならともかく、末端の精霊が理王から直接お声がけいただくことは……まずないでしょうから」
自分のことを考えればよく分かった。理王など雲の上の存在だった。
「雫さまは……大丈夫そうですね」
潟が歯をガタガタ鳴らしている。舌を噛みそうだ。
「うん。慣れてきた」
最初こそ肌がヒリヒリしたり、息苦しさを感じたりはしたけど、今は何ともない。
「流石……」
それきり潟は黙ってしまった。顔が真っ青だった。
ベルさまはクルッと振り向いて、王館の方へ魄の向きを変えた。
ベルさまが両手を広げた。世界を包み込むように。ベルさまから理力が溢れている。
「世界の修復を開始。根源たる第一元素・水理王より『創造の詩』」
ベルさまからカッと光が放たれた。予期していなかったので、目を閉じてもチカチカしている。
耳には懐かしい詩が流れてきた。
巡れや巡れ
流れる水よ
この世の行の穢れを集め
この世の悪を凍らせよ
舞えや舞え舞え
飛び散る水よ
この世の行の癒しとなりて
この世の善に渡らせよ
「完了。水理王より木理王へ」
理力が世界に沁み渡り、秩序が帰ってくる。
遠くから木理王さまの声が聞こえた。
「第二元素……拡張を担う木理王より『創造の詩』」
伸びろや伸びろ
不離の草木よ
この世の行の蠹毒に克ちて
この世の悪を跳ね返せ
立てよ立て立て
結える草木よ
この世の行の標となりて
この世の善を集わせろ
「完成。木理王より火理王へ」
木理王さまの詩が終わると、木々に水分が戻ってきたことを感じた。木や草そのものの理力を読み取ることは出来ないけど、生気が戻ってきたことは分かる。
「第三元素、最盛をもたらす火理王より『創造の詩』」
拓けや拓け
燃え盛る火よ
この世の行の腐敗を明かし
この世の悪の毒を焼け
点けや点け点け
揺れ動く火よ
この世の行の温もりとなり
この世の善を照らし出せ
「以上。火理王から土理王へ」
世界が暖かくなってきた。決して暑すぎず、心地よい暖かさだ。火山も活気を取り戻している。湧き出す水も温度が上がってきた。じきに熱湯に戻るだろう。
「変容と維持の土理王より『創造の詩』」
砕けや砕け
積もりゆく地よ
この世の行の境を正し
この世の悪を塵としろ
在れよ在れ在れ
つくるなき地よ
この世の行の頼りとなりて
この世の善を包み込め
「成功。第四元素から第五元素たる金理王へ」
地が固まった。水が暴走してグシャグシャになってしまった大地が元の形へ戻っていった。媛ヶ浦の岸が整備されていく様子がよく分かった。まるで目の前で行われているかのようだった。
「第五元素・秩序を司る金理王より『創造の詩』」
止まれや止まれ
裂き行く金よ
この世の行の打撃を辞して
この世の悪を省みよ
鳴れよ鳴れ鳴れ
煌めく金よ
この世の行の心を映し
この世の善を語り継げ
「金理王より第一元素へ」
理王たちの連名による世界の修復が完了した。
世界は潤いに満ちて
爽やかな風にゆれる草木は瑞々しく
暖かな日差しは優しく
心落ち着く地の守りを受けて
内に純化された理力で溢れていた。
まるで世界が生まれ変わったようだった。




